金田一京助『思い出の人々』
poronupさんに教えていただいた、金田一京助随筆選集を入手。
色々と新発見がありました。以下、金田一京助随筆選集2『思い出の人々』より。
(1)中里徳太郎
「年少のころから、村の老酋長を助けて、その知恵袋とも、懐刀ともなって余市のアイヌ部落をして今日あらしめた有力者であります。
余市のアイヌ部落のために、土地払い下げを願い出たり、余市部落の互助組合を組織したり、そのためには役場へお百度をふんで、町役場ではだめと見切りをつけて、札幌に出て道庁に願い出てみたり、そのためには幾年の努力、身銭をきって奔走し(中略)千辛万苦、ついにみな目的を達して、巨万にのぼる、村の共同財産というものができ、今でも部落の人の仕事をする時に資金の融通ができたり、和人の町屋と軒をならべていて、少しの遜色もないほどに、余市部落の生活を向上させた功労者(後略)」
とあります。
また「中里徳太郎君の先代は、徳蔵といって、これがまた余市のアイヌの傑物」で、アイヌと和人の両方から信望を得ていたのですが、酒の席で寄った和人と喧嘩になり、鳶口を持った数十人によってめったうちにされます。
瀕死の徳蔵は、九つの徳太郎に遺言を残します。
「『(前略)徳太郎、お前、早く大きくなって、父さんのあだを討て! (中略)が、勘違いをしてはいけない。刃物三昧のあだ討ちならたやすいが、父さんのいうあだ討ちはそれじゃないんだぞ。いいか。理不尽に、父ちゃんたちが、こんな目に合わされるのはなあ、父ちゃんたちが読み書きがないところから、無学文盲なところから、ばかにされてこうなんだ。くやしい。お前はなあ、明日からでも、すぐ学校へいって、うんと読み書きを習うんだ。そしてなあ、早く和人並みになって和人を見返してやれ、それが父さんのあだ討ちだぞ、わすれるなよ』」
徳太郎は、役場にしつこく頼み込んで、当時まだ、アイヌの子どもは入れなかった学校に入れてもらい、勉強を始めます。最初は同級生からののしられ、侮辱されたが、そのうちに成績も首席になり、和人からも親しまれ、尊敬されるようになります。
彼は余市の名誉職をつとめるようになり、余市の青年たちの崇拝の的となり、青年団長として青年たちを教え導く存在となります。
※
北斗が「東京アイヌ学会」で語り、伊波普猷に勧めれれて「沖縄教育」に載せたという「アイヌの先覚者中里徳太郎を偲びて」は、おそらくこの金田一の中里徳太郎に関する記述とそう変わらないかもしれません。
(2)違星竹次郎
(西川光次郎の手紙と同様に、これも「滝次郎」ではなく、「竹次郎」になっています。もしかしたら、当時の北斗は「竹次郎」という名前を普通に使っていたのかもしれません。兄の名前が梅太郎ということもあり、もっと調べてみる必要があるのかもしれません)。
北斗の部分は、全文引用します。
「さていま一つの余市の方はというと、中里徳太郎君の息のかゝった余市の青年に違星竹次郎君がありました。中里徳太郎君の感化をうけて、力強くアイヌに目ざめ、勤労のかたわら、みずから雑誌を作って同村内の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語(モットー)として、よき日本人にという題字を掲げてまっすぐに同化の一路を進む方針であったものでした。しかし違星竹次郎青年のそうなるまでには、それはなか/\、たいへんな苦悩を体験した結果でありました。
生まれて八つまで、家庭ではアイヌであることも何も知らずに育ったのだそうです。八つで小学校にあがって、他の子供から「やいアイヌ、アイヌのくせになんだい」といわれて、泣いて家へ帰って、両親へわけをたずねて、はじめて自分たちがそういうものだということを知ったそうです。それまで、何の曇りもなく無邪気に育ったものが、こゝに至って急に穴の中へさかさに突き落とされたよう、「どうしてアイヌなんどに生まれたんだろう」と、魂を削られるように悩みつゞけて成長しました。」
※
この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。
