2022年6月13日 (月)

山中峯太郎「民族」の研究論文

「山中峯太郎『民族』論 - アイヌ表象を中心に -」崔俊鎬氏

 

https://trijapan.com/data/upload/(25)%EC%B5%9C%EC%A4%80%ED%98%B8_1560079252.pdf

 

 山中峯太郎には「民族」の改稿版の「コタンの娘」もあるが、それには触れられていないのが不思議。

 

 

 とおもったら、あった!

 山中峯太郎の「アイヌ小説」論 -『民族』と『コタンの娘』の比較を中心に-

 

https://t.co/PKO1SHJBnj

2022年5月26日 (木)

追悼 “アイヌ語爺”太田満さん――そして「違星北斗のイチャルパ」について

1 太田満さんと違星北斗

 

違星北斗のイチャルパ(慰霊祭)を、彼の故郷の余市でやりたい。

太田満さんは熱烈に語りました。

その太田満さんがお亡くなりになったという知らせを受けたのは昨年(2020年)の12月下旬のことです。受け容れられず、数日の間は呆然としてしまいました。

 

突然のお別れでしたが、出会いもまた、突然のことでした。

今から5年前、20161月6日、深夜2時半ごろ。

当時、ツイッター(@aynuitak_jiji)で「アイヌ語爺」というアカウント名を使っておられた太田さんは、

「誰であろうと北斗に熱き思いを寄せられる あなたに敬意を表します」

というツイッターのダイレクトメッセージを、アイヌの歌人・違星北斗の研究をする私に送ってこられました。

その時まで、私は太田さんのことをほとんど知りませんでした。

私が返信すると、そこから「違星北斗」への思いと、「アイヌの現状」についての深夜のメッセージのやりとりが始まったのでした。

 

太田さんは八雲アイヌにルーツを持ち、旭川でアイヌ語教室を開催されたり、大学でアイヌ語を教えられていたこと、現代におけるアイヌ語教育の専門家であることなどを、その時はじめて知りました。

ネット上での付き合いは5年ですが、実際に会ったのは2回。あわせて4日間ほどの時間でしかありません。ですから、追悼の言葉を書くには、私は不相応なのかもしれません。

ただ、確信を持って言えることがあります。

太田さんは、私がそれまでに話した人の中で、最も違星北斗について、熱い思い入を持ち、それを語ってこられました。

違星北斗について、深く語ったということだけは、誰にも負けない。

ですから、同じ「違星北斗仲間」として、追悼の言葉を残させていただきたいと思います。

 

 

若い頃から違星北斗の著作をバイブルにして生きてこられたという太田さんは、違星北斗の

 

《滅び行くアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く(違星北斗)》

 

という短歌を引用し、こう言われました。

 

「『アイヌのために立つアイヌ』の向かう先が、結局「貧困の果ての病死」なら、なかなか人には勧められません。

それは、私も北斗ほどでないにせよ、アイヌの内の問題に関わってきた経験から、身に染みて言わねばならない言葉です」

 

実際、アイヌの為に生涯をかけた違星北斗は、太田さんの言う通り、貧困の中に病死しなければなりませんでした。

 

 

アイヌの歌人・違星北斗が活動した大正時代から昭和の始めにおいては、社会がアイヌ民族を「滅びゆく民族」と呼んではばからない時代でした。

それは「アイヌは滅びる」「アイヌはいない」と言論によって「アイヌ」という存在を社会の中から抹殺する、いわば言霊による大虐殺(ジェノサイド)が行われていた時代でした。

そんな中で違星北斗は、新聞や雑誌などのメディアに「俺はアイヌだ」「アイヌはここにいる」「アイヌが滅びてなるものか」と、アイヌ自身の声を発し、アイヌ民族の存在を主張したのです。

 

《アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ》

 

「アイヌはいない」のではない。「滅亡」もしていない。ここに生きている。社会の中での「アイヌ」という言葉の概念を、自らが発言・行動することで更新(アップデート)し、多くの人々のアイヌに対する認識を改めさせる。ために違星北斗は言論活動を行っていたのでした。

しかし、一人で背負うには大きすぎる「一民族の未来」を、その青春のすべてをかけて背負って起とうとした違星北斗自身は、貧困と病気に苦しみ27歳の若さでこの世を去りました。

 

 

太田さんは、自らの生き方を北斗に重ねて、こう言われていました。

 

「見かけだけではなく、本当にアイヌをどうかしようとすれば、貧困のうちに家族も持てず、ウタリの多くも敵にして生きなければなりません」

「私はそれを実践してきて、つくづく骨身にしみました」

 

 かつて違星北斗が味わったように、太田さんも「本当にアイヌをどうかしよう」とするために、、生活の上での幸福を犠牲にしてこられたのだと思います。

時には北斗自身もそうであったように、ウタリ(同族)の言動に失望させられたり、ウタリ同士で対立し、決別したりしてしまうこともあったのかもしれません。

 

「私は好きでやってきた。だから私がこのまま犬死にしても自業自得。

でも後輩にはそうなってほしくないと思うのです。」

 

 だから、太田さんもまた、アイヌのために闘ってこられたのでしょう。

 

