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2005年1月

2005年1月31日 (月)

布団問題

1月31日(月)07時43分36秒

 いままで疑問だったのですが、「布団の問題」というのがあります。

 湯本喜作『アイヌの歌人』によると、北斗は平取時代、布団がなく、それを送ってもらうために余市に帰った、というような記述があるのです。

 しかし、その帰り知里真志保に幌別で知里真志保に会い、吉田ハナ宛に「一昨日当地(幌別)へ参りました。知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」という葉書を書いた、と湯本さんは言っています。しかし、これは間違いです。この葉書は藤本英夫さんが『知里真志保の生涯』もおっしゃるとおり、2月29日の消印が押されているため、閏年の昭和3年のものであり、このころ、すでに北斗は平取にはいない。

 それでもこんな下世話というか庶民的な話だからこそ、逆に信憑性はあると思っていたんです。そして日記昭和2年8月27日には後藤静香が「蒲団は送る様に話して来たと仰しゃった」というようなものがある。これも大正15年のことならわかる気がします。8月下旬といったら、北海道なら肌寒くなってくる頃のではないですか?

 また、大正15年8月ごろ送られたと思われる西川光次郎への手紙(『自働道話』10月号に掲載)に、「家事上の都合により昨日当地に参りましたついでに少々研究もあります故九月十日まで当地に居ります、それからやはり沙流郡平取村の我が家に帰ります」とあり、この家事上の都合がもしかしたら「布団問題」に関係あるかもしれないですね。 

2005年1月29日 (土)

大発見?  

投稿者: 管理人  投稿日: 1月29日(土)01時51分21秒

 後藤静香遺稿集の年表によれば、後藤静香の東北・北海道巡講は大正15年の8月となっているんですが、これ、北斗の日記では昭和2年です。一年ずれています。

 でも、日付と場所は一致するんです。

 以下、比較です。

(後藤静香年表T15年)・・・・(違星北斗日記S2年)

 8月26日(記述なし)・・・札幌バチラー先生宅にて一泊。後藤先生本日来札

   27日 札幌・・・・・・午後、後藤先生バチラー先生方へ御来宅。金をどうするかと訊かれる。

   28日 小樽・・・・・・雨、時々晴 小樽で後藤先生の御講演を聴く。

   29日 小樽・・・・・・(記述なし)

   30日 夕張・・・・・・(記述なし)

   31日「アイヌ部落」・・午後十一時卅二分上り急行で後藤先生通過になる筈。中里君と啓氏と三人で停車場に行く支度をする。併し先生は居られなかった。

 

 とあり、まったく一致します。

 ということは・・・・どういうことか。

 どちらかが年号を間違えているわけでしょうが、どっちでしょう。

 後藤静香の年表? それもありえるでしょう。しかし、この年表は希望社という組織の記録でもあるので、ある程度信頼性はあると思います。個人の日記である北斗の日記の方が間違っている可能性が、高い。

 もし北斗の方が間違っているのであれば、ものすごいダメージです。

 もう一度、日記の日付の信頼性から考え直さなければならない。

 しかし、私自身この現在の年表にスッキリしないものを感じていたのも事実です。

 どうも、北斗の動きが不自然です。バチラー幼稚園にいた昭和2年の夏の日記が、どうも腑に落ちないというか、他の記録と違和感があるというか。

 もし・・・。

 日記の昭和2年が、実は大正15年の日記だったとしたら? 「コタン」編集の段階で間違ったという可能性は考えられないでしょうか。

 大正15年の8月といえば、まだ東京から戻ってきてさほど時間がたっていません。しかし西川への手紙で、大正7月7日に幌別についたという記述と、日記の始まりが「昭和2年」7月11日であるという記述は妙に胸騒ぎを覚えます。

 そういえば、北斗の筆致が妙に初々しく、感動に満ちている気がする。バチラー八重子の姿に感動し、知里幸恵の家を初めて知った、という。この感激は、どこかで見た気がする。北斗は、帰道後、幌別についてから大正15年7月25日に確かに沙流川の河畔で短歌を詠んでいるんですが、この感激具合が、ちょうどそれっぽい気がします。

 そう考え出すと止まりません。

 もし、日記の昭和二年の夏が、本当は大正15年の夏の日記だったら?

