2019年3月13日 (水)

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯

2018年12月より〈寿郎社〉さんのサイトで違星北斗の生涯についての連載コラムを始めました。

【今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯】

1929年(昭和4年)に夭折したアイヌの歌人・違星北斗の生涯を最新の研究成果をもとに紹介していきます。ご期待ください。

連載のタイトルは、北斗の「人間の誇は何も怖れない 今ぞアイヌのこの声を聞け」の短歌からです。

https://ju-rousha.hatenablog.com/

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(参考)

※以下は、ツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)で違星北斗27年の生涯を、
ツイートで追体験したもの。上記の連載の元となるものです。

【INDEX】

その1  誕生編
その2  小学校編   
その3  反逆思想編   
その4  思想の転機編
その5  修養編   
その6  上京編1
その7  上京編2   
その8  上京編3   
その9  ホロベツ編   
その10 平取編
その11 余市編   
その12 放浪編
その13 闘病編   
その14 没後編

2019年2月 4日 (月)

十人一評 新短歌時代 昭和三年七月号

十人一評

新短歌時代 昭和三年七月号

(前略)

違星北斗

 うらゝかな陽のさす路に子供らとあそびほうける不具の子がある(石川幸吉)

 不具の子。不具の子。もうそれだけで冷いかんじです。偏見に陥り易く、またともすれば一人ぽっちで淋しく遊ぶ…誠に可愛想ではありませんか。けれども此処に遊びほうけてる不具の子は今幸福に酔ふてゐる。外の子供等よりどんなにか嬉しさを強められてゐることでせう。平和の境が眼に見えて嬉しい。然し夢中になって遊んでる子供達の中不具の子がゐなかったらさほど気にもとまらないだらう。それから亦不具の子がゐても仲よくたのしそうに遊んで居さへすればそれでいい……やうなものゝ其処になんとなしに心ひかれるいた/\しさを感じるものは何か?うるほひのある情操の所産はするどい。歌はもとより立派であるが歌としてよりことがらの方がはるかに勝れてゐるのではないでせうか。

(後略)


※新短歌時代 昭和三年七月号

2019年1月19日 (土)

メモ 大正14年ノート 時系列データ 

メモ 大正14年ノート 時系列データ(年表に反映するべきもの)

9月3日(木) 表紙の日付 ノート使い始め

9月5日(土) 表2の日付(四谷区三光町四六 財団法人東京府市場協会内 違星北斗

9月5日(土) P60 『南島研究の現状』法学士 柳田国男

9月6日(日) P63 国柱会『帝大教授 みのべ竜吉(美濃部達吉?)について』

9月6日(日)P107 【金】給料日 40.00円/預金5.00円/靴墨 35/残 15/昼食 20銭/電車賃15/岩瀬様へ 13.00円/〃 2.00円/晩食 10/〃 15

9月7日(月)P107 【金】会費 5.13/昼食 30/氷水 10/シュウス 2.8

9月8日(火)P19 牛込歌倶楽坂倶楽部 月、萩、通題8句

9月8日(火)P106 【金】昼食 25/万年筆ペン先 120/にひはり会費 40/電車賃 15/クリーム 25/そば 15

9月9日(水) P64 市民講座

P64 『経済学』法学士 小林丑五郎
P66 『哲学概論』北吟吉

9月9日(水) 

「(上野より帰りしな 電車内)
静かではあるが平和な祈ではないか
沈黙の力強さ…いたいたしくもあり雄々しくもあり おゝ尊いではないか。
わたしたちの子供の時代、またその次の時代、が来たとき、ぶちのめされた民族
が、こんなに勇敢に立ち上がったことを自慢に語ってきかせたい。この立派な民
族をつくりあげたのは俺たちであると言ってきかせたいではないか。この義務と
責任を負せられた大正のアイヌは人々の光栄としてうらやむことだと思う」

9月9日(水)P106 【金】朝食 20/昼食 25/ヨウジ サック 13/電車 15/晩食(上野にて) 24

9月10日(木)P108 【金】朝食 14/昼食 20/〃 24

9月11日(金)P108 【金】朝 10/(高 300)

9月12日(土)P108 【金】下駄履 25/食 60/インク 35

9月13日(日)P69 (国柱会)天業青年団講演会『思想と生活』政治経済主任 田村益喜

9月13日(日)P108 【金】電車 30/食事 20、32、27/省線電車 26/? 20

9月14日(月)P54 淀橋医院 伊藤保士医師

「幸福は骨折った後にこそ感るもの 不幸は絶対の不幸にあらず コレラの予防注射はコレラ菌を注入する也り こんな事は余り面白いことではない 然に■或時は■■来し事もあったりするのに なぜ それをするか これは これだけの注射でコレラに罹らぬと云ふ後の幸福があるからである」

9月14日(月)P108 【金】食 10、20,20

9月15日(火)P51

「独断をさけてゐる批評こそ実に尊い それが心理の独断である 否 断案である」

9月15日(火)P108 【金】? 50

9月16日(水) P70 市民講座

P70 『経済学』法学士 小林丑五郎
P71 『現代の世相』東京府人事相談所主任 法学士 番正雄

9月16日(水)P108 【金】はがき 20枚/

 P109 【金】石ケン 40/はみがき12(別日の可能性あり)

9月18日(金)P55 松宮春一郎

「人間の在ることをのみを考いて……人類の亡びてしまっても 世界はかいてんすてゐるであろ 人間を主として 考るか 心を主として考いるか 宇宙には絶対力――対しない! 絶対の前に服従する(松宮)  悖りたる時 すなわち 悖らないかもしれないのである」

9月19日(土)P56 「善悪の定義も又然り!!」

9月21日(月)P57 「山岸先生奥様へお手紙を出した 大沼へ手紙を出そうか?」

9月23日(水) P71 市民講座『経済学』法学士 小林丑五郎

9月23日(水)P109 【金】食事 24,50/電車 30/雑誌 80、30

9月24日(木) 松宮春一郎

9月24日(木)P109 【金】替■ 5.00/食事 40/省線 25

9月25日(金)P57 市原先生 「手の研究」

9月25日(木)P109 【金】食事 24/床屋 50

9月26日(土) P48-49

「今手紙をみた「違君 残念だ 僕達はどう■だめだから せめて君ばかりでも偉い者に成ってくれ 僕の分も勉強して~」と 杉本君よ もったいないよ そんなに期待してくれるな 違星を 本当に(君が)みたらがっかりするであらふよ 喜一君 僕にのみ期待するは無理だ」「皆が僕にのみ待つは無理だ 僕だけの人間が どうしてアイヌの代表が出来やうか? 君達が偉くならなかったら だめでせうに」

9月26日(土)P109 【金】○○ 26/はがき 30

P110 【金】電車 30/仏■ 100/絵葉書 25

9月27日(土)P59 淀橋医院 伊藤保士医師「基督教神観図表」

9月28日(月) P72 国柱会『大なる哉聖徳』山川伝之助
P73 『御製講演』田中智学

9月28日(月)「自然を尊んで自然に倣ふ 然して自然に遠ざかるの矛盾をしでかし」

9月28日(月) P49

「髭の薄しい男は大切に髭をたて こき者は妙に顔を苦にする それが人間性よ

 こいても 悪るい うし(す)くても悪。ちょうど良い処は結局ない

 これが人情で 千差万別が 折合ふのが そこであらう その 常に反対の苦が かち会わところであらう さうだ 人間だよ」

「やせたるもの 肥えやうとし 肥たる者やせ様とする」

9月28日(月)P110 【金】? 57

9月29日(火) 『御製』巴学 (P74)