 

 違星北斗の言葉は、新聞の投書欄ではなく、短歌欄に投稿されました。

それは投書欄では「検閲」や「改稿」、あるいは「不採用」のおそれがあるのに対して、31文字ですが、投稿者の作品がそのまま掲載される短歌欄に投稿されました。

それはゲリラ的な作戦でもあったのでしょう。短い言葉で世界を叫ぶ。それは現代でいえばツイッターのようなものでしょう。

北斗のその叫びは、遺稿集『コタン』にまとめられ、森竹竹市をはじめとする、多くのウタリの心を動かし、さらに和人のアイヌに対する考えも改めさせることとなり、今も輝きを放っています。

 私は、北斗のように生きようとした太田さんの言葉もまた、「後輩に」あるいは「後世」に伝えなければならないものだと思います。

 太田さんの遺稿集が編まれることを切に願います。

 そして……今私にできることとしては(ご本人はお嫌かもしれませんが)、太田さんが残した北斗に関する言葉をみなさんにご覧いただくことだと思い、ここに再録したいと思ったのです。

 

2 「元始」のコタン

 

 太田さんとの深夜のやりとりは続き、違星北斗が大事にした「原始(元始)のコタン」への憧憬についての話題になりました。

 

《見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。山の名、川の名、村の名を静かに朗咏するときに、そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなくなるものか、違星北斗はアイヌだ。》(違星北斗「アイヌの姿」、傍点筆者)

 

 かつてアイヌの自由の天地だったころの「原始」の姿。

違星北斗にとってそれは「人間の誇」……「アイヌの誇り」といえるものであり、そして、彼は一生、その憧憬のイメージを追い続けることになりました。

 

その「原始」のイメージの源泉としては、北斗自身が幼少期から触れてきていた、地元余市のアイヌの伝承の世界のイメージもあるでしょうし、上京後に読んだ知里幸恵の『アイヌ神謡集』との出会いも大きいでしょう。

 

《その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.(後略)》(『アイヌ神謡集』「序文」知里幸恵)

 

 北斗は、この「原始」のイメージを記した知里幸恵の文章に「コタン」というタイトルを付け、自らの同人誌『コタン』の冒頭に掲げました。

いわば、幸恵の魂を継ぐ者であることを宣言し、もともと、「里」とか「村落」、「集落」といった意味の「コタン」に、北斗は幸恵から受け取ったアイヌ民族の元始のイメージを結びつけたのでした。

 

 

 その「原始」の「コタン」について、太田さんはこう語りました。

 

「元始のコタンは精神世界のみならず、現実のウタリの生活の中にも、形はいくら変わっても、太古より受け継がれたものが見いだせた。

それは今においても同じで、やはりどんなに変形してもそれはあります。」

 

(先の北斗の文では「原始」と表記していましたが、他の文では「元始」も使っています。太田さんはメッセージに「元始」と書かれていたのでそのまま表記します。)。

 いくら時代が進み、アイヌの見た目や生活が変わっても、先祖から受け継がれたものは消えず、必ず残っていく。

 

これは、先の違星北斗の《そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなくなるものか》という言葉に表された思想にも通じるものだと思います。

 

「ところが、今はその『元始』の部分を国などが進める文化政策にからめて、さも昔風に暮らす、あるいは装うことだとしています。

当然そういうものは現実のアイヌ世界に見られないから、学者が作り上げたアイヌの世界観に沿って再教育しようとしています。」

「かくしてアイヌの子弟は『元始』が息づくアイヌの共同体から離されて、大学や白老などに行って、アイヌがかつて見た事もないような人工アイヌになってしまう。

私はそれを非常に警戒し、私の後輩たちにも呼び掛けています」

「学者から学んだ若いアイヌが、年配のアイヌは何も知らないと馬鹿にし、その学者は若者が馬鹿にする人たちのところへ研究に来るというおかしな世界。」

 

今日、盛んになってきたアイヌをめぐる文化政策。一見、とても良いことのように思います。

でも、太田さんは問いかけます。

そこに違星北斗の、そして太田さんの言う『元始のコタン』の魂はあるのか。

一番大事な、コタン社会という共同体に伝わる、先祖からの伝統、アイヌをアイヌたらしめる「元始の部分」が無視され、学者によって再教育された「人工アイヌ」になっていないか。

 

「北斗の言う『元始』は今なお健在です。しかし今の文化政策が続けば、次の代にはほとんど伝わらず、亡びはしないまでも一層少なくなるでしょう。」

 

 私にはその答えはわかりません。しかし、とても大切な指摘だと思います。

 もちろん、太田さんは単に「昔のコタンに回帰せよ」と言っているのではありません。

 

「今はネットがあるので、日本各地に孤立したウタリにも呼び掛け、表立ったアイヌの動きとは違った動きもできてきています。彼らはみなそれぞれ職業を持って自立した生計を営んでいるのが特徴です。ある意味ネットのコタンと言えますか。」

「先日もスカイプでアシリパノミをやりました。それぞれの姿を写しながら、それぞれ自分のアペフチに祈る。」(アシリパノミ=新年を迎える儀式)

 