 そしたら、自分の中にあった違和感はすべてクリアになるような気がする。

 たとえば、あの不朽の名文といわれる「アイヌの姿」を書いたのは昭和2年7月2日。同人誌「コタン」の発行は昭和2年8月10日。発行は余市の中里凸天とであり、平取にいて幼稚園の手伝いをしていて出来る仕事ではないでしょう。とても重要な、すごみのある仕事をしている。昭和二年の夏には、すでに北斗の思想は固まっている。各地の同志と連絡を取り合い、活動をしている、と見るべきでしょう。

 やはり、バチラー幼稚園云々は、帰道直後の日記ではないか、という気がします。 

  

 そして、極めつけ。

 違星北斗の日記にはこうあります。

「(昭和二年)七月十一日 日曜日 晴天  平取にて

 曜日計算ソフトで調べてみると、「昭和2年」の7月11日は月曜日、大正15年の7月11日が日曜と出ます。やっぱり、という感じです。

 念のため複数のソフトで調べましたが、同じ結果です。この後の曜日も、大正15年の方に一致します。

 これは・・・もうちょっと検証が必要だとは思うのですが、ひょっとしたらひょっとしますね。

『コタン』所収の「日記」の、昭和2年の日記(の少なくとも一部)は、大正15年の日記である可能性が高い、と言えるんじゃないでしょうか。

  

 この仮定が本当だとしたら、いろんな不自然さが氷解すると思います。

 

 どうでしょうか。

 おそらく間違いないと思います。


というわけで(続き)  投稿者: 管理人  投稿日: 1月29日(土)01時45分12秒

 北斗は大正15年7月7日に北海道に帰り、その後すぐ、11日に平取でバチラー八重子の姿に感動し、そこでバチラー幼稚園と後藤静香のお金の問題に巻き込まれる。秋に余市に一時的に帰るが、その後平取に戻り、大正天皇の崩御を平取で聞く。その後昭和2年3月に兄の子の死とともに余市に帰り、そこからは余市を活動の中心としはじめます。研究、春から病を得ますが、夏には何とか治り、思想が完成して同人誌「コタン」や「アイヌの姿」ができるのが夏。バチラー八重子の影響を受けた短歌が、雑誌に載り始めるのが昭和2年の秋です。そして行商の旅と喀血と闘病。

 帰道後の北斗の動きは、こういう流れでしょう。

 ああ、スッキリした。まったく。

 曜日が違うよって、誰か気づかなかったのでしょうか。

(というか、皆さん、特にporonupさんとか、ご存じだったりして・・・)


日記は  投稿者: 管理人  投稿日: 1月29日(土)02時27分52秒

 さて、『コタン』の昭和2年の日記が、じつは大正15年のものだったと仮定してみると、他の年の日記も気になります。

 曜日を調べて見ると、昭和2年はすべて大正15年の曜日と一致する。昭和3年・4年は正しい。

 ただし、昭和3年4月25日は月曜となっているが水曜が正しい。もしくは25でなくて23日月曜日の間違いかもしれない。

 また、昭和3年8月8日は火曜となっているが、水曜が正しい。もしくは8月7日火曜が正しい。

 いずれにせよ、本来あるはずの昭和2年の日記が欠落していることになります。

 古田謙二が希望社に送った手紙には、遺稿整理の際参照した文書の中に、日記帳数冊と、希望社発行の一年日記「心の日記」の昭和2・3・4年版があるので、どうもこの古田の遺稿整理に問題がありそうです。

 この古田謙二が希望社に送った遺稿とは、古田がボストンバッグに入った北斗の遺稿を原稿用紙に書き写したものであり、遺稿そのものは余市においてあったのでしょう。もしかしたら、違星北斗の遺稿というのは、案外残ってたりするのかもしれませんね。


ただし  投稿者: 管理人  投稿日: 1月29日(土)08時14分16秒

「昭和2年」12月26日(曜日は書いていない)は、昭和2年で正しい気がします。

兄が感冒で寝ている、との記述があるので、北斗は余市にいるということです。

 もし、大正15年なら、前日に12月25日に大正天皇の崩御があったわけですから、大変です。しかし、日記には何も書いてない。

 北斗は山の中の平取コタンで2日遅れの崩御の報を聞いたのです。やはり、この12月26日は昭和2年の年末だとすべきではないでしょうか。

 

 ノートの現物が残っていればなあ、と思います。


というわけで  投稿者: 管理人  投稿日: 1月29日(土)08時32分16秒

年表を変えてみました。


補足です  投稿者: 管理人  投稿日: 1月31日(月)07時58分54秒

  北斗の足取りを追うためには、日記と西川光次郎宛書簡、新短歌時代、小樽新聞の掲載などが役立つのですが、これまで、日記昭和二年の問題があり、「短歌」の制作年代が割り出しづらい状況があったのですが、今回、北斗の動きがシンプルになったので、今後、やりやすくなると思います。