9月29日(火)P110 【金】? 20、14

9月30 日(水) 市民講座『経済学』法学士 小林丑五郎 (P75-77)

9月30日(水)P46 

「人間て云ふものは なさけないものである。わからない 人間の本心程 あてにならない ものはない 普遍の真理の中で普遍動■してゐる 形のない宇宙で 形のない動きをしてゐる 又た形のなかで 形の動きをしてゐる

 元始人には空気が気が附いてゐたであらうか。

現代人はやうやく空気を つかむだ 然し 無限を まだ つかまないでは あるまいか」

9月30日(水) 「冷き北斗」

10月2日(金)P29 (旧十五夜)称好塾 中野亨君 佐原君

10月6日(火)P111 【金】林檎 380

10月7日(水)P111 【金】賄料 222/写真料 120,80/床屋 30/便箋 下駄の鼻緒 30/電車と食料 60

10月8日(木)P111 【金】電報 130

10月9日(金)P111 【金】傘 150

10月10日(土)P112 【金】中里君上京 写真 200、325/どんぐり会費 40/食事 70/電車 50/足袋 50/靴修繕 200/? 50

10月14 日(月) P89 金田一京助(成宗)

「幸福は人生の目的でない。自己の完成に努力すること

 信仰も自己の完成を土台にしたらよいだらう。

 幸福は人生の目的の一部分であって全部でない 幸福はあらてなものであり また 必要もある 汽船を動かし 石炭である 石炭は必要であると同じ様なもの」

10月18日(日)P112 【金】林檎運賃 128/床屋 50/電車 55/食 20

10月24日(土)P30 「冷き空に北斗あり旅の宿」「朝寒を鋸切の音コシリコシリ哉」

10月24日(土)P88 松宮先生

「物事は 心配すること 考いなければならないこと とを一所にしてはいけない 心配な時の考は健全な考いでない」

10月25日(日)P113 【金】奥様 10.00円/勇治くんへ 9.00、5.00/奈良先生奥様へ 盆 80/岩瀬様より サツマ芋6ケ ■■■¥40、里〃2■〃

10月31日(土)「天長節奉祝講演会」
P40『日本人の宗教生活と生祠の信仰』 文学士 加藤玄智
P41『法国の冥合』大僧正 本田(多)日生
P42『我国体の特長』文学士 井上哲次郎

11月3日(火・祝) P32 「明治聖徳記念学会」
P32 『大邦日本の理想』文学士 大川周明
P33『宗教的方面より見たる台湾の民族性』 文(学士)丸井圭次郎
P34『現代的神社』今岡信一郎

11月3日(火・祝)P42
「祖先崇拝は大生命の自覚であつたとしたら
私しの祖先崇拝は大日本の天照大神より
アイヌのエカシの崇拝が重要ではないか」

11月4日(水)P35 市民講座『日本文化史』帝大史料編纂室 中村孝也

11月5日(木)P88 市原先生

「神に支配されてゐる人間は煩悶すべからざる物也。人間は人間と達することは方便でもよい」

11月5日(木)P88 佐藤了翁

「貧困で失廃したものはなし 只だ色慾に失廃するものなんぞ多きや それ昔よりの偉人傑士成功不成功はそれならず 逆境で失廃せず 順境に於いてのみ」

11月20日(金)木村洋品店で19.00円。 

日時不明(水?)市民講座『日本文化史』帝大史料編纂室 中村孝也 (P78-82)

日時不明 『仏教の根本』駒沢大学教授 今津洪嶽 (P83-86)

2019年1月 5日 (土)

『アイヌの姿』


後藤先生

 どういふ風に書いたら今のアイヌに歓迎されるかと云ふことは朧げながら私は知ってゐます。にもかゝはらず本文は悉くアイヌを不快がらせてゐます。
 私は心ひそかにこれを痛快がってゐると同時に、悲痛な事に感じて居ります。これは今のアイヌの痛いところを可成り露骨にやっつけてゐるからであります。若しアイヌの精神生活を御存じない御仁が之を御覧になられたら、違星は不思議なことを言ふものかなと思召されることでせう。殊にコタン吟の「同化への過渡期」なぞに至っては益々この感を深うすることでせう。アイヌを愛して下さる先生にかやうなことを明るみであばくことは本当に恥しいことであります。けれどもアイヌの良いところも(もしあったとしたら)亦悪いところも皆んな知って頂きたい願から拙文をもってアイヌの姿(のつもりで)を正直に書きました。なるべくよそ様へは見せたくはありません。それは歓迎されないからではありません。ナゼ私は私さへも不快な事実を表白せねばならないか。その「ねばならぬ」ことを悲しむからです。只々私の目のつけどころ(ねらひどころ)だけを御汲みわけ下さい。

 永劫かくやと思わせた千古の大森林、熊笹茂る山野、はまなしの花さき競ふ砂丘も、原始の衣を脱いで百年。見よ、山は畑地に野は水田に神秘の渓流は発電所に化して、鉄路は伸びる。巨船はふえる、大厦高楼は櫛の歯のやうに並ぶ。
 かうして二十世期の文明は北海道開拓の地図を彩色し尽した。嗚呼、皇国の隆盛を誰か讃仰せぬ者あらう。長足の進歩! その足跡の如何に雄々しき事よ。
 されど北海の宝庫ひらかれて以来、悲しき歩みを続けて来た亡びる民族の姿を見たか……野原がコタン(村)になり、コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった…………、保護と云ふ美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ…………、腑果斐なきアイヌの姿を見たとき我ながら痛ましき悲劇である。ひいては皇国の恥辱である。
 アイヌ! あゝなんと云ふ冷かな言葉であらう。誰がこの概念を与へたであらう。言葉本来の意義は遠くに忘れられて、只残る何かの代名詞になってゐるのはシャモの悪戯であらうか。アイヌ自身には負ふべき責は少しもなかったであらうか? 内省せねばならぬことを痛切に感ずるのである。
 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生々活をしたと云ふ理由は、簡単明瞭「アイヌなるが故に」であった。現在でもアイヌは社会的まゝ子であって不自然な雰囲気に包まれてゐるのは遺憾である。然るにアイヌの多くは自覚してゐないで、ただの擯斥や差別からのがれようとしていてのがれ得ないでゐる。即ち悪人が善人になるには悔あらためればよいのであるが、アイヌがシャモになるには血の問題であり時間の問題であるだけ容易でないのである。こゝに於て前科者よりも悪人よりも不幸であるかの様に嘆ずるものもある。近頃のアイヌはシャモへシャモへと模倣追従を事としてゐる徒輩がまた続出して、某はアイヌでありながらアイヌを秘すべく北海道を飛び出し某方面でシャモ化して活躍してゐたり、某は○○○○学校で教鞭をとってゐながら、シャモに扮してゐる等々憫むべきか悲しむべきかの成功者がある。これらの贋シャモ共は果して幸福に陶酔してゐるであらうか? 否ニセモノの正体は決して羨むべきものではない。先ず己がアイヌをかくしてることを自責する。世間から疑はれるか、化けの皮をはがれる。其の度毎に矛盾と悲哀のどん底に落つるか、世をはかなみ人を恨む。此の道をたどった人の到達の点如何に悲惨であるかは説明するまでもないことである。吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的でない。いわんやニセモノにおいてをやである。
 けれども悲しむべし。アイヌは己が安住の社会をシャモに求めつゝ優秀な者から先をあらそうてシャモ化してしまふ。その抜け殻が今の「アイヌ」の称を独占しているのだ! 今後益々この現象が甚しくなるのではあるまいか? 優生学的に社会に立遅れた劣敗者がアイヌの標本として残るのではあるまいか?
 昔のアイヌは強かった。然るに目前のアイヌは弱い。現代の社会及び学会では此の劣等アイヌを「原始的」だと前提して太古のアイヌを評価しようとしてゐる。けれども今のアイヌは既に古代のアイヌにさかのぼりうる梯子の用を達し得ないことを諸君と共に悲しまねばならぬ。
 アイヌはシャモの優越感に圧倒されがちである。弱いからだと云ってしまへばそれまでであるが、可成り神経過敏になってゐる。耳朶を破って心臓に高鳴る言葉が「アイヌ」である。言語どころか「アイヌ」と書かれた文字にさへハッと驚いて見とがめるであらう。吾人はこの態度の可否は別問題として、かゝる気づかひを起こさしめた(無意識的に平素から神経を鋭くさしてゐる程重大な根本的欲求の)その第一義は何であらう? ―――アイヌでありたくない―――と云ふのではない。―――シャモになりたい―――と云ふのでもない。然らば何か「平等を求むる心」だ、「平和を願う心」だ。適切に云ふならば「日本臣民として生きたい願望」であるのである。
 此の欲求をはき違へたり、燃ゆる願をアイヌ卑下の立場にさらしたことを憫れむのである。
 同化の過渡期にあるアイヌは嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱ひにされてもシャモを憎めないでゐる。恨とするよりも尚一層シャモへ憧憬してゐるとは悲痛ではないか。併しながら吾人はその表現がたとひ誤多しとしても、彼等が衷心の大要求までを無視しようとするのでは毛頭ない。アイヌには乃木将軍も居なかった。大西郷もアイヌにはなかった。一人の偉人をも出してゐないことは限りなく残念である。されど吾人は失望しない。せめてもの誇りは不逞アイヌの一人もなかった事だ。今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時期をほゝ笑んで待つものである。
「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)*1
 そこに存在の意義がある。鮮人が鮮人で貴い。アイヌはアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。嗚呼我等の理想はまだ遠きか。
 シャモに隠れて姑息な安逸をむさぼるより、人類生活の正しい発展に寄与せねばならぬ。民族をあげて奮起すべき秋は来た。今こそ正々堂々「吾れアイヌ也」と呼べよ。
 たとい祖先は恥しきものであってもなくっても、割が悪いとか都合がよいとか云ふ問題ではない。必然表白せないでは居られないからだ。
 吾アイヌ! そこに何の気遅れがあらう。奮起して叫んだこの声の底には先住民族の誇まで潜んでゐるのである。この誇をなげうつの愚を敢てしてはいかぬ。不合理なる侮蔑の社会的概念を一蹴して、民族としての純真を発揮せよ。公正偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「吾れアイヌ也」と絶叫するのだ。
 見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなくなるものか、違星北斗はアイヌだ。今こそはっきり斯く言ひ得るが…………反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視みつめるのである。
(二五八七・七・二)


