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2005年3月

2005年3月28日 (月)

東京府市場協会

3月28日(月)00時24分43秒

北斗の東京での身元引受人、高見沢清についての記事を見つけたので、拾っておきます。

昭和3年7月7日讀賣新聞(東京)朝刊(3面)婦人欄

(表題のみ)

日常必需品の買物の仕方 経済的なのは現品むき出しの品

あまり宣伝をするものや 包装の綺麗な品物は高い

東京府市場協会常務理事 高見沢清氏談

 内容は、そのままです。商品の見た目や宣伝に騙されるな、という主婦へのアドバイスです。現代にも通じるかも知れません。

 この中で高見沢は「市場協会が経営する30ヶ所程の公設市場云々」と言っていて、あれ、市場協会って民間じゃなかったっけ、と思ったんです。東京府市場協会は財団法人で、国の役人の天下り先でもあるようなんですが、これってなんていうんでしょうか。3セク?でしょうか。

昭和3年7月21日朝刊3面 婦人欄

(表題のみ)

精力旺盛剤に米糠を召上れ 婦人は特によい

鶏卵などは馬鹿らしい位

東京府市場協会常務理事 高見沢清氏談

これは、思いっきりテレビのような「米糠健康法」のおすすめです。高見沢は自ら米糠健康法を実践し、すこぶる調子がよく、その立場からパン屋に米糠パンまで作らせてしまったとのこと。大新聞なのに鶏卵などは「馬鹿らしい」位とは、えらい書きようですが。 

 いずれも、北斗が北海道に去った(闘病中)の新聞です。東京時代に北斗も米糠を食べさせられたのでしょうか?

2005年3月25日 (金)

北斗のテレビ  

3月25日(金)07時10分46秒

『新日本紀行1北海道』(NHK社会番組部編・新人物往来社昭和48年1月)に北斗についての記事あり。

P96「アイヌの運命を憂う歌人」。内容は沙流川(ここでは沙流谷と表記されています)における北斗の活動の紹介で、新しいところはありません。執筆は後藤和晃とあります。

ただ、この本は、NHKの旅番組「新日本紀行」のスタッフが書いたものだということです。前書きによれば、この番組は昭和38年に始まり、44年頃から「ただ地方の自然、行事、風習、話題を紹介するだけではものたりない……」と「その土地の自然とそこに住む人々のかかわりあいを見つめ、その中に日本人の姿を捉えようとする態度にかわりました。」とのこと。

 掲載されている内容が番組として放送されたものだ、とは書いていないのですが、おそらく「新日本紀行」で放送されたものだと考えてもいいと思います。

 北斗のことが、テレビでも紹介されたのでしょうか。

 

 昭和44年9月22日(月)の毎日新聞(東京版)によると、NHKテレビ19:30[カラー]『新日本紀行』「サラブレッド草原」(北海道・日高)とあり、昭和51年にNHKソフトウェアから『新日本紀行2 サラブレッド高原』というタイトルでビデオも発売されたようですが、今では入手困難で、あまり図書館にもないようです。(そこに北斗のくだりが含まれているか不明ですが、見てみたい)。

2005年3月21日 (月)

大正のヒッピー  

3月21日(月)15時07分13秒

 

 北斗が「大空」を載せた『緑光土』(大正14年)の作者、大空詩人こと、永井叔(よし)について調べています

 自叙伝を入手して、読んでいます。

 永井は松山の医者の息子で松山中学、同志社を出た教養人ですが、天衣無縫というか奔放な人ですね。上官を殴って軍隊を辞め、マンドリンを挽きながら全国を放浪した「吟遊詩人」です。北斗より10ぐらい年上ですね。