 北斗の思想はまず幌別に腰を下ろし、平取に落ち着いたのでしょう。

 知里幸恵、バチラー八重子、ジョン・バチラーのことは金田一から聞いたでしょうし、ジョン・バチラーのことは、尊敬する希望社の後藤静香からも聞いたでしょう。

(しかし「希望社がバチラー幼稚園の援助をしていた」それがいつからなのか、どういったいきさつなのかはよくわかりません)。

 大正15年夏から昭和2年の春まで北斗は平取にいます。ここでバチラー八重子とともにあり、知里幸恵の理想を実現すべく、思想を育み、活動の準備をしたのだと思います。ここで得た人脈はバチラー伝導団の人脈です。

 八重子、辺泥和郎、そして金成/知里家。あこがれの幸恵の弟、真志保と知己を得るのも自然な流れでしょう。アイヌ人口の多い平取で育った屈託のないアイヌたちや、和人の教師やキリスト教指導者、医師といった人格者の温かい視線たちに囲まれて、次第に思想が固まっていったのでしょう。(しかし、この温かい視線は、のちにコタン巡察での同族から冷たい視線にうってかわり、その落差が北斗を苦しめるのですが)。

 昭和2年の北斗の夏の仕事は、自信に満ちあふれ、北斗は「打って出る」体勢にあったと思います。「アイヌの姿」、同人誌『コタン』。

 大正15年の夏、沙流川の河畔で得たポエジーは、バチラー八重子の影響を受けた短歌として、やがて奔流のように北斗の思想を世の中に示し、後のアイヌの活動に影響をあたえることになります。 

 

 補足ですが、

・後藤静香年表にT15に北海道訪問はありますが、S2年に北海道訪問の記録はありません。

 また、日記昭和2年が大正15年であるなら、 

 ・北斗が働いた「バチラー幼稚園」の設立年ですが、こうして『バチラー八重子の生涯』にあるS2年はありえない。『異境の使徒』の大正11年の方が正しいのでしょう。

2005年1月14日 (金)

「山本先生」

 投稿者: poronup  投稿日: 1月14日(金)17時43分15秒

大辞典に書いてらっしゃる白老の「山本先生」というのは、山本儀三郎のことだと思います。

彼は、白老第二尋常小学校の校長兼教師で白老のアイヌの児童の教育にあたった人物で地元の人に慕われていたそうです。ウタリ協会の元理事長・野村義一さんも教え子の一人で、野村さんの著書『アイヌ民族を生きる』と、最近出た竹内渉編著『野村義一と北海道ウタリ協会』(ともに草風館)などに詳しく出ています。


感謝です。  投稿者: 管理人  投稿日: 1月15日(土)00時43分50秒

 poronup様、いつもいろいろ教えて頂き感謝しております

 

 山本儀三郎先生は学校の先生ですか。

 野村さんの著書は読んだことが無いので、読んでみたいと思います。

 それと、言い忘れていましたが、「ホロベツ」の件、ありがとうございます。

 やはり土地勘がないというのは辛いですね。

 北斗ゆかりの地へ、調査旅行へ行ってみたいのですが・・・現在の私にはなかなかむづかしいです。

2005年1月10日 (月)

今年もよろしくお願いします  

投稿者: poronup  投稿日: 1月10日(月)23時53分50秒

いろいろ深く調べてらっしゃるようで興味深く拝見しています。

今回は一つだけ気づいたことを書きます。

能登酉雄は東京生まれです。ただし1歳か2歳ぐらいで両親とともに北海道に戻ったので

育ったのは石狩なのですが。高倉新一郎の聞き書きをご覧ください。

ちなみに彼が生まれたのが「酉(とり)」の年なのでこの名前になっているそうです。

また父親の和名は能登岩次郎です。

『文献上のエカシとフチ』は大変すばらしい労作ですが、中には不正確なデータも含まれているので、原資料をたぐって事実を再確認する必要があると思います。


さらに  投稿者: poronup  投稿日: 1月11日(火)00時39分0秒

能登酉雄の聞き書きは非常に興味深いのでぜひご覧ください。

非常に記録の少ない石狩川下流地域のアイヌの生活誌についての貴重な記録です。

以下の論文集に収録されています。

『新版 郷土と開拓』(北方歴史文化叢書)

北海道出版企画センター、1980

この本は比較的手に入りやすいです。

なお、同名の論文集が1947年に柏葉書房から出版されてますがこちらにもこの聞き書きが収録されているかどうかは分かりません。

(新版の方はネットの古本屋で調べましたが見つかりませんでした。しかし旧版の方は1000円台であちこちで見つかります。)