 と、ネットを使ったカムイノミをされていることを教えてました。私は単に「こういうことも出来るんだ」と驚いたのですが、よく考えてみると北斗の場合も、新聞をツイッターのように使ったりしていましたし、自分の足で道内のアイヌコタンを巡り、アイヌ同士のネットワークを作ろうとしていました。もし北斗の前にネットがあったら、絶対に活用していたに違いありません。

 

北斗は別の「アイヌの一青年から」という文の中でも述べています。

《私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません》。

 もし今より後に、和人との「同化」が進んでも、アイヌと和人の区別がつかなくなったとしても《過去の事実を永遠に葬てはいけない》

《吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの 己が誇》……ここでは、北斗は「自分のもの 己(おの)誇(ほこり)」すなわち「アイヌの誇り」を、祖先の「元始思想」や伝承文化とイコールで結んでいます。。

北斗は、「コタン」という言葉の概念に、「《元始思想》や伝統文化など、アイヌが受け継いできた原初的で大切なものが、時代がいくら変化しても変わらずに残っていく場所」という意味も込めようとしているのように思えます。

そして、「コタン」すなわち「アイヌの共同体」が存続しなければ、残っていくはずの大切なものも、残していけないということなのかもしれません。

この「アイヌの一青年から」という文章の終盤に、

《十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。》

という興味深い、ちょっとミステリアスなフレーズがあります。

私は長らく意味がわからなかったのですが、太田さんの言葉によって、この「純然たるコタン」という言葉の意味も、なんとなくわかるような気がしてきました。違星北斗の思想が「コタン」という言葉に集約されていることに改めてきづかされました。なぜ自分が作った同人誌に「コタン」と名付けたかもわかる気がするのです。

 

 

3 違星北斗へに繋がった「受話器」

 

 深夜のメッセージのやりとりは続きます。

 

「以前の北大でのあなたの講演にも行きたかったけれど、いけませんでした。内容は行った仲間から聞きましたが。」

「ところで、以前、北斗の墓参り企画してましたよね?」

 

と、ここで、初めて、太田さんが以前から私のことをご存知いらしたことを知りました。

確かに、以前に、違星北斗の墓参りを企画したことがありました。当時(2009年)、SNS(ミクシィ)で募ったものの人が集まらず、一人で北斗の墓に参るために余市に行ったのでした。

しかし、北斗の命日は126日ですから、大豪雪に阻まれて墓に一歩も近づけないという事態になりました。

(しかも、そのお墓には北斗は入っていないということが後にわかりました)。

私にとっては「トホホ」なイベントだったのですが、それを覚えていただいているということが意外でしたし、非常に嬉しかったことを覚えています。

 

「アイヌは墓参りしないのですが、私も身内ではないとはいえ、敬意から時としてイチャラパはします。(特定の人にイチャラパするのではなく供物の受取人に指名する)。毎年カムイノミしていますから、日が合えばうちのカムイノミで北斗にイチャラパしませんか?」

 

 ここから縁が生まれ、例年太田さんが実施されているカムイノミに声をかけてくださるようになりました。

太田さんは、どこからも援助を受けず、参加者それぞれが時間と費用に都合をつけて準備し、実施しているとのことでした。最初は少人数でしたが、

 

「頑張れば道ができ、気付けば周りに人がいる」

 

とおっしゃるように、近年は毎年20人くらいでカムイノミを行っているそうで、まず滝川市のご自宅にあるヌサ(祭壇)でカムイへの祈りと、供養をされた後、石狩市の浜益の丘の上(ユカラの英雄ポイヤウンペの生誕の地「トミサンベツ・シヌタプカ」と伝説に残るところだそうで、今は神社があります)で、カムイノミ、ユカラ奉納を行い、最後に海岸で海の神へのカムイノミをして終わるということでした。

その目的としては「自立したアイヌを少しづつ増やしていく」こと、そしてアイヌ民族以外の参加も可にしているのは、「民族等の違いを越えた社会生活」というものが、確かに存在すること、それを見た人にも確信してもらいたいのだと語っておられました。

 

その年、2016年は仕事の都合でどうしても参加できず、落胆していたところ、

 

Yayerampokiweysakno ratcisukup es=ki kuni ku=einomi hawe tapan na .

 落胆なされず、平安な暮らしをして下さいますようお祈りいたします。」

 

という言葉をいただきました。

翌2017年、初めて本格的なカムイノミに参加させていただきました。

浜益の丘の上でのカムイノミ、海岸での海のカムイノミも初めての私には何もかもが新鮮で、わくわくしたのを覚えています。

この年は、仕事の関係で到着が夜になったのですが、

 

「ヤイェヤムノエソカイワアプンノエサラキナンコンナー

(気を付けてお過ごしなされ、道中何事もなくまいられますようにお祈りします)」

 

 とメッセージをいただき、到着した滝川のご自宅では、参加者の方との大切な出会いがありました。

 

2018年のイチャルパでは、アットゥシを着るように手渡され、前の方に座るように言われました。

そして、突然

「違星北斗に伝えたいことを、日本語でいいから語りかけてみなさい」

と言われて、焦ってしまいました。

いきなり儀式に参加するよう指名されたことに対しての驚きもありましたが、それよりも、

 

(あ、違星北斗に話しかけられるんだ……話しかけてもいいんだ…!?)