 托鉢で旅費と出版費用を稼いでいたそうです。

 大正時代のヒッピー、とでもいうべきでしょうか。50年早かったですね。

 戦前より街頭詩人として有名(というか、名物)な人だったらしいです。中也に影響をあたえ、恋人、長谷川泰子を紹介したのが彼だそうです。

「大空」を崇拝する独自の哲学というか宗教観のようなものを持っていたようで、大空を称える詩を数多く作りました。

 北斗との関わりですが、95年版『コタン』では掲載の経緯が不明となっています。

 しかし、大正14年、永井は東京にいましたから、北斗が街頭でマンドリンを弾く永井に接触したのだと思います。

 「名物」の街頭詩人永井は様々な文化人と交流があったようですが、一部を除いてあまり深い交わりではなかったようですね。

 永井の著作の中では「長谷川泰子」は「清水谷八枝子」となっているのですが、これはどういうことでしょうか。芸名でしょうか。

 長谷川泰子の自伝「ゆきてかへらぬ」も参照してみたいと思っています。

『緑光土』も確認しなければと思い、昨日大阪府立中之島図書館に行ったら、なんだか年度末の休館で閉まっていて、無駄足でした。ショック。


3月27日(日)00時20分43秒

 北斗の「大空」が掲載されている『緑光土』を図書館で見てきました。

 『緑光土』は奥付によれば大正14年8月16日発行。

 表紙には英語で「EVER GREEN ZION」、「OHZORA」、裏表紙にエスペラント?で「TERNE VERDA ZIONO」「Y.NAGAI」「獄中作」「GRANDA CIERO SHA」などといろいろ書いてあります。

 著者 永井叔、印刷人 小林繁次郎(東京市麻布区六本木町廿一番地)、印刷所 小林印刷所(所在地同じ)、発行所 オホゾラ社出版部(所在地同じ)。定価一円八十銭。

 作者の永井叔に似て、変な本です。

 出版資金は街頭でマンドリンやバイオリンを弾きながら、托鉢で稼いだのだということです。

 目次がなく、またページノンブルも最初から最後まで連なっていません。詩編「緑光土」の上編と下編でそれぞれページ数が1から振られています。

 

 『緑光土』はメインが永井叔が獄中(軍隊で上官を殴ったため)で書いた長編詩(叙事詩)ですが、他にも数人の作品(歌・画)が載っています。

 永井の叙事詩のあとに、北斗の「大空」が載っており、その次のページに数人の寄稿者の名前とともに、「緑光土のために作品を御贈り下さつたすべての方方に心から謝意を表します。」というコメントがあります。いずれも永井の大空賛歌に賛同しているような作品ばかりなので(北斗も含め)、賛同者や援助者からも寄稿を募ったのかもしれませんね。

 緑光土とは、永井の思い描く楽土というか仙界というかエリシオンというか・・・キリスト教的というのではなく、ギリシア神話っぽい楽園を描いたものでしょうか。どことなく新興宗教の合成神話のようですが、宮沢賢治的な感じもしないでもないです。95年コタンの解題では山田先生は「何とも形容しがたい永井の『詞曲』」いう表現をされていますが、まあ、そうでもないかとも思います。

2005年3月17日 (木)

北斗のラジオ番組!!  

3月17日(木)02時59分45秒

北海道立図書館に、次のような図書があるようです。

『違星北斗 光りを掲げた人々』

著者名 森本 儀一郎/著  出版地 〔東京〕出版者 〔札幌中央放送局〕

出版年 1955  ページ 34p  大きさ 26cm

一般注記 JOIK放送台本 昭和30年3月6日(日)放送 謄写刷

 こ、これは「ラジオドラマ」ではないでしょうか?

 

 それも、昭和30年3月6日(日)に放送された、ということでしょうか!?

 まさか・・・テレビ? と思ったのですが、JOIK・NHK札幌中央放送局でテレビが始まったのは31年だそうですから、やっぱりラジオでしょうね。29年の「違星北斗の会」の『違星北斗遺稿集』発行を受けてのことでしょうか。

 大変だ! 

