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2005年2月

2005年2月26日 (土)

山中峯太郎「民族」と「コタンの娘」

2月26日(土)23時51分11秒

 図書館で山中峯太郎の『民族』を閲覧してきました。

 昭和十五年、「陸軍将校の機関月刊誌『偕行社記事』に連載したものを、本にしたものである。」ということです。

 

 厳密に言えば「ヰボシ」は違星北斗そのものではありません。モデルとなっていることは確かですが、知里真志保のイメージも多分に見られます。

 全体の八割は、シビチャラという娘を主人公に、和人の侵入によってアイヌの生活が破壊され、それに対するアイヌの叛乱と和人による(だまし討ちによる)制圧が描かれます。コシャマインの戦いや、シャクシャインの戦いのイメージを髣髴とさせます。

 後の二割程度が、「ヰボシ」という秀才少年が、東京で学び、アイヌの将来に失望して自殺するという内容です。こちらは違星北斗や知里幸恵・真志保のイメージが投影されていると思います。

 粗筋はだいたい次のようなものです。

 コタンで父とともに自給自足の生活を送っていた美しい娘シビチヤラは、突如現れた和人に稗の畑を奪われます。彼らが暮らしていた大地は「道庁」に取られ、和人のものになり、狩猟を禁じられました。彼女の父親は和人のもとで働く同族のノダラップに唆され、二人はコタンを抜け出して漁場のタキヤという運上屋で働かされることになります。そこで和人に見初められたシビチャラは、和人に家を与えられ、父と住むことを許されます。じょじょに父は和人のような考え方をするようになり、シビチャラは悲しみます。

 土地を得た親子でしたが、税金が払えず、前田という和人がそれを立て替えます。前田は美しいシビチャラを狙っていたのです。同じくノダラップもシビチャラを狙っていました。二人は彼女を巡って争い、前田はノダラップを殺し、シビチャラを連れ去ります。

 シビチャラに想いを寄せていた若きオトナ(首長)シツネクルが、ようやく彼女の家を探し出したとき、そこには瀕死のノダラップしかいませんでした。ノダラップは同族の仇を討ってくれといい、息絶えます。

 折しも弁財船が大量の大釜を運び入れ、それはアイヌを煮殺すためのものだという噂がたちます。シツネクルは各地のオトナを集めて蜂起を呼びかけます。彼らは和人の街に火をつける計画を立てますが、運上屋は和睦を持ちかけ、オトナたちを呼び寄せて酒や御馳走でもてなし、酔いつぶれたところを吊り天上で皆殺しにします。ただ一人、シツネクルは生き残り、復讐を誓いながら、シビチャラをともなって敗走します。

 十五年後、秀才とよばれたアイヌの少年「ヰボシ」は土人学校を抜群の成績で卒業します。その才能を見込んだ校長は上の学校にいかせようとしますが、本人は東京に行くことを望み、校長の知人の書生として上京することになります。

 東京の中学校に主席で入学したヰボシでしたが、日本の歴史を学び、自分ののために生きないというシャモの「奉仕的な素質」にこそ、繁栄の秘密があるという考えに至り、慄然とします。「個我に生きて、全的に奉仕的素質をもたない民族は滅びる」「優者は全体に生きて興隆し、劣者は個我に生きて自滅する」という結論に達し、中学の五年の時に自殺します。

 その知らせを聞いた父のシツネクルも、母のシビチャラも、絶望して命を絶ちます。

 読み終えてまず思ったのは、和人の侵略を執拗に描いた、イビチャラが主人公の部分(仮に第一部とします)と、ヰボシが主人公の部分(仮に第二部とします)が、まったく感じが違うことにめんくらいます。

 第一部はシビチャリの視点で和人の横暴が描かれており、作者の山中峯太郎はアイヌに同情的に思えます。(ただし、滅び行くものと決めつけているところはあります)。

 しかし、「第二部」のヰボシのところは、和人の性質に関する優位性を(優生学的に)説くばかりで、とても読んでいられません。前書きには「吾れら大和民族は、北にアイヌ民族を、西に熊襲民族を、素質の優劣によつて、おのづから征服した。彼らの亡びた素因は、彼れら自身が劣弱性をもつてゐたからである。大和民族が彼等を亡ぼしたのではない」、作品の最後は「彼等を滅ぼした者は、彼等自身である」と締めくくっています。

