吉田ハナ
早川昇著「アイヌの民俗」に、沙流郡平取町荷菜の清川戌七翁(聖公会伝道師、昭和33年8月10日没)の談話「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」が掲載されています。
その中で、筆者、早川氏は「昭和二十七年の夏も末の頃」、「まるで自分の叔母のように思わせて頂いている老刀自、吉田花氏のお宅で、四方山話」をし、そこで一夜を明かしたとあります。
これは平取時代北斗とともにあった、吉田ハナ氏のことだと思われます。筆者早川氏はこの吉田花氏に紹介され、バチラーの助手をしていた清川翁を紹介されたのです。
吉田花氏については、清川翁が語るところによれば、「わしたちの古い古い同信。心友とも盟友とも申し上げたくなるお方」で「そのころの事は、私たち以外では、吉田様が生き辞書でしょう。明治三十一年に平取聖公会教会が現位置に移転・完成されますと、このお方が平取キリスト教婦人会長として選ばれ」たといい、普段札幌にいたジョン・バチラーが平取に来ると、歓喜で顔つきが変わったという。平取教会に牧師のいなかった時代、吉田花は「食器持参で、教会の夜をお守り下さった」。
また、「吉田様へのも一つ大きな感謝は、ニシパ(管理人注:旦那の意、バチラーのこと)が後藤静香氏のご援助で、平取にお設けでした『平取幼稚園』(『バチラー幼稚園』)」について、「ともかくも大正十九年(管理人注:九年か十年の誤りか)九月から昭和三年ごろまでは続けれはしたものの」諸事情により「解散を余儀なくしたのを、吉田様は大変遺憾」に思い、バチラーの死後、昭和十九年に金策を講じて、昭和二十四年に『バチラー保育園』の開設に尽力したということです。
私は吉田ハナは、北斗と同い年ぐらいなのかなあと、根拠もなく思いこんでいたのですが、どうやらかなり年上のようです。18歳年上のバチラー八重子よりもさらに年上みたいですね。清川翁は、この八重子と吉田花の仲を「この花さんとお八重さんとぐらい仲良しの人って、先ずあるものではありませんよ」といっています。
北斗の吉田宛ハガキなどを見て、ひょっとして、堅物(?)の北斗にもロマンスが? などと想像したのですが、この年齢差ではありえませんね。
なにせ平取キリスト教婦人会長に就任したのが明治三十一年。北斗は生まれていません。
母を早くに亡くした北斗にとっては「平取の母」のような人だったのかもしれません。
※吉田ハナの年齢については、北斗と同世代というような記録もあり、今のところ、はっきりしない。(05/10/16)
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コメント
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吉田花子は多分、僕の曾祖母だと思われますが、生年は明治34年と伝え聞いています。
ひ孫の僕は札幌生まれ札幌育ちですが、僕の母が吉田花子姉曾祖母に生まれた頃から成人まで育てて貰いました。他はだいたい聞いた話と一致しているので間違いないと思います。
投稿: 吉田花子、平村たまこ、の、ひ孫です。 | 2021年10月 2日 (土) 03時02分
コメントありがとうございます。
(ご返信遅くなり申し訳ありません)。
明治34年でしたら、北斗より1歳2歳年上の同年代ですね。
ありがとうございます!
そうなんですね。北斗が吉田花子さんに送った手紙を見ると、なんとなく同年代っぽい感じがしていたんです。
ありがとうございました。 山科清春
投稿: 管理人 | 2021年12月11日 (土) 15時38分