※ 95年版『コタン』より
*1 引用されている文章は後藤静香の『権威』所収の「女性」の一部である。

2018年11月29日 (木)

秋田雨雀日記

秋田雨雀日記

北斗が東京にいた大正14年12月13日の日記。

「夕方アイヌ人の選里(千里)君がきたので、夜まで話した。やはり大和民族にたいする怒りを持っているようだ」

Up

この「選里」は「違星」の読み間違いではないかと。

(編者は「千里」としていて、「知里真志保」に比定しようとしているのかも知れないが、

真志保はまだ室蘭中学の学生であり、東京にはいない)
   
秋田雨雀日記は、秋田雨雀記念館に行けば、手書きのもの見れるのかな。

それにしても、手書きの原稿(特に本人が校正できない遺稿)を編集者や印刷工が活字にするときに間違いが生じることがいかに多いことか。
 

ちなみに、

「赤い鳥」の創刊メンバーであり、詩人・童話作家・作詞家・戯曲家として活躍した秋田雨雀。

秋田雨雀の日記には、近代演劇界の黎明期も、エスペランティストたちの姿も、有名な社会主義者たちの姿も描かれている。

時代の空気なのだろう。

特に、Kとイニシアルで語られる片山潜や、小林多喜二の死なども日記に登場し、

そして自らも特高に何度も拘束されている。

北斗の知人もたくさん登場する。

金田一京助、柳田国男、そして、街頭マンドリン詩人・永井叔。

秋田雨雀は(北斗に出会う前の大正13年)「アイヌの滅亡」「悲しみのオキクルミ」という戯曲を書いている。

どのような内容かは確認してみたいと思う。

 

違星北斗が発掘した銅鏡

余市町のホームページに
「余市町でおこったこんな話「その169 違星北斗(いぼしほくと)」」
が掲載されています。

北斗が大川遺跡で掘り出したという銅鏡が掲載されています。

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2018/sono169.html

2018年6月 1日 (金)

違星北斗の生涯(その14 後世への影響)

《違星北斗の生涯》 

(その14 後世への影響) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【ボストンバッグ】

 北斗の死から二日後の1月28日、古田謙二は消毒液の匂いのプンプンする寝室に入り、枕元においてあったボストンバッグから遺稿を取り出します。

 その中には日記が2冊あったといいます。

【死亡記事】

 1月29日には小樽新聞に北斗の死亡記事が載ります。

 「違星北斗氏逝去 本道アイヌの先覚者として将又青年文士として世人に嘱目されてゐた余市の違星北斗君は去る二十六日肺を病みて大川町自宅に於て死去された」

【小樽新聞1/30】

 山上草人

 夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる

 やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗

 この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!

 忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

【小樽新聞2/17】

 上元芳男

 風寒い余市の海の浪音に連れて行かれた違星北斗よ

 アイヌだけがもつあの意気と弱さとを胸に抱いて違星は死んだ 

【小樽新聞2/18】

 親友の歌人・稲畑笑治による北斗の追悼文が掲載。bit.ly/SNI9e7

【小樽新聞3/2】

 山上草人

 遺稿集あんでやらうと来て座せば畳にみる染むだ北斗の体臭

 クレグールくさい日記にのぞかれる彼の想ひはみな歪んでる

 「このシヤモめ」と憤つた後の淋しさを記す日記は読むに耐へない

 金田一京助さんの恩恵に咽ぶ日もあり、いぢらしい男よ 

【小樽新聞3/2】

 加藤未涯

 眼をとぢてコタンの歌を口にせば 命ほろびたひとの尊とさ

【新短歌時代3月号】

 村上如月「違星北斗君を悼む」bit.ly/SNJku6 

 マキャブといふひと言ゆゑに火と燃えた北斗星の血潮はヒカチの血潮だ

 雪よ降れ降つて夜となれあゝ一人こゝにも死ねぬ男のまなざし

 エカシらがコタンに泣く日セカチらが神に祈る日北斗が死んだ日

【小樽新聞3/8】

 山上草人

 「神なんかいないいない」と頑張った去年の彼の日記がイエスの言葉で閉ぢられてゐる

  凡平の曾ての歌を口ずさみ言ひ寄つた去年の彼を忘れぬ

 シヤモの嬶貰つた奴を罵倒したその日の日記に「淋しい」とある

 ウタリーの叫びをあげた彼の歌碑どこへ建てやうどの歌彫らう

【小樽新聞3/21】

 本吉心星

 何気なく古新聞を手に取れば死んだアイヌの歌が眼をひく

【違星青年】

 昭和4年4月10日、金田一京助が東京日日新聞に「違星青年」を掲載。bit.ly/SNKplP

【小樽新聞4/25】

 木芽伸一

 亡んでくアイヌのひとりの彼もまたさびしく病んで死んでいつたか

 泣きくれる北斗の妻子のおもはれてさびしくきいてる今宵の吹雪よ

【昭和4年6月9日】

 北斗の親友であり、いとこでもあった中里篤治(凸天)が結核でなくなります。

【遺稿集】

 昭和5年5月、古田謙二(山上草人)の手により、ボストンバッグの中に入っていた遺稿が整理され、東京の希望社から遺稿集『コタン』が出版されます。

【バチラー八重子】

 バチラー八重子が、北斗の墓に参り、追悼の歌を詠みました。

 墓に来て 友になにをか 語りなむ 言の葉もなき 秋の夕暮れ ――逝きし違星北斗氏

【コタンに泣く】

 昭和5年8月希望社の雑誌『大道』に後藤静香の追悼記事「コタンに泣く」が掲載されました。bit.ly/SNMgHf

【違星青年を惜む】

 昭和5年8月、国柱会の新聞に「違星青年を惜む」が掲載されました。bit.ly/VzmWmU

【同族のための熱の歌】

 昭和5年8月、北海タイムズに北斗の追悼記事「同族のための熱の歌」が掲載されました。bit.ly/Vzn85I

【コタンを読む】

 昭和5年9月27日、小樽新聞に「違星北斗遺稿 コタンを読む」が掲載されました。

 この中には、北斗が生前、「同族と共に広くギリヤーク、オロッチョン俗の解放運動へ奮起すべき念願を蔵していた」という記述もありました。

【春の若草】

 昭和8年1月発行『ウタリの友』に、北斗の遺稿「春の若草」が収録されました。bit.ly/Vzow8b

【森竹竹市】

 昭和12年、森竹竹市『原始林』

 こんな時「北斗」が生きて居たならと 沁々思ふ―― 一人夜更けに 

【民族】

 昭和15年11月、北斗と生前親交があった作家・山中峯太郎の小説『民族』が発行されました。
 この中には、北斗をモデルにした「ヰボシ」という青年が登場します。
 昭和22年には悲劇的だった結末を描き直した『コタンの娘』が刊行されます。

【泣血】

 阿部忍による小説「泣血」が「駒澤文壇」などで発表されました。

 これは、違星北斗を主人公にした長編小説です。

【違星北斗の会】

 昭和29年8月、木呂子敏彦の呼びかけにより「違星北斗会」が結成され、「違星北斗遺稿集」が刊行。
 同誌にて「違星北斗歌碑」の建設をよびかけました。
 歌碑は二風谷に建設が進められましたが、諸般の事情により中断しましたが、萱野茂さんの尽力で昭和43年に完成しました。

【ラジオドラマ】

 昭和30年3月、NHK札幌放送局にて、違星北斗のラジオドラマが放送されました。
 この実現には違星北斗の会の木呂子敏彦の働きかけがあり実現したそうです。

【アイヌの歌人】

 昭和38年9月、湯本喜作『アイヌの歌人』が刊行されました。
 これは、バチラー八重子、違星北斗、森竹竹市の3人のアイヌの歌人を紹介したものです。

【うた詠み】

 昭和42年2月、向井豊昭が短編小説「うた詠み」を「文學界」に掲載。
 この中で北斗のことが語られています。

【違星北斗の歌と生涯】

 昭和42年10月、早川勝美「違星北斗の歌と生涯」が山音48号に掲載されました。

【遺稿集コタン】

 昭和47年、新人物往来社「近代民衆の記録」に『コタン』が収録されました。
 その後、昭和59年に草風館から『違星北斗遺稿 コタン』が刊行、平成7年に増補版が刊行されました。

【北海道新聞】

 平成29(2017)年11月25日 北海道新聞の「ミンタラ」《先人たちの物語 シンリッオルッペ》という記事で違星北斗が取り上げられました。

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《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その13 闘病編)

《違星北斗の生涯》 

(その13 闘病編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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 アイヌの歌人・違星北斗Botを作ってみました。違星北斗27年の生涯を、ツイートで追体験してみたいと思います。

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【発病】

 昭和3年4月25日、北斗は結核を再発させます。

 「何だか咳が出る。鼻汁も出る。」
 「明るみへ出て見ると血だ。喀血だ」

 大暴風雨の中、山岸病院に行き、診察を受け、結核が再発したことがわかります。

【小樽新聞5/12】

 咯血のその鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んぢゃならない」/

 キトビロを食へば肺病直ると云う アイヌの薬草 今試食する/

 見舞客来れば気になるキトビロの 此の悪臭よ消えて無くなれ/

 これだけの米ある内に此の病気 癒さなければ食ふに困るが

【熊の肉】

 日記5/8

 「兄が熊の肉を沢山貰って帰ってきた。フイベも少し貰って来て呉れた。」

 熊の肉俺の血となれ肉になれ 赤いフイベに塩つけて食ふ/

 熊の肉は本当にうまいよ内地人 土産話に食はせたいなあ/

 あばら家に風吹き入りてごみほこり 立つ其の中に病みて寝るなり/

 希望もて微笑みし去年も夢に似て 若さの誇り我を去り行く

【『新短歌時代』(昭和3年6月号)】

 民族を背負って立つのは青年だ 先覚者よ起てアヌウタリクス!

 あばら家に風吹きこめばごみほこりたつその中に病んで寝てゐる

 永いこと病床にゐて元気なくこころ小さな俺になってゐる

【日記5/17】

 酒飲みが酒飲む様に楽しくに こんな薬を飲めないものか

 薬など必要でない健康な 身体にならう利け此の薬

【『小樽新聞』6/5』】

 赤いものの魁だとばっかりにアカベの花が真赤に咲いた

 雪どけた土が出た出た花咲いたシリバの春だ山のアカベだ

 熊の肉、俺の血になれ肉になれ赤いフイベに塩つけて食ふ

 岩崎のおどは今年も熊とった金毛でしかも大きい熊だ

 熊とった痛快談に夜はふける熊の肉食って昔をしのぶ

【中里徳太郎の死】

 北斗が余市で闘病中の6月5日、余市コタンの指導者であった中里徳太郎がなくなります。

 徳太郎は親友篤治の父親で、北斗にとっても、おじにあたり、余市コタンの殖産や貯蓄などを手がけた人。

 北斗も影響を受け、東京で彼のことについて講演したこともあります。

【日記6/9】

 死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに 生きよと云はれる俺は悲しい/

 東京を退いたのは何の為 薬飲みつゝ理想をみかへる

【『小樽新聞』6/19】

 芸術の誇りもたたず宗教の厳粛もないアイヌの見世物/

 白老のアイヌはまたも見世物に博覧会に行った咄! 咄!

【恩師への手紙】

 6月20日付の金田一京助宛の手紙で、北斗は東京時代の思い出や、金田一への感謝、北斗の手引きで上京した同族の女性について現在の病気、兄との和解などを語っています。手紙の文面からは、かなり悲観的な様子が見て取れます。
 bit.ly/11Xm8O1

【『新短歌時代』(7月号)】

 「アイヌの乞食」子供等にからかはれては泣いてゐるアイヌの乞食に顔をそむける/

 酒のめばシャモもアイヌも同じだテ愛奴のメノコ嗤ってゐます

【金田一からのハガキ】

 7月17日、金田一京助からのハガキが届きます。

 金田一は、ナーバスになっている北斗に対して、はやく元気になって北斗や篤治のような若者が、中里徳太郎の死は痛手だが、こういう傑物について語り次がねばならないといったことを諭します。