 昭和15年という時代と、陸軍将校の機関誌に連載という事情もあるのでしょうが、それにしても、「第二部」は残酷にすぎます。

 全体の八割を占める「第一部」において、シネツクルはアイヌのオトナたちを束ねて蜂起を促す、コシャマインやシャクシャインを髣髴とさせる「英雄」として描かれますが、一転して「第二部」では時代にとり残され、秀才の息子ヰボシに望みを託す、卑小な、しょぼくれた父親として描かれ、最後には息子の後追いで自殺してしまうのです。それは「英雄時代」さえも抹殺してしまうのです。

(息子のヰボシとの関係は、金田一京助の『あいぬの話』中里徳太郎と中里徳蔵のエピソードを髣髴とさせます)

 ヰボシは東京で和人には「自分の為に生きない」「奉仕的」という理由を発見し、「個我に生きる」アイヌに未来はない、と結論を下して自殺します。

 これにも、現在の我々からすると、うーん、と首をかしげざるを得ません。和人が「全体に奉仕し、自分の為に生きない」と言われても全然納得できませんし、アイヌが「個我に生きる」から未来はない、というのもどういう根拠で言っているのか、よくわかりません。(それが、山中峯太郎の思想か、それとも読者である陸軍将校へのポーズなのかはわかりませんが)。

 もちろん、この考え方は、違星北斗の思想とは全く違うものです。

 しかし、何の予備知識も持たず読んだら、はあ、そうかと思ってしまうのかもしれません。活字の力、ペンの力、物語の力はこわいものだと思います。

 

 図書館で一読しただけですので、重大な部分を読み落としているかもしれません。

 (目次と前書き、ヰボシの部分のみコピーしてもらいました)。

 山中峯太郎はエリート中のエリート陸軍大学の出身ですが、その後朝日新聞の記者(筆名未成)として、中国に渡り孫文の辛亥革命に参加、革命失敗後は中国人として日本に亡命、山中峯太郎名義で小説を書きました。戦前には『敵中横断三百里』『アジアの曙』『大東の鉄人』他、戦記や海外を舞台にした冒険小説に多くの著作があります。戦後のポプラ社のホームズの翻案等でも有名です。もしかしたら、ヰボシの苦悩に、エリート軍人の道を捨て、新聞記者に転身し、革命に身を投じるた作者自身の心境が重ねられているのかもしれませんが、この『民族』が書かれた昭和十五年当時、どのような思想を持っていたのかはわかりませんので、どうなのかわかりません。もうすこし読み込まないと、と思います。

 あるいは、山中が本当に書きたかったのは「第一部」なのかもしれないという気もします。ヰボシの出てくる「第二部」は軍部に対するポーズなのではないか、だからこの『民族』という作品は、この昭和十五年の出版を最後に、戦後はまったく公開されていないのではないか、などとも思います。

 時代考証的には問題ありではないかと思います。ヰボシの卒業が明治23年ということになっていて、その15年前にシネツクルの蜂起があったとなっていますが、明治7~8年になります。運上屋によるアイヌ大虐殺が、明治時代に行われていることになります。いくらなんでも、という気がするのですが、どうなんでしょうか。

コタンの娘  投稿者: 管理人  投稿日: 2月27日(日)23時54分51秒

 

 山中峯太郎『民族』に描かれている「ヰボシ」について。山中峯太郎研究協会の平山様からご教示いただきました。

 

 峯太郎の「民族」は戦後になって「コタンの娘」と改題、改稿されて出版されているそうで、その内容はかなり違います。

 それについて、ひらやま様は「それぞれの時代の峯太郎の心境を反映しているものとおもわれます」とおっしゃっておられます。

 非常に興味深い論文です。しかし、山中峯太郎について、今の私にはそれを読み解くだけの勉強が足りませんので、のちの勉強とさせていただきたいと思います。

 

 ただ、いただいた資料から、違星北斗について重大な新情報が得られましたので、報告したいと思います。

 『コタンの娘』の前書きに山中峯太郎は次のようなことを書いたということです。孫引きになりますが、引きたいと思います。


 この本は、かうして書いた

『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。

 ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。     山中峯太郎

(『山中峯太郎研究協会報』第十一巻、「山中峯太郎の作品回顧」平山 雄一)