 

という、もっと純粋で新鮮な驚きがありました。

「あ、あなたの研究をさせてもらっている者です…」

その時は緊張して、しどろもどろになり、何を言ったかは覚えていません。

突然、憧れの人・違星北斗に「電話が繋がってるから」と『受話器』」を渡されたようなものですから。

 その時まで、「違星北斗に話しかける」という感覚も、発想もありませんでした。

 北斗がいる世界につながる、自分が生まれるずっと前に亡くなった人に直接、話しかけてもいいんだ、そういう考え方をしてもいいんだと、そういう考え方があるんだ、と気付かされた忘れられない体験でした。

 

海でのカムイノミが終わったあと、太田さんは私に一本のイナウを手渡しました。

「いいんですか?」「お守りだから」といった会話をしたような記憶があります。

 

翌年2019年のカムイノミには仕事の都合で参加できませんでしたので、この2018年の夏が、太田さんと直接会った最後になりました。

 

このイナウを使えば、太田さんにつながる「受話器」になるような気もするのですが、そのやり方を聞けなかったことを残念に思っています。

 

 

4 「Iyoci or ehorari kamuy nomi イヨチオロエホラリカムイノミ」

 

 

「違星のイチャラパを余市でやることを考えてみてはいかがでしょう。いつかやってあげたいと思ってます」

 

 2019年頃より、太田さんと「余市でのカムイノミ」について、ツイッターのメッセージでやりとりをするようになりました。

 

「あれだけアイヌにこだわって、同胞からそっぽ向かれ、知られてすらいない北斗のために、その愛する故郷に、気持ちのある人が、イナウの一本でも捧げられたらいいのではないでしょうか」

「そうすれば、あの世に行った時に、『やあ、あの時はありがとう』くらいの言葉を本人からもらえるかと思います」

 

 あの世で、違星北斗に「ありがとう」と言われる。

まったくそういう発想はありませんでした。これは俄然、やらざるを得ません。

 

「イヨチアネカムイノミ  Iyoci or ehorari kamuy nomi イヨチオロエホラリカムイノミについて、今年浜益に集まった者達で協力しようと話がまとまりました」

 

ちなみに違星北斗の「イチャルパ(供養)」とせず、余市の「カムイノミ(カムイに祈る)」としているのは、

 

「最近何も考えず『イチャルパ』を前面に出した行事ばかりですが、死者のことは表ざたにせぬアイヌプリから、本来は多くの村で『カムイノミ』として行事を行い、それに付随するものとして供養をした」

 

という、太田さんの思いによるものです。

 

「今年浜益では、集まるアイヌの出身はいろいろだけど、伝説の地をこうして守っているから、今後は新しいシヌタプカウンクルとしてまとまっていこうと決めました」

 

「シヌタプカウンクル」は「シヌタプカの人」。「シヌタプカ」「トミサンペッ」はユカラの英雄ポイヤウンペの出身地です。

 

「そしてユカラでこのトミサンペッと関係が深い余市の地に応援するのは、ユカラの理にもかなっていると話しました。というわけで、ヌサなどアイヌの儀式にまつわる一切はこちらで準備させていただきます」

「できれば余市内の北斗の足跡を巡ってもみたいですね。来年の余市のカムイノミも私のウタリ一同楽しみにしております。是非ともあなたも私達も満足し、他に誇れるお祭りにしていきましょう」

「必要ならば、浜益でやっているように、地元と協力して小規模でも毎年あるいは何年かおきに儀礼を継続し、余市アイヌの歩みを余市市民に深めていってもらってもいいと思っております」

 

私が参加できなかった2019年のカムイノミで、太田さんが参加者の方々にもお話をしてくださり、いよいよこれはぜひとも余市でのカムイノミを成功させねばと、私も遅まきながら腹をくくったのでした。

 

 

「余市で違星北斗のカムイノミを行いたい」。

 違星北斗研究でお世話になっている余市の郷土史家のAさん、Kさんなどに連絡をしたところ、その提案は歓迎をもって迎えられました。

 自治体や研究機関の協力や協賛を得ることも考えられましたが、太田さんの「お上の力を借りず、自分たちの手で行えることをする」というポリシーから、申請は行わず、例年のカムイノミと同様の形で行うことになりました。

(もちろん、必要な許可はとり、地元の学芸員の方などにもご相談をする前提です)。

 

 なぜ、余市アイヌの方々に連絡を取らないのか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。

余市には「アイヌ協会」はありません。

違星北斗が「アイヌは滅びてなるものか」「アイヌはここにいる」と昭和の始めに叫んだ「余市コタン」「余市アイヌ」は、残念ながらもう存在しない、ということになっています。

 

もちろん、それは自ら公にアイヌを名乗る方がいない、ということで、個人としてアイヌ文化を守り続けた方は比較的最近までいらっしゃいました。昭和30年代には、アイヌの儀式を続けている方がいたそうです。