【日記7/18】

 続けては咳する事の苦しさに 坐って居れば縄の寄り来る/

 血を吐いた後の眩暈に今度こそ 死ぬぢゃないかと胸の轟き/

 何よりも早く月日が立つ様に願ふ日もあり夏床に臥し

【日記8/8】

 中里篤治の家の裏で盆踊りがあること、今日は一日喀血しないこと、そして『小樽新聞』の北斗のフゴッペ論文に対しての西田氏の反論連載が、ようやく終わったこと。

 「私は反駁に力を入れては醜いと云ふことを発見した」「反駁の為の反駁は読む人をして悪感を起こさしめる」

【『小樽新聞』8/29】

 カッコウとまねればそれをやめさせた亡き母恋しい閑古鳥なく

【日記9/3】

 「めまひがして困る」「やっぱり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思ふと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く」

 山野鴉八氏より

 「仙台放送局でシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念」

 ラジオの仙台放送局で、北斗を取材したラジオが放送されることになった。

 「今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ」

 一七日とは初七日。
 死んだトモヨとはおそらく北斗の娘。
 トモヨの母親は、娘が生まれてすぐ娘とともに余市を去ったらしい。
 くわしくはわからない。

【日記10/3】

 永いこと病んで臥たので意気失せて心小さな私となった/

 頑強な身体でなくば願望も 只水泡だ病床に泣く/

 アイヌとして使命のまゝに立つ事を 胸に描いて病気を忘れる

【山上草人の短歌】

 北斗の闘病中の姿を、友人の山上草人(おそらく古田謙二)が短歌としてのこしています。

 夕陽さす小窓の下に病む北斗ほゝえみもせずじつと見つめる/

 やせきつた腕よ伸びたひげ面よアイヌになつて死んでくか北斗/

 この胸にコロポツクルが躍つてる其奴が肺をけとばすのだ畜生!/

 忘恩で目さきの欲ばかりアイヌなんか滅びてしまへと言つてはせきこむ 

【日記10/5】

 山岸医師の往診。

 「一ヶ月前よりも悪いのではないかと思ふと云へば『問題ではない。今日は余程よくなって居るよ』と先生は云はれる」

【日記10/9】

 「山岸先生お出下さって注射一本、薬が変わった」

 「少しでも悪くなると先生には本当に済まないと思ふ」

【日記10/8】

 「午後二時頃喀血した。ほんの少しであったが血を見てうんざりした。」

【日記10/26】

 「山岸先生看病大事と妹に諭し『国家の為にお役に立てねばならぬ』と云はれた。生きたい」/

 此の病気俺にあるから宿望も 果たせないのだ気が焦るなあ/

 何をそのくよくよするなそれよりか 心静かに全快を待て

 ※妹のハルヨと、トキという親戚が北斗を看病していた。

【日記11/3】

 「埋立の橋が完成した」「定吉と宇之吉が川尻で難船したのを常太郎が泳いで行ってロップで救うた」

【日記12/10】

 夕方古田先生が来る。金田一先生への代筆をしてもらう。

 浦川(太郎吉)君へ『アイヌ・ラックルの伝説』も送ってもらう。 /

 健康な身体となってもう一度 燃える希望で打って出たや

【一言集】

 北斗はこのころ、病床で後藤静香の「一言集」という小冊子を読んでいたという。
 一言集は、後藤静香の言葉を集めた格言集のようなもの。

【後藤静香からの葉書】

 昭和3年12月19日付「違星様、あなたのこと、そしてあなたがたアイヌ民族のことを思いますたびに、私のこころをいためます。
 どうぞこのうへとも健康に気をつけ、大きい使命を果たしてください。
 あとから日記などをさしあげます。あなたの歌いつも涙で拝見致します」

【北斗帖】

 この頃までに、北斗は病床で「北斗帖」という自撰の歌集をまとめています。 bit.ly/TyzVZ1

【松宮春一郎からの手紙】

 「違星君の病状お知らせ下されくりかへし拝見いたしました。何とも申様もないこと涙の袖をしぼります。近いところならばと残念に存じます」

 12月25日、東京時代に北斗に様々な文化人を紹介した松宮からの手紙。

 すでに北斗ではなく友人の古田謙二宛になっています。

【後藤静香からの手紙】

 昭和3年12月28日付「違星兄の為に御心尽くし感謝に堪へません少しばかりのお見舞を送って置きました。同君をよく慰めて下さい」

 同年日付不明(同じ頃か)昭和3年(?)「毎日違星兄の為に祈って居ります」「同氏の事頼みます」

【日記12/28】

 「此の頃左の肋が痛む。咳も出る」

 東京の高見沢清氏、東京の希望者後藤先生よりお見舞い、福岡県の八尋直一様より慰問袋「心の日記」とチョコレート。

 此の病気で若しか死ぬんぢゃなからうか ひそかに俺は遺言を書く

 何か知ら嬉しいたより来る様だ 我が家めざして配達が来る

【小樽新聞12/30】

 あばら家に風吹き込めばごみほこり立つその中に病んで寝てゐる/

 永いこと病床にゐて元気なく心小さなおれになってゐる

【危篤】

 北斗は、昭和3年12月28日から、危篤が続き、危篤の中で誕生日を迎え、昭和4年1月5日に危篤から回復します。

【日記1/5】

 山岸先生来る。勇太郎君から八つ目を貰う。

 (ヤツメウナギは、精力がつくとされていました)。

【日記1/6(絶筆)】

 勇太郎君から今日も八ツ目を貰う。辞世の歌3首。

 青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし

 いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ

 世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり

【昭和4年1月6日】

 この日、北斗は明け方に大喀血をします。

【再び危篤】

 1月6日、北斗は再び危篤に陥ります。

【北斗忌】

 昭和4年1月26日(土)午前9時 違星北斗は永眠しました。
 今からちょうど84年前のことです。
 雪の降る寒い朝だったそうです。

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>>その14に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

違星北斗の生涯(その12 放浪編)

《違星北斗の生涯》 

(その12 放浪編) 

 ※これは管理人がやっているツイッター「違星北斗bot」(@kotan_bot)をまとめたものです。

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【売薬行商へ】
 小樽新聞を主な活躍の場として、アイヌの歌人、そして郷土研究者として、注目されるようになった北斗ですが、昭和2年の年末から、また新しいことを始めます。

 それが、売薬行商でした。
 薬を売り歩きながら、北海道各地のコタンをめぐり、全道にわたるネットワークをつくろう考えたのでした。 

【最後の平取】

 昭和2年夏、自らの思想の結晶ともいうべき「アイヌの姿」を同人誌「コタン」を創ったあと、おそらく平取で二度目に夏をすごします。
 北斗は、バチラー八重子とともに幼稚園を手伝い、吉田ハナととも、蚕を飼ったり、林檎園をつくろうとしたりとコタンの殖産に努めました。

【吉田ハナ】

 北斗が平取で一緒に過ごしたという吉田ハナについては、複数の異なる証言があります。
 北斗の筆による吉田ハナへの手紙が残っており、藤本英夫氏は北斗と同世代の女性と見ていますが、別の証言では、バチラー八重子より年上の宣教婦だというものもあります。
 私は同名の別人かと思います。

【小樽新聞】

 昭和2年10月3日、はじめて北斗の短歌4首が、小樽新聞に掲載されます。

 以後、小樽新聞は北斗の主な活躍の舞台となり、そこから小樽歌壇の人々と親交を結び、かつてないアイヌの歌人として、衝撃をもって迎えられ、じょじょに活動の場を広げていくことになります。

【10/3掲載『小樽新聞』】

 アイヌッ! とただ一言が何よりの侮辱となって燃える憤怒だ/
 獰猛な面魂をよそにして弱く淋しいアイヌのこゝろ/
 ホロベツの浜のはまなす咲き匂ひエサンの山は遠くかすんで/
 伝説のベンケイナッポの磯の上にかもめないてた秋晴れの朝