 ここに見える松宮春一郎氏の紹介を書いた名刺を持ってきた「アイヌの秀才青年ヰボシ君」は、ほぼ間違いなく違星北斗です。必然的に大正14年の2月から15年の7月までの間の出来事になります。

 北斗は、山中峯太郎と「かなり親し」くし、アイヌの現状などを語っていた、というのです。

 この情報、すくなくとも私はこれまで聞いたことがありません。自分的には新発見です。

 『民族』に登場する「ヰボシ君」は、今から見れば非常にナンセンスなことを言っているように思えるのですが、しかし・・・東京時代の北斗の発言がヒントになっていると思えば、あながちそうでもない気がする部分もあります。そのころの北斗なら言いそうなこともある気がします。

 東京時代の北斗の思想には、妙に和人に対して遠慮し、思想的にも右傾した部分があります。(著作でいうと「アイヌの一青年から」あたりに顕著です)。親切な和人に囲まれ、逢う人逢う人から「アイヌも『日本人として』お国のために役に立たねばならない」というようなことを吹き込まれていたわけですから、そういう思想に傾いたのも分かる気がします。

 そして、山中峯太郎もそのころに会った人の一人なわけです。

 山中峯太郎は、自らが関わった「革命」について北斗に語ったでしょう。それが北斗の心に刻み込まれたのではないでしょうか。水平社に敬意を抱き、アイヌの地位向上を目指していた北斗も「革命」には興味があったと思われ、そういう人物だからこそ、松宮氏も北斗に紹介したのかもしれません。

 松宮春一郎についてはよく知りませんが、図書館の著書名を見る限りは学者なのだと思います。文中に出てくる『世界聖典全集』の第二集の中には金田一京助の『アイヌ聖典』が入っていますから、そのあたりのルートかもしれません。

 いずれにせよ、これは大辞典や年表にも反映すべき情報であると思います。

 『民族』『コタンの娘』については、まだ荷が重すぎます。今のところ宿題にさせてください。この二作は著作権継続中なので、要約をちかいうちにアップしたいと思います。

2005年2月24日 (木)

入手した資料など  

2月24日(木)23時03分31秒

・柏葉叢書『郷土と開拓』高倉新一郎

 

 能登酉雄の聞き書き。(poronup様、情報ありがとうございます。)

・旭川人権擁護委員連合『コタンの痕跡』

 旧土人保護法に関する論説を集めている。

 410ページに喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」があり、その中に「保護法の成立の感懐を歌う詩」というのがあります。これは、伏根シン子さんが昭和十二年に伊勢神宮に行った際に、参加者から各々聞いて読んだ詩(8編)の中に、余市町違星北斗君の述懐」というものがあります。

 が、これが北斗の述懐をもとにしたものかどうかは非常に疑わしい。昭和四年に死んだ北斗です。これは、兄の梅太郎なのか、それとも間違いなのか。

 この喜多章明という人は和人で、昭和五年設立されたアイヌ協会の会長ですが、読めば読むほど、北斗や真志保なんかの考え方とは違うなあと思います。

 いろいろ書きたいことは出て来ますが、またの機会にしたいと思います。

 同じ本に三好文夫が文あり、これも北斗に軽く触れていますが、ここでは「偉星北斗」になっています。けっこう短歌を引いているので、原典に依っているはずですが、どうしてこういう間違いをしているのでしょうか。

 それとも、「偉星」となっているテキストが存在したのでしょうか。(私は知りませんが)。

 また、山川力の「新しい歴史が開かれる」には北斗と森竹竹市との付き合いの一端が見えます。非常に興味深いので、また後日、報告したいと思います。

  

・荒井源次郎遺稿『アイヌ人物伝』

 

 ものすごい乱丁本でしたが、そのせいか安かったです。下が裁断されてないので、物差しで切りながら読みました。

 自費出版なのでしょうか。ワープロ文字、オフセット製版。

 史料としての精確性を欠くかもしれませんが、いろいろなエカシやフチに関することがらが得られて、自分としてはいい買い物でした。


 書誌に追加する情報(O先生に教えていただいた情報です)。

 ・『国学院大学新聞』1935年5月1日付に「金田一博士とアイヌ歌人」という文章があること。

・山中峯太郎の『民族』という小説は違星北斗を題材にしたもの?