「自分が通るのをみると路傍の子供などまで、「アイヌ、アイヌ」というものですから生意気ざかりの年ごろには、「アイヌがどうした」と立ちもどって、なぐりとばして通ったこともあったそうです。子供が意外な顔をして、打たれてびっくりして泣いた様子が、あとまで目について、打たれたよりも苦痛だったと申します。腹立たしく町を通ると、自分を目送りして「アイヌ、アイヌ」とさゝやいたのが、こっそりさゝやくのも、早鐘のように耳をうち、口をとじていわないものでも、眼がそういって見送ったように思え、行きも、返りも、昨日も、今日も、毎日毎日のことですから目も心も暗くなって、陰鬱な青年になり、ついには病身になり、血をはきなどして、世をのろい人をのろい、手あたり次第に物をたゝき割って暴れ死にたくなったそうです。
村の人の話では、当時の違星青年は、よく尺八を吹いて月夜の浜を行きつ戻りつ、夜もすがらそうしていたこともあり、まっくらな嵐の晩に磯の岩の上にすわって、一晩尺八を吹いていたこともあったそうです。
※
この、尺八のくだりも初めて知りました。
尺八を吹くということは、短歌の中にも出てきていましたが、このようにいろんなところで夜尺八を吹いていたというのは、知りませんでした。まるで苦行のように嵐の磯の岩の上で尺八を吹いている姿は、北斗らしいといえるかもしれませんが、なんとも痛々しくて、つらい話です。
しかるに、竹次郎青年、ある日ふと隣村の青年会へ演説してくれと呼ばれました。病気だからと一度は断ったが、むしゃくしゃ、込みあげている、日ごろの鬱憤を爆発さして、毒づいてやろうと、二度目に承知していったそうです。たま/\村の学校が会場で、教員室に入って控えていると、学校の先生が、「ちょっと君に聞きたいことがある」といって次の室へ呼んでいうのには、
「いつかだれかに一ぺん聞こう/\と思って、つい聞きそぐれていることなんだが、我々は、いうまいと思うけれど、必要以上いわなきゃならないことがあるものだ。もしいわなければならなくっていう時には『アイヌ』といった方が君たちに聞きよいか、『土人』といった方が聞きよいか、君たちに、どっちの方が聞きよいのだろうか」
ということだったそうです。
それを聞いた違星青年は茫然として、はいといったまゝ、しばらく面を伏せて、
「ありがとうございます。さようですか、そういうお心持ちでおっしゃってくださるなら、アイヌでも、土人でも、どちらをおっしゃってくだすっても、少しも痛くはありません、どちらでも結構です」
といってほろりと落涙しました。
こゝです、わずかばかりの心づかいですが、人間一人を救ったやさしい心づかい、この青年がこれをきっかけに心機一転するのです。
やがてベルが鳴って時間になって、演壇に立った違星青年は、
「諸君、我々はまちがっていた、ひがんでおりました。和人の中にもアイヌという一語を口にするのに、このくらい心づかいをしていてくださる方が、少なくともこゝにお一人あったのです。私は今の今まで、こういうことのあるとは思いもよりませんでした。石だから石、木だから木、アイヌだからアイヌというのに、何の不当があろう。一々それを侮辱されるものに思ったのは、我々がアイヌでありながら、アイヌであることを恥じていたからだ。自分の影法師に自分でおびえていたのだ。一人の心は万人の心だ。世間が広いから。我々の経験が狭いから。してみれば、我々の久しい悩みは、我々自身の暗愚なひがみが、これをかもしていたのじゃなかったか! 私はあやまる!」
声涙ならび下り、感動と悔悟に嗚咽して、涙にぬれたこぶしをふるって、たゞ怒号したそうであります。
好感、憤りは物みな焼かずんばやまざらんとした熱血男子、悔悟する時に滂沱として衆目の前に号泣したものだったそうです。」
※
いわゆる北斗の「思想上の一大転機」です。
この一大転機を描いた記録には北斗の「淋しい元気」(新短歌時代)、伊波普猷の「目覚めつつあるアイヌ種族」、それに金田一の「慰めなき悲み」などがあり、この「あいぬの話」も「慰めなき悲み」の内容を詳しくした感じですね。
