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2005年2月19日 (土)

佐須良井浪夫とは

2月19日(土)03時40分50秒

 田中英夫先生は『西川光二郎小伝』で、次のようなことを言っておられます。

 『自働道話』同年一二月号所載「アイヌの一女性」は八重子をえがく。「アイヌの中等学校」を建てるために力を尽している八重子を「他のアイヌ先覚者と自任する幾多アイヌ人に見らるゝやうな対和人への僻みがない/貧しきが故に蒙る、侮蔑。/無智なるが故に陥る、罠。/不潔の故に隔らるゝ、垣。/これ等悲しむべき一般的な社会現象を皆悉くアイヌなるが故の受難とのみ感受して、遣る瀬なき悲噴の睨眦を裂く者多きが中に、嬢は常に相当の分別と理解と余裕とをもつてゐる」と見た。

 「筆者亦行旅の身、遺憾にしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」、そう結んだ筆名佐須良井浪夫は、違星その人のように思う。

 と、この書き手「佐須良井浪夫」を北斗だ思うとしています。

 これに対し、95年版『コタン』の解題で山田伸一先生は、「アイヌに対して第三者的で不自然な感があ」り、北斗の作とは認めていません。

 これには、私も同感です。

 この「アイヌの一女性」の全文を読んだわけではありませんが、これは北斗の作ではないと思います。

 その理由として、

(1)山田伸一先生の挙げた理由に加えて、まず文体が北斗のものではない気がします。北斗が八重子を「嬢」と呼んでしまったりはしないと思いますし。

(2)「遺憾にしてにしてその堪能流るゝが如しといふ日英夷語を親しく聞知するの機会を逸した」と書いてあるので、この人は昭和2年の秋ごろまでに、バチラー八重子と「親しく」語り合う機会が持てなかった、ということでしょうから、八重子と親しくしていた北斗ではありえないでしょう。

(3)『自働道話』の昭和2年12月号に掲載されているということは、素直に考えれば昭和2年の秋から冬にかけて書かれたものであると思われますが、その年は(新年表では)3月から北斗は余市にいて、夏は研究と同人誌『コタン』の編集、秋は本格的に短歌の投稿をし、新短歌時代の活動にも参加していた頃であり、また行商を始めつつあったころです。当然、もう平取にはいないのです。

 ということで、これも、日記の「昭和2年の謎」が解決してくれます。

 では、この昭和2年に平取を訪ねた「佐須良井浪夫」とは誰なのか。

 私は『自働道話』の発行者「西川光次郎」その人かもしれない、と思っています。

 西川は『自働道話』昭和2年8月号に、「北海道巡講記」を書いています。

 昭和2年の6月13日に函館より余市に入り北斗と再会、14日小樽入り、そのあとは「(後略)」となっていますが、北斗と親しんだ西川ですので、平取入りしたことは充分考えられるのではないでしょうか。

 ただ、6月に訪れ、秋に書いたのは時間があきすぎかもしれません。ちょっと無理があるでしょうか・・・?

※今読むと、この説はあまり信憑性がありませんね。まあ、そういうことを考えたこともある、ということで……(05年10月16日追記)

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