【フゴッペ壁画】

 昭和2年10月8日 蘭島駅の保線工夫がフゴッペ bit.ly/10SLSLd という小山に壁画と、人の顔のように見える石偶を発見し話題となります。
 当時、余市近辺の遺跡の調査を行なっていた北斗も、壁画に関心を寄せ、後に論文を書くことになります。

【フゴッペ新聞記事】

 このフゴッペ壁画は、戦後に発見され、現在は保存処理をされている「フゴッペ洞窟」とは厳密にいえば異なるものですが、近接した場所にあるため、無関係とは考えられません。

 壁画の方は現存していません。

 戦前の発見記事→ bit.ly/10SMArM

【10/25掲載『小樽新聞』】

 シリバ山もすそにからむ波だけは昔も今にかはりはしない/
 暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔慕はしくなる/
 握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声/
 シャモといふ小さなカラで化石した優越感でアイヌ見にくる/
 シャモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌をよむ、やから/
 人間の誇は何も怖れない今ぞアイヌのこの声を聞け/
 俺はただ「アイヌである」と自覚して正しき道をふめばいゝのだ

【10/28 掲載『小樽新聞』】

 「何ッ! 糞でも喰へ!」と剛放にどなった後の無気味な沈黙/
 いとせめて酒に親しむ同族にこの上ともに酒のませたい/
 単純な民族性を深刻にマキリで刻むアイヌの細工/
 たち悪くなれとのことが今の世に生きよといへることに似てゐる/
 開拓の功労者てふ名のかげに脅威のアイヌおのゝいてゐる/
 同族の絶えて久しく古平のコタンのあとに心ひかれる/
 アヌタリの墓地であったといふ山もとむらふものない熊笹の藪

【余市短歌会】

 小樽新聞での掲載が続く北斗は、余市短歌会の集会に出席し、そこで並木凡平、稲畑笑児らと知り合います。

 口語自由短歌を標榜する並木は、北斗の短歌の持つ威力に驚愕し、北斗に惚れ込んで自らの仲間に引き入れます。

 稲畑は同世代の歌人ですが、北斗に心酔していた節があります。

 この歌会で、北斗は「痛快に『俺はアイヌだ』と宣言し正義の前に立った確信」という歌を読み、稲畑笑治と余市名産の林檎(北斗のお土産でしょう)をかじりながら語り合ったといいます。

 笑治とは特に親交があつく、北斗は自宅に招いたりもしているようです。

 この北斗の登場は並木凡平にとっては衝撃だったようで、北斗の堂々とした物腰や態度、理知的な話しぶり、そして爆発力のある短歌に恐れいり、またアイヌに対する偏見を恥じ入り、過去に詠んだアイヌを上から目線で憐憫した短歌を詠んだことを反省し、以後、北斗の短歌の最大の理解者となります。

【昭和2年11月29日】

 北斗はこの日小樽の郷土史家である橋本暁尚宛にハガキを送ります。

 が、肝心の内容についてはわかっていません。というのも実はヤフオクで出品されていたもので、惜しくも落札できませんでした。

 一緒に出品されてたのは、なんと幻のガリ版同人誌「コタン」の現物!悔しい! 

【新短歌時代】

 昭和2年冬、いよいよ、北斗の歌人としての活躍がはじまります。

 余市短歌会で北斗と出会った並木凡平が、北斗を紹介したのです。

 新創刊の口語短歌誌「新短歌時代」の予告号に北斗の短歌4首が掲載されます。

【『新短歌時代』(予告号)】

 暦なくとも鮭来る時を秋としたコタンの昔 思ひ出される/

 幽谷に風うそぶいて黄もみぢが―――苔踏んでゆく肩にふりくる/

 ニギリメシ腰にぶらさげ出る朝のコタンの空でなく鳶の声/

 桂の葉のない梢 天を突き日高の山に冬がせまった

【11/7『小樽新聞』】

 痛快に「俺はアイヌだ」と宣言し正義の前に立った確信 

【西田彰三】

 『小樽新聞』11/14に、フゴッペの壁画の発見記事が掲載され、小樽高商の西田彰三教授が、その解説を行います。

 翌11/15には同じ西田彰三の連載「フゴッペの古代文字並にマスクについて」が7回にわたって掲載されています。

 北斗はこの連載を読み、違和感を感じます。

 北斗は西田教授が「フゴッペ壁画はアイヌの手によるものである」という結論に対して、そうではないと考え、アイヌである自身の立場から反論をしたいと、自らの考えを論文にまとめ、同じ小樽新聞で連載します。

 それが「疑うべきフゴッペの遺跡」です。 bit.ly/TxtkxS

 北斗の反論に対して、西田教授は「遺跡はアイヌのものだ」とその後、長期にわたって反論を繰り返し、「反論のための反論はみっともないだけだ」と北斗を呆れさせています。

 遺跡は、適切な保存処理も行われず、摩耗してしまいました。

 ただ、戦後すぐ近くの洞窟で壁画が見つかっています。

【11/21『小樽新聞』】

 余市川その源は清いものをこゝろにもなく濁る川下/

 岸は埋立川には橋がかゝるのにアイヌの家がまた消えてゆく/

 ひら/\と散ったひと葉に冷やかな秋が生きてたアコロコタン

【売薬行商】

 昭和2年12月頃、北斗は薬の行商を始めます。

 目的は「コタン巡視察」つまり、道内各地を薬を売り歩きながら、アイヌ文化の研究と、各地のコタンの同族とのネットワークをつくることでした。

 売る薬は小樽の薬屋から仕入れた「大能膏」というガッチャキ(痔)の薬です。

 それとは別に、余市の郷土史家の方に「このガッチャキの薬は、北斗の祖母が薬を煎じていて作ったもので、北斗もそれを売っていた」というのを聞いたことがあります。

 ただ、北斗自身が言っているので、おそらく小樽の「大能膏」という薬なのでしょう。

 北斗の売薬の証言としては
 「箕笠をかぶり、大きな行李を背負い、秋の雷電峠を歩いていた」
 「簑笠をかぶり、行商に向かう北斗が訪ねてきて、暫くの別れにと尺八で『別れの曲』を吹いた」
 といったものがあります。「秋」ということは、もうすこし前から行商していたのかもしれません。

 12月下旬頃には、美国、古平、湯内などの余市の郡部をめぐって帰宅しています。

 北斗は「ナニシロ今度こそは本当に自由の身になったものですから大いに年来の希望に向つて突進出来ます」と、心境を語っています。

【北海道人】

 北斗は、小樽新聞や新短歌時代以外の媒体にも登場しはじめます。

 12月には「北海道人」という雑誌に短歌が6首掲載されています。

 アイヌ!と ただ一言がなによりの 侮蔑となって燃える憤怒だ

 「ナニッ! 糞でも喰へ」と 豪放に どなった後の寂しい沈黙

 限りなきその寂寥をせめてもの 悲惨な酒にまぎらさうとする

 獰猛な面魂をよそにして 弱い淋しいアイヌの心

 単純な民族性を深刻に マキリで刻むアイヌの細工

 たち悪るくなれとのことが今の世に 生きよといへることに似てゐる

【12月『新短歌時代』(創刊号)】

 創刊号には、並木凡平による北斗の紹介記事が掲載されています。

「いま北斗君の歌を見て全く恥入ったことを白状する、歌はたしかに昂奮であるが、これほど胸に強くせまつたものはなかった」
「以上挙げた四首は、われわれにとって強い爆弾であると同時に亡びゆく民族にとって、救世主としての彼の出現に驚異したのである」