この北斗・伊波・金田一のバージョンの中で、金田一バージョンにだけあるのが、北斗の演説シーン。思想上の一大転機を迎えた北斗は、観衆に対して演説を打つのですが、これはどうも金田一の中で潤色されたのではないかと思います。
衆目の前でさめざめ泣いたとありますが、北斗および伊波のバージョンでは、家に帰って泣いた、となっており、おそらくはそちらのほうが正しいのでしょう。金田一版はドラマチックに過ぎます。
この青年を囲繞(いにょう)する現実は、昨日も今日も塵一つ増減したものがなかったのですが、しかも、青年の目に、それ以来、世の中が一変したそうです。
その心をいだいて会ってみると、昨日まで無情に見えた和人も、存外柔らかに温かい手ざわりを覚え、我から進んでにっこり握手することができたそうです。
そして驚いたことには、血まで吐いた病気もぐんぐんなおって、大いに村のために茶話会を斡旋して開いたり、茶話会の機関誌を、謄写版でてずから造って若い人々を啓発するに努めたそうです。
たま/\東京に出て来て私などにはじめて会い、アイヌというものは、おそく生まれた弟のようなもので、這い/\していても恥じることがないどころか、人間生活の太古の姿を偲ぶ貴重な生活事実であって、我々が真剣にそれを研究しているのだ。そればかりではない、アイヌはひょっとして白人種かもしれないのだよ。そういうことになったらアメリカで、日本人の人種問題がなくなってしまうではないか、などいうような話を聞かされて、アイヌであることをのろう今までの気持ちからぷっつりと蝉脱して、天真爛漫、だれにも愛されて、愉快な東京生活をつゞけておられたのでした。
※
この、アイヌ白人説は現在では否定されています。ただ、金田一はこのアイヌ白人説を積極的に信じていたわけでもなく、ただ当時、劣っていると見られていたアイヌの人々を力づけるために、こういう説もある、という意味でよく用いていたようですね。
しかるに、まっ正直な違星青年は、東京には私ほどのものは箒で掃くくらい、箕で簸(あお)るくらい、沢山ある。いや沢山ありすぎて、就職難を告げているのに、私なんどが、アイヌのくせに、和人ぶりをして、その席をふさいでいるのは申しわけのないことだ。
私がアイヌでなかったら、だれがこんな高い月給で使ってくださるか。アイヌなものだから、かわいそうにと同情して、何もできもせぬものにこんな高給をくださるのだ。おめ/\頂戴しているのは申しわけのないことだ。それでなくってさえ、アイヌ部落にいるのをきらって、少し目がみえてくると、みんな部落を飛び出して、よその飯を食うので、いよ/\部落はつまらないものだけが残る。アイヌを見に部落に来てくださる人はアイヌといってつまらない人間だと見て帰られるわけだ。祖先に申しわけのないことだ。
これは、帰って同族の世話をもみ、また同族のことを詳しく知って、東京のご好意の先生がたにご探索の労の一助とでもなるべきだ。
そういって北海道に帰ったのでしたが、からだを虐使し、若い時にやったことのある肺結核を再発させ、
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
の詠を残して世を去りました。
※
これで、北斗の項は終わりです。
この「あいぬの話」は、「違星青年」と「慰めなき悲み」をあわせたような内容ですね。
発表年代がいつごろかがわかれば、どちらが先かがわかるのですが。
(3)中里篤治(凸天)
この「あいぬの話」では、中里篤治は「徳治」となっていますね。「篤治」の方が正しいです。
違星滝次郎は「竹次郎」になっているし・・・なにか理由があるのでしょうか。
違星竹次郎君の無二の親友が、中里徳太郎の一子、徳治でした。父の太っ腹だったのに比して、これは、俊敏細緻、よく父の偉業を受け継いでほとんど一人で互助組合のことにあたって、過労のあまり、病に倒れて、惜しいことをしましたが、この人々の涙ぐましい努力のあとは、決してそのまゝにやんでしまいません。子供たちにも利口な子らがありますし、余市だけはアイヌ部落も和人町に伍して遜色なく健全に日本化しております。