 近くの図書館にあるようなので、調べてみます。

 ネットで得た情報では主人公は「ヰボシ」といい、最後に自殺するそうですが・・・。

2005年2月23日 (水)

ヒロイックな見方

2月23日(水)23時37分0秒

いろんな方に相談に乗って貰いました。

特に大学の先生方や、偶然見つけたサイトから質問したアイヌ研究団体の先生には、いろいろなことを教えていただきました。

 その先生には、違星北斗や知里幸恵、森竹竹市、バチラー八重子あたりは、ヒロイックに取り上げられることが多いが、それがかならずしもアイヌの近現代の実相をとらえるのに有効かどうか、というような意見を聞き、私もそうだなあ、と思いました。

 私もやはり違星北斗をヒロイックにとらえていると思います。すくなくとも憧憬の対象ではあり、違星北斗の生き様が格好いいとおもっています。

 そういう意味では私は学者にはなりえないのだろうなあ、と思います。

 ファンなのか、マニアなのか。

 違星北斗の生きた時代や、彼に関する事実は知りたい。

 しかし、私の「発見」がもし仮に、誰かがすでに発見していたり、すれ違いで他の人に発表されてもさして悔しくもないし、それによって、また北斗研究が進み、いろんな情報が出てくるのであれば、べつにそれでもかまわないような気がします。

 しかし、北斗のことを研究している人と、いろんな議論はしてみたい、という気はしますね。

 北斗研究の嚆矢『アイヌの歌人』の作者、湯本喜作さんとか、いまご健在だったら100歳以上ですが、もしお会いできたとしたら、いろいろ議論してみたいところはいっぱいあります。

 歴史のIFついでに、違星北斗が生きていたら・・・などとも考えます。森竹竹市の


 こんな時「北斗」が生きて居たならと/沁々思ふ――一人夜更けに

 

 の歌ではありませんが。

 やっぱり、私はヒロイックに見てしまいます。研究者には向かないのでしょうね。

2005年2月19日 (土)

佐須良井浪夫とは

2月19日(土)03時40分50秒

 田中英夫先生は『西川光二郎小伝』で、次のようなことを言っておられます。

 『自働道話』同年一二月号所載「アイヌの一女性」は八重子をえがく。「アイヌの中等学校」を建てるために力を尽している八重子を「他のアイヌ先覚者と自任する幾多アイヌ人に見らるゝやうな対和人への僻みがない/貧しきが故に蒙る、侮蔑。/無智なるが故に陥る、罠。/不潔の故に隔らるゝ、垣。/これ等悲しむべき一般的な社会現象を皆悉くアイヌなるが故の受難とのみ感受して、遣る瀬なき悲噴の睨眦を裂く者多きが中に、嬢は常に相当の分別と理解と余裕とをもつてゐる」と見た。

 「筆者亦行旅の身、遺憾にしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」、そう結んだ筆名佐須良井浪夫は、違星その人のように思う。

 と、この書き手「佐須良井浪夫」を北斗だ思うとしています。

 これに対し、95年版『コタン』の解題で山田伸一先生は、「アイヌに対して第三者的で不自然な感があ」り、北斗の作とは認めていません。

 これには、私も同感です。

 この「アイヌの一女性」の全文を読んだわけではありませんが、これは北斗の作ではないと思います。

 その理由として、

(1)山田伸一先生の挙げた理由に加えて、まず文体が北斗のものではない気がします。北斗が八重子を「嬢」と呼んでしまったりはしないと思いますし。

(2)「遺憾にしてにしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」と書いてあるので、この人は昭和2年の秋ごろまでに、バチラー八重子と「親しく」語り合う機会が持てなかった、ということでしょうから、八重子と親しくしていた北斗ではありえないでしょう。

(3)『自働道話』の昭和2年12月号に掲載されているということは、素直に考えれば昭和2年の秋から冬にかけて書かれたものであると思われますが、その年は(新年表では)3月から北斗は余市にいて、夏は研究と同人誌『コタン』の編集、秋は本格的に短歌の投稿をし、新短歌時代の活動にも参加していた頃であり、また行商を始めつつあったころです。当然、もう平取にはいないのです。