また、昭和の終わりごろ、教育委員会が余市でカムイノミをやろうとしたことがあり、余市にはアイヌ民族がいないので、祭主として他の地方のアイヌの方を呼んできた所、当日、観衆の中から「ウチのやり方はそうじゃない!」という男性が出てきて、以後その方が祭主の役目を行った、ということもあったそうです。

数字の上では、余市には「アイヌ民族」はいない、ということになっていても、目には見えないけれど、「元始のコタン」はそこにあったのかもしれませんし、もしかしたら今もあるのかもしれません。

そして、もし今回の余市のカムイノミでも、もしかしたら「ウチの作法はそうじゃない」という方が観衆から出てくる可能性だってあったかもしれません。

 

 

2020年のお正月の挨拶もそこそこに、いよいよ太田さんと私、そして余市の郷土史研究者の方々を交えて、カムイノミについてやりとりが始まりました。

郷土史家の方からは、カムイノミを行う場所は「違星北斗の生誕地」が今、空き地なのでそこはどうか、と提案がありました。

また、やりとりの中で、北斗が愛したシリパ岬を望む余市の海岸や、余市水産博物館の違星北斗の句碑の前でも何かできないか、他に違星北斗のファンの方で実家がお寺の方がいらっしゃるので、そこで何かできないか等々、余市でのカムイノミのプランを太田さんに伝えました。

 

「カムイノミ、イチャラパは句碑前がいいですかね。それ以外にも由緒ある場所があれば、イナウを捧げて歩くことはできます。」

「カムイノミは句碑前で済まし、現地では酒を撒くだけで済ますこともできます。その酒はsirkorkamuy土地の神として、古そうな樹に捧げればいいので」

「逆にお寺の方は、北斗について小講演とか朗読とか交流会の会場にはお願いできそうですね」

「ぜひ北斗の詩や文章、気に入っている一行なりと皆で朗読するとかしたいですね」

「私としては、毎年は無理でも継続させていきたいので、徐々に行事を作っていけばいいと思っています」

 

こうやって、様々にアイデアを出し、計画を進めようとしていたところに、「コロナ禍」がやってきました。

2020年6月。太田さんのメッセージが届きました。

 

「誰もが予期せぬ病害に不安な日々を送っておられることとお見舞い申し上げます。

かねてより計画中であった余市での北斗のカムイノミですが、ヤウンモシリも病魔がいまだ去らず、今後も長期化が予想されるため、来年以降に延期したいのですがいかがでしょうか? 来年も怪しいとは思いますが、とりあえずの目安として来年以降ということで」

 

もちろん、日毎にコロナウイルスへの罹患者数が増加してゆく状況下で開催できるはずもありません。私も「来年の方が違星北斗生誕120年なので、よいと思います」と返信しました。

 

「お互いの許に病魔が寄りつかぬことを祈ります。今年は病魔払いにナナカマドの煮汁だけ使いましたが、センダイカブを栽培しますから、来年は伝統のとおりにkikinni wakka(ナナカマドの煮汁)atanewakka(センダイカブの煮汁)が使えるようになります」

 

 これが、太田さんの私への最後のメッセージとなりました。

 

 

 コロナウイルス流行に関しては、まだまだ先の見えない現在ですが、私は太田さんが望んでいた「余市でのカムイノミ、違星北斗のイチャルパ」を、ぜひとも実施したいと思っています。

 それは来年になるか、再来年になるかわかりませんし、私だけで行えることでももちろんありません。アイヌプリの儀式を行うためにはアイヌの方のご協力もお願いしなければなりませんが、それも私にはどうしようもないことです。それでも、いろんな方の力をお借りしなければなりません。

もしアイヌプリの儀式が叶わなければ、どんな形であれ……たとえそれが、太田さんが参加したかったと言ってくださった、12年前の北斗の墓参りのような、淋しいものになったとしても、必ず余市で、違星北斗を偲び、顕彰する何かをやりたいと思っています。

 

 

 太田満さん、ありがとうございました。

 最初にメッセージをやり取りした2016年1月6日。あっというまに数時間がたち、一区切りついた頃には、すでに朝方になっていました。その日、最後に教えてもらったのがこの言葉でした。

 

Pirkano yaysinire yan ! ピリカノヤイシニレヤン! おやすみなさい!」

 

 私があの世に行ったら、また違星北斗に取り次いでください! 

そして北斗と3人で話しましょう。

 

202136

違星北斗研究会 山科清春

 

2022年5月26日追記

 余市のイチャルパについては、未定ですが、現実的に難しいのではないかと思っています。

 何らかの北斗関係のイベントは、できればと思っていますが……

2022年2月 2日 (水)

【新発見】違星北斗の手紙(金田一京助宛)大正14年5月25日

T様より、違星北斗の手紙の写しを発見した旨、お教えいただきました。
拝見すると、うち1点が新発見でした。
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豊多摩郡阿佐ヶ谷大字杉並村成宗三三二