金田一をはじめとする、当時の親アイヌ派の文化人のほとんどが、この「日本化」「同化」こそが、アイヌを「滅亡」から救う、唯一の方策だと考えていたようで、アイヌである違星北斗や中里篤治も恩師でアイヌ青年の修養会「茶話笑学会」の顧問でもあった奈良直彌や、奈良を通して、西川光次郎の影響を受けて、「よき日本人に」なるために、という考えをもって活動していたようです。
投稿者: poronup 投稿日:12月 7日(火)22時24分28秒
> この、北斗は8つまで、自分がアイヌであることを知らなかったというのは、初めて聞きました。
このことについてコメントします。
そもそも、我々和人は、自分が日本人であるとか、和人であるとか、生まれた時から意識しているでしょうか。たぶん何かきっかけがないと自分が「日本人」であるとか「和人」であると意識しないはずです。
簡単に言うと「他者」の存在を意識した時に初めて自分の存在を確認するのが普通なのではないでしょうか。
アイヌの個々人も、アイヌも和人も暮らしている環境の中で生まれて育って、最初から自分が「アイヌ」であることを意識しないはずです。他者である和人/シャモと出会い、それとの関わりの中で自分が「アイヌ」であることを意識するはずです。これは様々な人の体験談を聞いたり読んだりしてよく聞く話です。
たとえば親がアイヌで、差別を恐れて親が子供にアイヌであること、アイヌの血を引くことを教えないで子供が育つ場合もありますが、そういうケースとは別の話だと思います。
投稿者: 管理人 投稿日:12月 8日(水)01時31分1秒
>poronup様
そうですね。浅薄な書き込みでした。
私も読み返して違和感を感じました。
北斗は小学校に上がるまでは、余市の祖父や父母の許で、自分がアイヌだとか和人だとかいうことを特別意識することなく育っていた、ということですよね。
もちろん、アイヌ語やアイヌの文化は北斗のまわり、祖父や父母との生活の中にはあったのでしょう。伊波普猷の『目覚めつつあるアイヌ種族』には北斗の言葉として
アイヌ語をあやつるのを恥ぢたので、かんじんな母語を大方忘れて了ひました。
とあります。『熊と熊取の話』には
熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ
とあり、北斗はある程度、アイヌ文化にも囲まれて、それが当たり前だと思って育ったんだと思います。
しかし小学校に上がり「他者」、和人の子供達にさかんに「アイヌ、アイヌといつて非常に侮蔑され、時偶なぐられることなどもありました」(伊波前掲書)と侮蔑されたことによって、初めて自分が世間的に彼ら和人とは「違う」とされているんだ、いうことを意識せざるをえなくなった、ということなんでしょうね。
8つ、ということですが、これは満年齢ではなく数えでしょうから満年齢では7つか6つだと思うのです。このころは物心がついて、自我の萌芽とも関係するのではないかとも思うのですが、どうでしょうか。
(ここで6~7歳と幅をもたせているのは、自分は北斗の誕生日についても1月1日というのは戸籍上の記載で、本当はそれ以前に生まれていた可能性があると私は見ているからです)。
この発言自体は北斗の生の言葉ではなく、金田一随筆の中の言葉であり、先の書き込みの「一大転機」に関する北斗自身や伊波普猷の記述と比べて、金田一の筆になるものが著しく潤色されているのと同様に、金田一によるデフォルメが入っている可能性があります。
だから、北斗が金田一の書いたとおりの発言をしたかどうかも、実際のところわからないですね。(それに関しては、伊波普猷や古田謙二などの描いた北斗像もまたデフォルメされていると考える必要があると思うのですが)。
いずれにせよ、小学校に上がるまで、「8つ」までは家族のもとで、幸せに育ったのだ、という想像はしてもかまわないのではないでしょうか。それは私にとっては救いであり、またそこに北斗の根の真っ直ぐさ、素直さが、そこではぐくまれたものであると思えてならないのです。
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