 と、北斗の歌を評し、また

「私は少からず感激に打たれた、語り出す一語一句は、われわれ仲間よりなほ理知と謙譲の奥床しさがあった」

 と北斗の印象を語っています。bit.ly/14dLxT2

 よっぽど衝撃的だったのか、その号の座談会でも、北斗のことが話題になっています。

 そこでも、並木凡平は北斗を高く評価し、また稲畑が北斗に惹かれているのがわかります。

 一方で、他の歌人は否定的、もしくは蔑視的に見ている様子も見て取れます。
 bit.ly/14dMjQ9

 北斗は、その後、並木凡平の家「凡平庵」を訪ねたりもしているようです。

【12月『新短歌時代』(創刊号)】

 しかたなくあきらめるといふこゝろあはれアイヌを亡したこゝろ/

 アイヌ相手に金もうけする店だけが大きくなってコタンさびれた/

 強いもの! それはアイヌの名であった昔しに恥よさめよ同族 /

 熊の胆で助かったのでその子に熊雄と名づけた人もあります/

 正直なアイヌをだましたシャモをこそ憫なものとゆるすこの頃/

 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今どこにゐる

【小樽新聞12/4】

 北斗に惚れ込んだ並木凡平は、小樽新聞でも、北斗を大きく紹介します。

 昭和2年12月4日には、顔写真入りで

「歌壇の彗星 今ぞたつ アイヌの歌人 亡びゆく同族の救世主 余市の違星北斗君」

と大々的に紹介しています。bit.ly/14dNS0o

【フゴッペ論文】

 小樽新聞12月4日から年をまたいだ1月10日まで、全6回にわたって、北斗のフゴッペ遺跡への見解が述べられました。

 この連載を見て北斗を知った同族も多く、のちに北斗と同じく「アイヌの歌人」の一人に数えられる森竹竹市も、この記事を呼んで北斗を知ったそうです。

【我が家名】

 北斗が自らのルーツを語った「我が家名」は、このフゴッペ論文の連載中に、「閑話休題」として発表されたもの。

 ここで北斗の祖父のことや、祖先の名、イカシシロシ(家紋)について語られています。

 bit.ly/14dPmb1

【小樽新聞12/30】

 売薬の行商人に化けてゐる俺の姿をしげしげとみる/
 売薬はいかがでございと人のゐない峠で大きな声出してみる/
 田舎者の好奇心にうまく売ってゆく呼吸も少し覚えた薬屋/
 ガッチャキの行商薬屋のホヤホヤだ吠えてくれるなクロは良い犬

【希望社】

 昭和2年12月26日の日記に「希望社から10円と『心の日記』に『カレンダー』を送って貰う」という記述があります。

 心の日記とは、後藤静香の希望社が出していた日記帳で、各ページに後藤静香の金言入り。

 北斗の日記の数冊は「心の日記」帳に書かれたようですが、残っていません。

【除夜の鐘】

 昭和3年の大晦日は、北斗は除夜の鐘をついています。

 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく

 新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ

【昭和3(1928)年】

 正月に北斗は、小樽に行き、何人かの人を訪ねます。

 新短歌時代の同人、福田義正を訪ねて親交を深め、また、高根一路を訪ねてもいますが、こちらは会えませんでした。

 またフゴッペ論争の相手である西田教授を訪ねて、会ってもらえなかったりしています。

【違星家聞き取り】

 また、余市の自宅にアイヌ文化研究者の河野常吉・広道親子がアイヌ文化や伝承についての調査に来ています。

 この時の内容は、河野常吉の研究資料に残っています。bit.ly/WAmDrr

【バチラー八重子からの手紙】

 この年、1/4、バチラー八重子から北斗に当てた手紙がみつかっています。

 内容は年賀の挨拶や、結核に倒れた北斗の親友・中里篤治の病状を教えて欲しい、といったことです。

 篤治はこのころ結核が進んでいましたが、結果的には北斗よりも少し長生きしています。

【淋しい元気】

 新短歌時代昭和3年1月号には、北斗の幼少期から青年期のことを語った「淋しい元気」が掲載されています。bit.ly/lAgPaB

【行商へ】

 1月10日頃、北斗は再び売薬行商に出ます。

 余市を出て、1月14日には千歳を訪ねていますが、雪の中で宿が確保できず、難儀をしたようすが日記に書かれています。

【『新短歌時代』昭和3年2月号】

 俺がつくこの鐘の音に新春が生れてくるか精一ぱいにつく/

 新生の願ひ叶へとこんしんの力を除夜の鐘にうちこむ/

 高利貸の冷い言葉が耳そこに残ってるのでねむられない夜/

 詮じつめればつかみどこないことだのに淋しい心が一ぱいだ冬

【『自働道話』昭和3年2月号】

 コタン視察の予定や、新年の決意などを、東京時代に世話になった西川光次郎に語っています。

 塞翁の馬にもあはで年暮れの馬にもあはで年暮れ/

 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく/

 新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ

【友の死】

 昭和3年2月末、北斗は3年ぶりに白老を訪ねます。

 そこで、友人の豊年健治が死んでいたことを知り、また会いたいと思っていた森竹竹市や、アイヌ子弟の教育で高名な山本儀三郎教師や、コタンのシュバイツァーと呼ばれた名医高橋房次らとも会えず落胆します。

【森竹竹市の短歌】

 北斗とともにアイヌの歌人として有名な森竹竹市は、北斗と会った時のことを短歌で詠んでいます。

 「フゴッペの古代の文字に疑問持ち所信の反論新聞で読む」

 「違星北斗初めて知った君の名を偉いウタリと偲ぶ面影」

 「北斗です出した名刺に『滝次郎』逢いたかったと堅く手握る」

【知里真志保と再会】

 2月末、北斗は、幌別で知里幸恵の弟の真志保と会います。

 二人はおそらく3年前、北斗が東京から北海道に戻り、幌別のバチラー教会にいた頃に会い、以後も親交を続けていました。

 北斗は、この日知里真志保と同宿したことを、平取の吉田はな子にハガキで書き送っています。

【アイヌの道話・烏と翁】

 昭和3年2月27日の小樽新聞に北斗が筆記した道話「烏(パシクル)と翁(イカシ)」が掲載。bit.ly/R1ofLm

【小樽新聞2/27】

 夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車/

 行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも/

 ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って/

 金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち/

 酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく

【豊年健治君】

 昭和3年2月29日、北斗は友人豊年健治の墓に参って、次のような感想を残しています。

「何とはなしに無常の感に打たれる。豊年君は死んで了ったのだ。私達もいつかは死ぬんだ」

 …その一月半後には、北斗も発病してしまうわけで、なんとも象徴的です。

【『志づく』第3巻1号】

 悪いもの降りましたネイと 挨拶する 北海道の雪の朝方/

 シリバ山 もしそにからむ波のみが昔を今に ひるかへすかな/

 正直なアイヌだましたシャモをこそ憫れなものと ゆるす此頃/

 久々で熊がとれたで熊の肉何年ぶりで食ふたうまさよ/

 コタンからコタンを巡るも嬉しけれ絵の旅詩の旅伝説の旅

【室蘭中学校】

 この頃、北斗は室蘭中学に「民族学研究家」として迎えられたといいます。

 北斗が知里真志保の恩師である岩倉友八と話した際、「真志保は学者になるのに適した頭脳を持っている」と岩倉が高く評価したことを、北斗が真志保に伝え、それがきっかけで真志保が学者をめざしたという。

【日高再訪】

 3月ごろ、北斗は胆振に続いて、日高を巡り、その帰りに雪にまみれて村上如月のところに現れ、「同族の為に、国史の為に、アイヌ民族文化の跡を、アイヌの手に依つの研鑽したい」と語り、また、体調不良や疲れがあると言ったていたようです。