金田一京介先生

机下
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前略

 昨日は誠に有がとう存ました

 殊に大好物なお汁子 沢山ご馳走様になりまして 御礼の申上げ様もありません

 あれから代々木の藤田様のお宅に行く ついでに久保寺様方に立寄りました

 ちやうどお留守でした そこのご主人は また 僕の先生(小学校)のそのまた先生なんでした ウレシカッタ

 そこからすぐ藤田様方に行き また愉快に遊び日曜の一日を過しました

 先生 如何でしたでせう 例のアイヌのことは 私しも大へん心配してゐました

 アイヌから一人でも能力のある者を出したい 私しは ホントウニ アイヌであって それが売り物でないことを 望ましい処から 昨日は 遂(つ)い 失礼を語菜?を申し上げたのであります どうぞ御海容を下ませ

 本日 東京日々新聞に戸田直斎?博士談「アイヌに就て」彼らは蛮人にあらず 系統は西洋人に近い……曰々の記事がありました

 こうしてアイヌでない人によって立證されることは 誠に感謝の次第であります 

 戸田氏はアイヌの少年(一三)を自宅に置いて教育してゐるそうです ナント云ふ 有りがたいことでせう 蔭乍ら拝んで居ります

兎に角く 今はアイヌの幸福の秋である様に思れます ちゃうど今までのと反対に同情に満たされてゐるのです

有りがたい時代に生れ合せたことを感謝致し舛。外部から證據たてられるより 内部から実證することを大切だと思います

それは 同情は ともすれば我等民族■惰弱に流れやすい欠点の多く持ってゐることを思ふからであります。

先日の問題を西川先生に相談しました(希望の件)三十一日(日曜日)にまたお伺い申上げます 先は一寸御礼申ます

 

四谷区三光町一五〇 市場協会内 違星北斗

 

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いろいろと新発見もあり、また「なるほど」と空白を埋めたり、なんとなく予想していたことを補強してくれる内容もあったり。
後で解析したいと思います。
・藤田氏はノートにある「藤田丙八」氏か。千駄ヶ谷在住。
・久保寺は久保寺逸彦か。北斗との接触は初確認。
・戸田直斎(直彦とも読める)は書家 https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke_name/737261.html
・上記のアイヌの人種的な「系統は西洋人に近い」という説は、戦前の説で、今日では誤りであることが判明している。
・西川は西川光二郎、「希望」は北斗の希望なのか、あるは「希望社」のことである可能性もあるかもしれない。

2021年6月 4日 (金)

『違星北斗歌集』刊行のお知らせ 

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 長らく違星北斗の遺稿集『コタン』が絶版でしたが、それに代わる遺稿集が発行されることになりました。

………………

『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』著者 違星 北斗
(角川ソフィア文庫)

発売日:2021年06月15日 商品形態:文庫

「アイヌの啄木」と呼ばれた歌人の心の叫び。

「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ」
「滅亡に瀕するアイヌ民族にせめては生きよ俺の此の歌」
「滅び行くアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く」

先住民族アイヌが公然と「亡びゆく民族」の烙印を押され、本来は「誇り高き人間」「立派な人」という意味を持つ「アイヌ」という言葉が侮蔑の響きをもって使われていた大正時代から昭和のはじめ。アイヌ民族復興のために立ち上がりその生涯を捧げ、病のため27歳で早世した歌人がいた。文庫ではじめて違星北斗の短歌、俳句、詩、童話、散文、ノートの記録を集める決定版。

【目次】
違星青年 金田一京助

短歌
医文学/小樽新聞/新短歌時代/北海道人/志づく/私の短歌/はまなすの花/ウタリ之友

日記
大正十五年七月十一日から絶筆

俳句
句誌にひはり/医文学/俳句/北海道 樺太新季題句集/月刊郷土誌よいち


冷たき北斗/大空

童話・昔話
熊の話/半分白く半分黒いおばけ/世界の創造とねずみ/死んでからの魂の生活/烏と翁/熊と熊取の話

散文・ノート
ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて/ぶちのめされた民族が/アイヌの一青年から/春の若草/我が家名/淋しい元気/淋しい元気/コクワ取り/アイヌの誇り/疑うべきフゴッペの遺跡 奇怪な謎

手紙
自働道話/子供の道話

コタン創刊号
目次/巻頭言 白路 凸天生/アイヌ神謡集序文コタン 知里幸恵/偽らぬ心 凸天/生活 自覚への一路 浦川太郎吉/「アイヌの姿」 北斗星/心の日記(後藤静香)/断想録(其ノ五) 十一州浪人/コタン吟(其ノ二) 十一州浪人/はまなし凉し/編輯余録/奥付

解題・語注
違星北斗年譜
解説 違星北斗その思想の変化  山科清春

https://www.kadokawa.co.jp/product/322003000263/
………………

タイトルは「歌集」ですが、遺稿集『コタン』の内容を網羅し、さらに新発見の道話・手紙・ノートなどの文章を収録。

350ページですが、うち90ページは「解題」「年表」「解説」を私が描き下ろしています。

違星北斗の生涯と思想の変化を解説しているので、コタンよりも分かりやすくなったと思います。

 

2021年4月18日 (日)

「RUYKA ITAK 言葉の架け橋」に寄稿しました

RUYKA ITAK 言葉の架け橋に寄稿しました。

昨年末に亡くなった太田満さんのこと、太田さんとやろうとしていた違星北斗イチャルパについて書きました。

 