 ということで、これも、日記の「昭和2年の謎」が解決してくれます。

 では、この昭和2年に平取を訪ねた「佐須良井浪夫」とは誰なのか。

 私は『自働道話』の発行者「西川光次郎」その人かもしれない、と思っています。

 西川は『自働道話』昭和2年8月号に、「北海道巡講記」を書いています。

 昭和2年の6月13日に函館より余市に入り北斗と再会、14日小樽入り、そのあとは「(後略)」となっていますが、北斗と親しんだ西川ですので、平取入りしたことは充分考えられるのではないでしょうか。

 ただ、6月に訪れ、秋に書いたのは時間があきすぎかもしれません。ちょっと無理があるでしょうか・・・?

※今読むと、この説はあまり信憑性がありませんね。まあ、そういうことを考えたこともある、ということで……(05年10月16日追記)

2005年2月14日 (月)

ウタリグス

2月14日(月)19時49分38秒

 北斗は上京時、ウタリグスを持参している、と大辞典のほうに書いていますが、どうもそれは間違いですね。東京アイヌ学会の時、『茶話誌』とともにテーブルの上に並べられ、伊波普猷がそれを見ています。『茶話誌』は、中里凸天とともに作っていた同人誌『コタン』の前身です。

 上京前からウタリグスを持っているのなら、バチラー八重子のことを当然知っているはずですが、その気配はない。やはりウタリグスは、上京時に金田一に見せられたものではないか、と思います。

 また訂正しておきます。


2月15日(火)17時08分5秒

 北斗が東京アイヌ学会で講演したあと、テーブルの上に『ウタリグス』と『茶話誌』が並べられ、伊波普猷はそのことを『目覚めつつあるアイヌ種族』に書いています。

 大辞典には、この記述から、北斗が上京時にこの二誌を持ってきたかのように書いてありますが、それは茶話誌だけで、ウタリグスは上京後に金田一にはじめて見せられたものであろう、ということです。

 わかりにくくてすみません。

2005年2月 1日 (火)

西川光次郎

2月19日(土)04時36分26秒

西川光次郎は日本共産党の創立メンバー6人の内の一人ですが、何度も投獄された末、北斗が出会ったころには社会主義からは離脱していました。

戸籍では「光次郎」なのですが、好んで「光二郎」とも書いたようです。

読みは「みつじろう」が戸籍上は正しいのですが、「こうじろう」で通していたと娘さんもおっしゃっているそうです。(「西川光二郎小伝」田中英夫)

田中英夫先生は「光二郎」をお使いですが、これまで草風館版『コタン』記載の「光次郎」で通してきましたので、引用以外は光次郎で通したいと思います。

マンロー問題

投稿日: 2月 1日(火)00時30分36秒

 仁多見巌『異境の使徒・英人ジョン・バチラー伝』に、マンローと北斗の関わりについて出てきますが、その情報は今のところ、この本にしかみつからないんです。

 ニール・ゴルドン・マンローといえば、バチラーと並んで、平取に関わりの深い外国人です。バチラーと同じ英国人で、医師。明治24年に来日、人類学研究を行い明治31年に北海道へ訪れ、明治41年に『先史の日本』という考古学の本を出します。マンローはアイヌの習俗に興味を持ち、バチラーを頼って昭和5年の冬に平取に訪れます。

 この時のことを、仁多見巌先生は次のように書いています。

 バチラーは多忙のため、弟子の辺泥五郎伝道師が佐瑠太(現富川)まで出迎え、平取村までは軽便鉄道に乗った。バチラーからマンローが来ることを聞き、ひたすら待っていた青年があった。その名は違星北斗。アイヌの啄木ともいわれた歌人である。しかし、マンローが到着する前年、すれ違いに故郷の余市へ帰ったが、結核を患い二十九歳の若さで死亡した。

 

 とあるのですが、こんな話は他では聞いたことがないのです。

 バチラーとマンローは知己であり、当時は仲が良かったと思われます。(のちに決別し、さらに和解するのですが)。

 違星北斗がバチラーからマンローが来ることを聞いてずっと待っていた、というのは本当なんでしょうか? これはどういう事なんでしょうか?? 年代的にも無理があるし。

 いつ? なんのために? 北斗はマンローと会って、どういう話をするつもりだったのでしょう?まったくわかりません。

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