また現在刊行中の『高倉新一郎著作集』にも収録されているかもしれませんが、こちらの方も未確認です。


ありがとうございます。  投稿者: 管理人  投稿日: 1月12日(水)19時09分11秒

 poronupさん、ありがとうございます。

 『郷土と開拓』、早速あたってみます。

  

 「文献状のエカシとフチ」、たしかにそのですね。

 この本に限らず、そういう食い違いが、結構ありますね。

 95年版『コタン』もいくつか大きな間違いがあるようですし。

 バチラー幼稚園の開園の年を調べていても、本によって大正13年だったり、昭和2年だったりして、困りました。

 そういうのを、原典をあたって、一つ一つ調べていくのも大切なことなのですね。

 

2005年1月 9日 (日)

吉田ハナ  

1月 9日(日)19時24分28秒

 なぜ、吉田ハナ(はな子)を「少女」だと思っていたかがわかりました。

 藤本英夫「知里真志保の生涯」に、「北斗が平取でしり合った同胞(ウタリ)の少女、吉田ハナさん」という記述があったんです。

 それで吉田ハナを北斗よりも年下だと思ったんですね。

 しかし、吉田ハナは北斗が生まれる前から平取でキリスト教婦人会長を務める、北斗より20歳以上年上のおばさんです。

 

 うーん。

 しかし、「ウタリ之友」に寄稿している「吉田花子」について、『アイヌ民族 近代の記録』の解題で、山田伸一氏は「若い世代のアイヌ女性」と書いてるしなあ。

 (でも、この吉田花子の「信仰を基礎としてウタリの向上を望む」は、読み方によってはすごく婆くさいんだけど・・・)

 もしかして、吉田ハナと花子は別人なのか?

 うーん。

 「子」については、昔は「子」をつけたりつけなかったりするしなあ。

 (金成マツを金成マツ子といったり、知里幸恵は自分のことを知里幸恵子とかいたりしています)。

 関係ないけど、大正時代は「○子」という名前が大流行だったみたいですね。それまで「タケ」とか「マツ」とか「花」と言ってたのをそのまま「子」をつけた形ですよね。

 江戸時代は親しい人には「おタケ」さんとか「おマツ」さんとか、「お花」さんって「お」を付けていたのを付けなくなったのと、名前のお尻に「子」をつけるようになったのは関係ある気がします。根拠はありませんが。

 いずれにせよ、平取で違星北斗とバチラー八重子とともにあった「吉田ハナ」と、その後バチラーの「ウタリグス」に記事を書いた「吉田花子」は、同一人物だと思うのですが。

 ひょっとして、藤本英夫先生や山田伸一先生のいうように、吉田ハナは若い女性であって、吉田ハナは二人いるのでしょうか?

※ 平取教会吉田ハナの成年については、バチラー八重子より年上という記述と、北斗と同世代という2通りの文書があり、現在も調査中です。(05年10月16日追記)

幌別の謎

1月 9日(日)16時26分44秒

 前から気になってたことなんですが、大正15年、北斗は東京から北海道に戻ってくるとき、なぜか生まれ故郷の余市じゃなくて、いの一番に「ホロベツ」に向かってるんです。

七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした。(西川光次郎宛手紙、『自働道話』昭和2年8月号)

 どうしてだろう、と思ったんですが、これはもしかして・・・

 バチラー八重子がいた「幌別教会」に行ったのではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。北斗は東京時代に金田一より聞いて、八重子と文通をしていましたし、幌別といえば知里幸恵の生家もありますし・・・。

 ただ、知里幸恵の生家を初めて見たのが翌2年の7月というのは時間がかかりすぎですね。

 いずれにせよ、幌別にて列車を降りたのであれば、バチラー八重子の教会へは行ったことでしょう。それまで文通のみであった八重子と、大正15年の7月に「オフ」で出会い、そこでいろんなことを話し、また俳句ではなく短歌を作ることをすすめられたのかもしれません。

 あるいは、翌昭和2年オープンする「平取幼稚園」の話がもうすでに決まっていて、なりゆきとして北斗が手伝うことになったのかもしれません。

 

 その二週間後には二風谷にいて、


末世の人間の堕落を憤り人間の国土を見捨てオキクルミ神威は去ってしまった。けれども妹にあたる女神がアイヌの国土を懐ひ泣くと云ふ」神にすてられたアイヌは限りなき悲しみ尽きせぬ悔恨である。今宵この沙流川辺に立って女神の自叙の神曲を想ひクンネチュップ(月)に無量の感慨が涌く。(大正十五年七月二十五日)

