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2004年11月

2004年11月28日 (日)

違星梅太郎

 投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時21分17秒

『河野広道ノート 民族誌編1 イオマンテ・イナウ篇』(北海道企画センター)に、違星家のシロシ(パスイなどに彫る印)についての聞き取りの記録が載っていますのでご覧ください。


それから  投稿者: poronup  投稿日:11月28日(日)08時35分13秒

名取武光の論文のことは知りませんでした。

今度その論文を探してみます。

能登酉雄は両親が東京留学中に生まれた子供ですから、むしろその両親が同窓的な存在だと思います。世代的には北斗のおじさんぐらいの歳なのではないでしょうか。

ちょうど先ほどネットで検索したら次のサイトが引っかかりました。

http://www.city.sapporo.jp/kitaku/rekishi/epi1-35.html

それから東京留学時代の写真が北大のウェブサイトで見れるようになっています。

(いろいろな本に掲載されているのでご覧になったかもしれません。)

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025630000000.html

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B025620000000.html

この中に違星万次郎や能登酉雄の両親が写っている可能性が高いのですが、今のところ誰が誰なのか分からないのです。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日:11月28日(日)11時33分30秒

 なるほど。

 能登酉雄はかなり年上なんですか。北斗の祖父と父の間ぐらいでしょうか。

 (今見たら、「東京留学」の際には、祖父万次郎は30すぎでしょうか。

 けっこういい年です。結婚して、すでに父甚作が生まれて10歳になっているんですね)

 能登酉雄が10代後半から20代ぐらいだとすれば、まさに「おじさん」という年代ですね。

 早速、河野広道の本を探してみます。

 いろいろサイトを教えていただき、ありがとうございます。

 札幌北区のページ、私もじつは、同じ頃だと思うのですが、私も検索で見つけたばかりだったんです。能登さんは茨戸アイヌの生き字引のような人だったのでしょうね。

 

 写真は、この中に万次郎がいると思って見たことがありませんでした。北斗の面影を探そうとしてみたのですが、難しいですね。


アイヌ留学生写真  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)03時56分44秒

このうち、真ん中にいるアットゥシを着た男性が札幌アイヌの琴似又市です。

この写真は、確か皇居で皇太后にアイヌの舞踊を披露した時に帰りに撮った写真だったと思います。

今思い出しましたが、この写真の裏に、誰が誰なのか書いてあるという話をとある方に聞いたような木がします。北大図書館で現物を見れば人物が特定できるかもしれません。


もう一つ参考までに  投稿者: poronup  投稿日:11月29日(月)04時15分7秒

同じ北大に、余市で1917年に撮られたアイヌの集合写真があってウェブでも見られるようになっています。

この中に違星北斗本人もしくは係累の方が写っているかもしれませんが、一人一人があまり大きく写ってないので特定が難しいです。実物を見ればもう少し詳しく分かるかもしれません。

この写真に写っている人々が誰と誰なのか地元の郷土史研究家の方が古老に聞いて確認しているらしいですが詳しいことは分かりません。

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B030040000000.html


つらだましひ  投稿者: 管理人  投稿日:11月29日(月)16時10分28秒

 poronup様。ご教示ありがとうございます。

 なかなか、集合写真では、親しい人でないと、個人の認識は難しいでしょうね。宿題が出来ました。

 写真といえば、違星北斗の肖像は草風館版『コタン』に掲載されている写真のみだと長らく思っていましたが、そういえば『アイヌの歌人』に掲載されている写真は微妙に表情が違います。気のせいかもしれませんが、すこし柔らかい気がします。別の写真なのかもしれません。今手元にありませんが、今度詳しく調べてみようと思います。

  獰猛な 面魂を よそにして/弱い淋しい アイヌの心

 どちらも、険しい顔つきの中にも目の優しさ(と強さ)が印象的な写真です。


余市の写真  投稿者: 管理人  投稿日:11月30日(火)11時23分14秒

 余市の写真は、写っているとしたら、北斗は15歳ですね。

 北斗の同年輩だと思われる中里篤治(凸天)や、その親類と思われる中里徳太郎(余市アイヌ一番の先覚者ということですが、篤治の祖父か叔父のような人でしょうか?)も写っている可能性は高いでしょうね。

 中里徳太郎に関しては、アイヌの紳士録のような書物に載っているのかもしれません。(「北海道史人名字彙」には載っていませんでした)。そういう本を探したことがあるのですが、結局見つからずに今日にいたっています。

 写真の人は和装、アイヌプリ(使い方合ってますか?)、洋装の人がいますが、和人も何人か混じっているようなですね。

 拡大するとだいぶ荒くなりますが、なかなか興味深いです。

 なかなか北海道まではいけませんので、こういう写真が載っている本かなにかがあれば、いいなあと思います。


河野広道ノート  投稿者: 管理人  投稿日:12月23日(木)05時00分1秒

 違星北斗の兄、梅太郎の談話が載っている「河野広道ノート民族誌篇(イオマンテ・イナウ)」入手。

 違星梅太郎氏談(1931.5.24?、余市)として

1)《違星家シロシ、三宅家シロシ》

 