こちらで読めます。

2021年4月15日 (木)

希望社『コタン』のフゴッペ


うーん、希望社『コタン』のフゴッペ。
このToppaって初出の小樽新聞にはないのね。
「芸術的彫刻の場合でもkunr? とkamuiai の様な宗教用途の物の他はない」
kamuiaiも怪しいけど、ルビからの推測だろうか。

でも、これは小樽新聞や初版(希望社)の編集者にはハードルが高かっただろうな。
そして草風館版はその希望社版を底本にしているから…
北斗のフゴッペ論文は、もう一度北斗の原稿はないにせよ、初出の小樽新聞をベースに誰かちゃんとした人が検証し直す必要があるだろうなあ。



写真の説明はありません。写真の説明はありません。
まあ、それは『コタン』全般にいえることで、初版の編集のまずさから、さまざまな間違いが残ってしまった。
本当は全部初出にあたって『シン・コタン』を作るべきなんだろうな。

あと、初出雑誌新聞にあるルビが希望社版ではぜんぶ無くなるので、それも困るんだな。
北斗はアイヌは基本偶像を彫らないというためにカムイアイとこれを例示してるんですが…これは道立図書館の小樽新聞のマイクロフィルムですが、図書館によっては記録状態に差があったりするのでしょうか。
kuur はkur (人?)でしょうか。文脈からすると、彫刻を施す「宗教儀礼に使う道具」の名前かなと思います。イナウとかパスィとか、墓標とか。

奈良農夫也(のぶや)

北斗の恩師の中には2人の奈良先生さんがいる。

一人が奈良直弥で余市の大川小学校の担任。

もう一人が奈良農夫也(のぶや)で、日高の長知内のコタンの学校の先生。

偏屈だが、アイヌ文化に通じており、その知識は北斗によると金田一と並ぶという。

本の画像のようです

2021年3月30日 (火)

やっと少しだけわかってきた

やっと違星北斗のことが少しだけわかってきた気がする。でもこれは自分ではなくて、

さんに教えてもらったことなんだ。

2021年3月29日 (月)

「吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい」

久しぶりに読んだらけっこう重要なこと見落としてたな。

 

「違星北斗君を悼む」村上如月

https://t.co/IZEEO10szX?amp=1

 

「吾等は二世違星北斗君の出現をまちたい。」

 

これも。盟友、稲畑笑始の追悼。
iboshihokuto.o.oo7.jp/otarutsuito.htm

 

「幾多の郷土芸術の真価を高揚しアイヌの歌人として歌壇に独自の境地を開拓した彼の生涯こそ華やかにもまた淋しい元気の終局でもあつた。吾れ/\はとまれ、郷土芸術史上に薄幸なる歌人北斗君をして永劫にその存立を讃へてやまぬものである。」

2021年3月25日 (木)

バチラーの平取幼稚園についての論文

バチラーの平取幼稚園について。

「大正,昭和初期における先住民アイヌの子育てと保育 : ジョン・バチラー,バチラー八重子による平取幼稚園と日曜学校を中心に」島津 礼子・七木田 敦

 

https://t.co/3lmlFAcQpw?amp=1

2021年3月23日 (火)

なんていうか

このレジュメ、金成マツとバチラー八重子を混同してるな。金成マツが「若きウタリへ」を書いたと書いてある。なんていうか。

 

https://t.co/plWwt8IoAw?amp=1

2021年3月13日 (土)

スッキリ

#スッキリ のアイヌ差別放送のために地獄の釜の蓋が開いた。Twitterでは差別を受けてきたアイヌの当事者に「何が問題なんだ?」と無知無恥な輩が無神経に詰め寄る光景があちこちで見られ、ありもしない「アイヌ利権」などの陰謀論を垂れ流す者も活気付いている。#日テレ がやったのは差別の再生産だ。

 

(「地獄の釜」の言葉の使い方が間違っているとの指摘。すみません。「地獄の扉」とでもするべきでした。

「地獄(じごく)の釜(かま)の蓋(ふた)もあく の解説
正月や盆の16日は、地獄の鬼も罪人の呵責 (かしゃく) を休むというところから、この両日はこの世の者もみな仕事をやめて休もうということ。」

なるほど、すみません。 https://t.co/3UqHZzkuS4?amp=1)

2021年2月13日 (土)

「違星北斗という歌人」

小池陽慈氏による、北斗の評論です。

すばらしい。

https://t.co/ncP5TUB3Bs?amp=1

2021年2月 9日 (火)

「違星北斗の祖先 余市アイヌの系譜」のお話

明日お昼12:30から、自分の頭の整理のために「違星北斗の祖先 余市アイヌの系譜」のお話をしたいと思います。みなさんが思っているほど、アイヌの歴史はファンタジーでもファジーでもなく、和人とアイヌ社会の関係性、闘争の歴史だということがわかるのではないかと思います。clubhouseです。