オキクルミ。TURESHIトレシマ悲し沙流川の昔をかたれクンネチュップよ

 

 の歌を詠む北斗です。

ちなみにここの「TURESHI」は読まないのが通例です。(後のバージョンでは無くなっています)。

※この「幌別の謎」は、ここで模索が始まったばかりです。のちに「日記」昭和2年問題で進展し、05年夏の旅、幌別の地を訪ねたことでひとまず一段落します。(05年10月16日追記)


投稿者: poronup  投稿日: 1月10日(月)23時57分20秒

違星北斗がなぜ幌別に寄ったか、ですが、当時は当然飛行機などはなく、おそらく汽車で北海道に帰ったはずです。余市に帰るにしても、函館から苫小牧経由で北に向かったはずです。となると幌別は通り道です。

幌別には彼が懇意にしていた人が複数いましたから余市に帰る前に立ち寄ったとしても不思議ではないと私は思いますがいかがでしょうか。

文献上のエカシとフチ

1月 9日(日)07時17分28秒

 『エカシとフチ』別冊『文献上のエカシとフチ』(札幌テレビ放送)によると、

 北斗とともに「アイヌ一貫同志会を結成した吉田菊太郎は明治29(1896)年7月生まれ。昭和40(1965)年1月8日没。

 幕別町白人(ちろっと)の生まれ。

 父は村長の吉田庄吉(イトペウク)、母は吉田マツ(アシマッ)

 同じく「アイヌ一貫同志会」の辺泥和郎(ペテ・ワロウ)は明治39(1906)年12月3日生まれ、昭和57(1982)5月22日没

 バチラー八重子の弟向井山雄は明治23(1890)年5月19日生まれ、昭和36(1961)年2月24日没

 能登酉雄は明治6(1873)年石狩町花畔生まれ。明治38年樺太へ、大正4年帰道、江別、浜益を経て昭和4年茨戸に帰る。祖父能登谷円吉(石狩通詞)、祖母ウナカラ、父イワウクテ、母モン。(高倉新一郎の聞き書きは「北海道社会事業」第37号・別刷「能登酉雄談話聞書」、昭和10年)

2005年1月 8日 (土)

浦川太郎吉について  

1月 8日(土)18時42分47秒

 同人誌『コタン』に「自覚への一路」を寄せた浦川太郎吉について

 「エカシとフチ」(札幌テレビ放送株式会社)に、浦川太郎吉の娘さんである

娘さんである松田ノブ子さんの聞き書きが載っています。以下要約。

 松田ノブ子さんの父、浦川太郎吉は明治27年11月10日生まれ、昭和26年7月24日没。

 若い頃から「ウタリを貧乏の中から引き上げようとして一生懸命で、それぞれの家庭を訪問して歩いていた」という。

 家業は農家だが、夏になれば浜に出て、漁師をしたり昆布をとったり、冬になれば山に狩りに行って鹿や熊をとっていた、という。そんな生活の中で、ウタリのことを忘れず、コタンをまわっていた。

 土人学校時代の親友に浦川清という人がいて、この二人がアイヌの将来について語り合ったら話がつきなかった。この清は昭和の初期に亡くなり、松田ノブ子さんもその葬儀に参加した。

 また、おそらく大正時代、浦川太郎吉は東京に行っているといい、その写真も残っていたが、紛失してしまった。東京のどこか、また何をしに行ったかはわからない。

 そのあたりから付き合いがあったのかは不明だが、違星北斗とは文通していたと聞いている。太郎吉はノブ子さんに「アイヌ、アイヌって馬鹿にするけども、かなり昔から目覚めたアイヌの歌人がいた」「たとえアイヌってさげすまれても、病気で苦しみながらでも一生懸命生きて、アイヌのためにって歌を作っている人」と言って随分ほめていたという。

 浦川太郎吉は、コタンの生活向上に努めて、さまざまな活動をしている。
 谷地の開拓や精米所や授産場の建設、さらにはアイヌ給与地問題にも奔走する。荻伏村の村会議員をつとめた。戦争中には、浦川の家には江賀寅三、向井山雄、小川佐助、知里真志保といったアイヌの指導者たちがかわるがわる家に訪れて、アイヌの将来について語り合っていた。
 動物が好きな、心優しい人であったといい、小学校で弁当を持って来れない子供達のために娘のノブ子さんに毎日牛乳を二升持って行かせたという。
 妻は伝承者として有名な浦川タレさん。

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