【歌誌『志づく』】

 昭和3年4月3日、歌誌『志づく』の「違星北斗特集号」が発行されます。

 これは北斗の生前に発行された出版物としては、最もまとまった歌集となります。

 また、この『志づく』の女性読者が北斗に熱烈なファンレターをよこしたという話もあります。

【鰊漁】

 昨年同様、昭和3年もまた、稼業の鰊漁を手伝っていたと思われます。/

 亦今年不漁だったら大へんだ余市のアイヌ居られなくなる/

 今年こそ乗るかそるかの瀬戸際だ鰊の漁を待ち構へてる/

 或時はガッチャキ薬の行商人今鰊場の漁夫で働く/

 今年こそ鰊の漁もあれかしと見渡す沖に白鴎飛ぶ

【『小樽新聞』4/8】

 豊漁を告げるにゴメはやってきた人の心もやっとおちつく/

 久しぶりで荒い仕事する俺の手のひら一ぱいに痛いまめでた/

 一升めし食へる男になったよと漁場のたよりを友に知らせる/

 ボッチ舟に鰊殺しの神さまがしらみとってゐた春の天気だ

【『小樽新聞』4/11】

 水けってお尻ふりふりとんでゆくケマフレにわいた春のほほえみ/

 建網の手あみのアバさ泊まってて呑気なケマフレ風に吹かれる/

 とんとんと不純な音で悠久な海を汚して発動機船ゆく/

 不器用とは俺でございといふやうな音たててゆく発動機船

【『小樽新聞』5/2】

 シャモの名は何といふかは知らないがケマフレ鳥は罪がなさそだ/

 ケマフレはどこからくるかいつもの季節にまたやってきた可愛水鳥/

 人さまの浮世は知らぬけさもまた沖でケマフレたわむれてゐた/

 人間の仲間をやめてあのやうなケマフレと一しょに飛んでゆきたい

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>>その13に続く

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《違星北斗の生涯》INDEX

2018年2月20日 (火)

ぶちのめされた民族が

「わたしたちの子供の時代、

またその次の時代が来たとき、

ぶちのめされた民族が、

こんなに勇敢に立ち上がったことを自慢に語ってきかせたい。

この立派な民族をつくりあげたのは俺たちであると

言ってきかせたいではないか。

この義務と責任を負せられた大正のアイヌは

人々の光栄としてうらやむことだと思う」

「違星北斗ノート」大正14年9月9日より

Butinomesareta

2018年2月16日 (金)

大川周明と違星北斗

今、大川周明がなぜかブームですが、そういえば北斗も大川周明の講演を聞いてノートにメモを残していたなと思い、読み直してみました。

大正14年11月3日「大邦日本の理想 文学士 大川周明氏」の講演を聞いた北斗は、
大川周明の意見に、いろいろと思うところがあったようで、

 

Okawa2


「日本の理想は?
食ふことから出発せなくてはならないなんて、哀れな理想ではないか。
対外政策が日本の理想か。
なぜもっと良い理想がないのか。
国家以上の大理想がないか。
食ふことの問題? 
生きることの問題? 
人の人たる問題を援(?)いて食ふため国の立つための問題が理想であったら全く小さな問題である」

これは、大川が「食べるため国家を立てるための理想を語ったのに対して、「人の人たる問題をないがしろにして、何が理想だ、国家以上の大理想はないのか」みたいに読んだんですが、「人の人たる問題を援いて」だとすると、「たすける」「援用する」みたいな意味になってきて、ちょっとわからない。前半で小さな理想だとディスっているので、否定的なんだというのはわかるんですが。
Okawa1
これが、大川周明講義の内容の北斗のメモ。

「朝鮮台湾を含んでこれを大邦日本……
植民政策は同化主義は失敗と攻撃せられた(フランス)…
日本はそれを如何(台湾を植民地とみるは不可
西洋の例にのりとる可からず……ヲウストリアが治めた政治……日本は同化政策ととる可し
民族を同じうする……ローマの同化政策は成功
した。 フランスは独逸の或る一角地を同化させて
しまった 百年後には祖先よりフランス人たるを誇りとした
大邦日本の理想 日本海を中心にして満蒙に発展すること」

 といった、大川の日本中心・征服者としての心得を北斗はどう聞いたのか。

2018年1月26日 (金)

「徳富蘆花ゆるせん!」

違星北斗が「蘆花許せん!」と言ったらしいのですが、理由がよくわからなかった。

もしかしたらだけど、蘆花の旅行記に「熊の足跡」というものがあり、その中の釧路での記述の中に、

「昨日石狩嶽に雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川原野を南方へ下つて行く。水田が黄ばむで居る。田や畑の其處此處に燒け殘りの黒い木の株が立つて居るのを見ると、開け行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀が身にしみる樣だ。」

(青空文庫「熊の足跡」徳富蘆花 http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/files/18326_19239.html)


といったものがある。
これなんか、北斗が見たら怒りそうではある。

2017年11月26日 (日)

秋田雨雀

Ujaku


違星北斗と面識があった秋田雨雀。

島村抱月の弟子で、戯曲家・小説家・詩人。
社会主義者で、エスペランティスト。

北斗と出会った大正14年、43歳だった。

秋田雨雀は、その大正14年に雑誌「改造」に
「悲しみのオキクルミ」という戯曲を書いている。

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北斗と出会ったその年に、「悲しみのオキクルミ」とは、
無関係とは思えない。

大正14年の「改造」を調査してみよう。



2017年11月25日 (土)

違星北斗が北海道新聞に!

今日(2017・11・25)の道新の「ミンタラ」《先人たちの物語 シンリッオルッペ》で違星北斗が取り上げられています。

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すごい!
内容については、まず、問題ないです。
特に良いと思ったのが「同人誌コタン」の表紙がちゃんと正しいものになっていること。(遺稿集に掲載されているエカシの立ち姿の載ったページは、実は目次ページで、収録時に表紙が散逸していたのでしょう。数年前に古書店で同人誌コタンが出た時に、本当の表紙がわかったのです)。 

いやあ、年表にも書き加えないといけないですね。
(とはいえ、HTMLの更新環境が失われているので、手軽には出来ないんですよね)。

添付画像では読めないと思いますので、下記リンクを参照。
FB「新聞記事スクラップ」
https://www.facebook.com/sisam2017sinbun/photos/a.137540280136904.1073741826.137538480137084/198243270733271/?type=3&theater

ただ、北斗のイラストはもうすこし男前がよかったな。

2017年8月29日 (火)

コタン吟

だいぶ前に、余市のK先生よりコピーを頂いた、北斗自筆の「コタン吟」。

Img_4121ss

 「コタン吟」というタイトルは、
同人誌「コタン」創刊号(S2/8月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/kotangin-dojin.html
「新短歌時代」創刊号(S2/12月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shintankajidai.html
「志づく」(S3年2月)
 http://www.geocities.jp/bzy14554/shiduku.html

「ウタリの友」(昭和8年1月)
http://www.geocities.jp/bzy14554/utarinotomo.html

など、いろいろなところで使われているが、このラインナップは、そのどれとも違う。
 
 おそらく「コタン吟」というのは、北斗が好んで使っていたタイトルなのだろう。

 のちに、病床で「北斗帖」という自筆の歌集を編み、
 草風館版コタンでも「私の短歌」を編集者によって「北斗帖」と名づけられてしまった
(つまり、北斗による命名としては病床の「北斗帖」のみで、草風館版「北斗帖」は北斗自身の編集でも命名でもなく、中身も自薦歌集「北斗帖」とはイコールではないと思われる)が、

 元気な時は「コタン吟」を好んで使っている。

 「コタン吟」のタイトルにも、もっと注目すべきだろうと思う。

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