もちろん闘争ばかりでもないです。

それから、あくまで余市という小さな地域のお話です。同じ時代でも、地域ごとに状況は違うと思います。

画像

図の家系不明の人の中には実は北斗のご先祖様がいると思います。

この図、シャクシャインの前とか、後とかが時代が飛んでるのはもちろん、和人側の記録がないからであって古代から連綿と続いているわけですね。もちろん「アイヌ民族は鎌倉時代から始まる」みたいな勘違いをしている人がいますが、古代からアイヌ民族の歴史のある時期を「アイヌ文化期」と呼ぶわけで。

 

ちなみに、他のコタンは存じないのですが、余市コタンの指導者の体制はだいたい乙名(リーダーもしくは調整役)が4人体制なんですよね。
上下ヨイチにそれぞれ惣乙名、脇乙名が2人ずつ。これはシャクシャイン時代から、場所請負制の時代になっても4人体制で、幕末には上下の区別はなくなりますが。惣乙名と脇大人2人の3人体制になるんですね。

2021年1月15日 (金)

『違星北斗の生涯』更新予定

どうにもこうにも忙しくて、なかなか進められない。

その理由は唯一つ。貧乏暇なしだ。

違星北斗も「アイヌを研究したら金になるかという人に 金になるよとよく言ってやった」と逆説でいうように、研究をするためには他で稼がねばならぬ。

しかし、私は馬鹿なので、金にならぬ「仕事」(と本来は言わないようなこと)ばかりを引き受けてしまう。

結果、働いても働いても、書いても書いても生活は楽にならない。

そうこうしているうちに、研究スケジュールは何ヶ月も遅れる。何年も遅れる。

ということでは全くダメだ。

今後の連載について、スケジュールをちゃんと立て直したい。

 

第7回 余市アイヌの系譜

もう、シャクシャイン以前は自分には手に負えない。とんでもなくたいへんなので、シャクシャイン時代以降で、とりあえず1回で済まして、本にするときに補足したい。

1 シャクシャイン時代~
2 祖父たちの時代
3 北斗の時代  

(1月末目標。2月前半。ここが一つの山だ。あとは分かっていることを書くのだから、ここよりはましだと思いたい)。

第8回 違星北斗の家族 幼少期

母ハル。兄弟たち。家族に囲まれ、幸せな幼少期。
小学校に入ってからのいじめの日々。
小学校の成績。
母の死。  

(2月末目標。ここはそんなに大変じゃないはず)。

 

第9回 青年期と「反逆思想」と「恩師」たち

労働の日々。病気。
新聞の記事。反逆思想。
思想の転機。小学校。
奈良。俳句と修養思想。自働道話。
友人・古田との出会い。  

(3月末目標)

第10回 東京時代1 金田一と「アイヌ神謡集」知里幸恵

大正14年2月に上京。余市から腹ペコで上京。

金田一との出会い(「違星青年」)。知里幸恵。バチラー八重子。
金田一との出会いから、広がる人脈。
東京アイヌ学会。伊波普猷。柳田、今和次郎ほか、民俗学者たちとの出会い。  

(4月末目標)

第11回 上京時代2 希望社と国柱会

自働道話社の東京府市場協会など、北斗の東京の家族となった人々。登山。

希望社の後藤静香との出会い。

国柱会のセミナー(金田一の証言)  

(5月目標、このへんでちょっと前倒ししていきたい)。

第12回 上京時代3 東京の日々

違星北斗ノートに基づく東京生活。

山中峯太郎や出版人、短歌・俳句。

北海道人、医文学など。

(6月目標)

第13回 北海道へ(幌別、平取)

大正15年、7月。東京を去ることにした北斗。送別会。駅での別れ。
まずは幌別へ。(「旧コタン」の間違い)。
そして平取へ。

理想と現実の乖離。

日高のウタリからの疎外。

バチラーと後藤静香の決裂。
土工をしながら、平取を拠点に日高のコタンをめぐる日々。

(7月目標)

第14回 余市へ、病気と研究

昭和2年。兄の子の死により、余市に戻る。
ニシン漁。
病を得る。
回復。西川光次郎との再会。
後志の調査  

(8月目標)

第15回 同人誌コタン発行、再び平取へ? 

同郷の中里凸天と同人誌「コタン」発行。

再び平取、バチラー八重子との日々。

(9月目標)  

第16回 新短歌時代、小樽新聞、フゴッペ論争

並木凡平と小樽歌壇の人々との交流。

無理解な歌人たち。

フゴッペ論争。

(10月目標)

 

第17回 売薬行商

昭和3年。後志、幌別、日高と売薬行商をしながらコタンをめぐる。

友人・鍛治照三の思い出。
能登酉雄。白老で友の死、山本先生、高橋房次先生、森竹竹市。
真志保、八重子との歌会。浦河太郎吉。

(11月目標)

 

第18回 闘病、北斗帖、古田謙二

余市での再びのニシン漁、

病気の再発。フゴッペ論争。「志づく」。

「北斗帖」

(12月目標)

 

第19回 絶筆、死、死後

友人・古田謙二(冬草)の尽力。

死の朝。

(1月目標)

 

第20回 違星北斗の影響と遺稿集「コタン」

北斗の死に反応した人々。

古田と、後藤静香たちによる「コタン」の発刊。

(2月目標)

 

といったところだろうか。

北斗生誕120年イヤーに、なんとしても完結させたいものだ。

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