2)《違星家蔵イクパシュイおよびキテのシロシ》

というのがあり、記号が載っています。(記号なので、ここには表示できませんがHTML化の時にちゃんとします)。

この「違星家のシロシ」が「※」の左右の「点」がない形です。

北斗は「エカシシロシ」は「※」だといっていますが、もし違星家のシロシ=エカシ・シロシなら、「※」というのは正確ではないんでしょうね。

 

 ここには能登酉雄の談話も載っています。

2004年11月27日 (土)

こんにちは

 BBSのporonupさんの書き込みより

掲示板の投稿を読んでの感想や気づいたことを書きます。
石田英一郎の本にアイヌの伝説のことが出てくるとは知りませんでした。
こうやって知らないことを教えていただくのはありがたいことです。
水汲みを嫌がった少女(または少年)が罰があたって月に閉じこめられたという伝説は北海道各地に残っていて余市の別の人から聞き取った話が『北海道の文化』という北海道文化協会の機関紙に掲載されたことがあります。
(詳細が必要でしたら言ってください。)

 その「余市アイヌ違星氏」が誰なのかは興味あります。『桃太郎の母』は初版が1956年ですから、その本のための調査はいつ頃行われたか調べる必要がありますね。私は、北斗じゃなくて別の方である可能性が高いような気がします。彼の兄の梅太郎はアイヌ文化についての知識をもっていたそうで河野広道の調査に協力していたので可能性あるのではないでしょうか。
能登酉雄は、両親が東京の増上寺のアイヌ教育所にいた人で、彼も両親が東京にいる時に生まれた人です。

違星北斗の祖父もその学校にいたのでそういうつながりで付き合いがあったのでしょう。

彼についての詳しい聞き取りを高倉新一郎が発表してます。違星北斗についての言及もあったかもしれませんが今手元にないので確認できません。

私も以前から余市に行ってみたいと思っているのですがまだ一度も果たせていません。

私にとっても憧れの地です。

 poronup様、たいへん貴重な情報をありがとうございます。

 能登酉雄氏については、この石田英一郎の「月と不死」(『桃太郎の母』所収)の解説に出てくる記述と、『コタン』所収の西川光次郎宛書簡の二点しか確認していなかったので、大変勉強になりました。祖父万次郎の東京時代の「同窓」なんですね。ありがとうございました。

 石田の「月と不死」の解説をよく読んでみました。要点をまとめてみますと、

(1)ジョン・バチラーの「アイヌとその習俗」には、「月のなかの人」という項があり、そこには水汲みを嫌がった若者が、月に上げられた話。

(2)金田一京助収集の『ユーカラ』の「サンタトリパイナ」にも同様の記述。

(3)名取武光の「月の若水」(『北の会報』第一号、昭和18年1月)に以下のような記述がある。

 まず、日高ペナコリ村のアイヌ山下媼の談(月中童子説話)を引き、その他に二つの同種の伝承(茨戸アイヌの能登酉雄氏の談と石狩アイヌ内浦媼の談)を載せている。

 さらに次に余市の違星氏と、オタスのオロッコ族五郎(山本注:北川五郎氏でしょうか?)氏の同種の説話を載せている。

 つまり、この石田英一郎「月と不死」の能登氏と違星氏の談話というのは、名取武光の「月の若水」(ややこしいですが)からの引用なのです。この、名取武光氏の「月の若水」の載った『北の会報』が、昭和18年発行ですので、「違星氏」の話は、それより前に採集されたものだと思います。

 北斗の没年昭和4年に名取武光が研究を始めていたかどうかは微妙ですね。(名取については調べてみるつもりです)、やはり北斗の兄梅太郎という線が濃厚だと思います。

 あと、梅太郎が、河野広道の調査に協力していたのですか。それに、高倉新一郎にそんな記述があるのですね。河野にしても高倉にしても、真志保の周辺の人として、一応名前は知っているのですが、本格的に調べたことがありませんので、まったく、知識がありません。能登酉雄氏にしても、最近気づいたぐらいです。

 もしかしたら、そのあたりの本を読めば答えが出ることがたくさんあるかもしれませんね。

 もっと勉強したいと思います。  

2004年11月26日 (金)

ラヂオと北斗

昭和3年9月3日の日記

山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。

 これはもしかしたら、北斗のことが、この放送で紹介された、と見るべきなんでしょうか。
 いままで、「もし、そういう日が来たら」という仮定だと思ってたんですが、そういうふうにも読めるんですね。
 語る内容「シシリムカの昔」は、沙流川の昔のことですから、平取にいた北斗であれば、紹介することはできるわけです。

※「山野鴉八」はただしくは「山野鴉人」。昭和3年9月7日に仙台放送局(ラジオ)で午後7時10分より「趣味講座・短歌行脚漫談」が実際に放送されている。北斗が紹介されたかどうかは不明。(05/10/16)

2004年11月24日 (水)

北斗と手紙

現代人である私たちの感覚とはだいぶちがうと思うのですが、それでも北斗はかなり筆まめだったと思います。

 

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2004年11月 1日 (月)

後藤静香「権威」

 後藤静香の思想を調べるためにそのバイブルともいうべき現行の「権威」(善本社から出ているのですね)と、六〇年代に「心の家」(おそらく、解散した希望社の有志が再建した団体だと思います)から出ていた「権威」を購入。

 

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