 日記にも「ラヂオ」云々がありましたが・・・。まさか北斗のラジオドラマがあったとは・・・!

 聴きたい! 

 そして、この台本を見たい!

 この図書館には『違星北斗遺稿集』もあるし、小樽新聞も北海タイムスも、北海道人も志づくも新短歌時代もあるので、ぜひ近いうちに行きたいと思います。

 GWに長期休暇を取って、ついに北海道へ行こうかと画策中。

 北斗ゆかりの余市を歩きたいのと、この札幌の図書館に2、3日籠もりたいというのがあります。



3月26日(土)20時15分33秒

北斗のラジオ番組について、図書館で新聞のラジオ欄を調べてきました。

毎日新聞(東京版)昭和30年3月6日(日)

NHK第一

9:30

「アイヌの解放を叫んだ『違星北斗』西国成男 他」

とあり、番組紹介記事の中に「ききもの」コーナーとして、次のように紹介されています。

「◇光を掲げた人々『違星北斗』(NHK第1前9・30)アイヌの解放のためにコタン(部落)を巡礼して志を説いた若き歌人違星(いぼし)北斗の生涯をドラマ化。彼は明治三十四年生れ。幼少から和人に軽蔑されて反抗したが、大正十四年金田一京助を頼って上京し、それ以来滅びゆくアイヌの生活と文化の紹介に一生を捧げ昭和四年死亡した。郷里に歌碑建設の計画がある。」

 やはり、ラジオドラマだったんですね。

(朝日新聞(東京版)には、紹介はなく、ただし出演者に「若山弦蔵」の名もあります)。

 これはもう、北海道立図書館に行って台本を読むしかありませんね。

 ラジオといえば、

 日記の昭和3年9月3日に

 

 山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。

とあり、私はこれも北斗が紹介されたのかもしれないと思っていますが、図書館から帰ってから、この昭和3年9月3日のラジオ欄も見てきたらよかったと、激しく後悔してしまいました。


 山野鴉八ではなくて・・・  投稿者:管理人  投稿日: 3月27日(日)23時49分21秒

 北斗が、闘病中の昭和3年9月3日の日記に「山野鴉八氏から葉書が来た。仙台放送局で来る七日午後七時十分からシシリムカの昔を語るさうだ。自分が広く内地に紹介される日が来ても、ラヂオも聴けぬ病人なのは残念。」とある件ですが、図書館で新聞を見てきました。

東京毎日新聞昭和3年9月7日朝刊「ラヂオ欄」

JOHK【仙台】午前一〇、〇〇家庭講座、長沼依山▲午後〇、一〇講談「清水次郎長の内荒神山」神田伯治▲六、〇〇(子供の時間)「公共美談六少年の力」長沼依山▲六、三〇商業講座清水正巳▲七、一〇趣味講座、山野鴉人▲八、〇〇俚謡「水戸名物磯師」外二組水戸市金太ほか▲浪花節「祐天吉松の内孝女の仇討」木村松太郎

とあります。この「七、一〇趣味講座、山野鴉人」が、その番組ですね。

北斗の日記にある「山野鴉八」は「八」ではなくて「人」だということです。

まあ、ささやかな新発見いってもいいでしょうか。

ちなみにこの東京毎日以外も朝日、讀賣を見てきました。讀賣はほとんど同じでしたが朝日は結構略されていました。

あと、忘れてはいけないのは、讀賣には次のような記載がありました。

仙臺HK389.6

 後7、10趣味講座『短歌行脚漫談』山野鴉人

 

 つまり、この山野鴉人さんは短歌関係の人、ということが言えるのではないでしょうか。(検索でも引っかかりませんでしたし、讀賣新聞のCD-ROMなどでも探してみましたがありませんでした。国会図書館にも著作はないようです)。

 ちなみにこの頃の番組は、今のように曜日ごとにバッチリ番組が決まっているわけではないようで、この山野さんも、レギュラーで番組を持っているわけではないようでした。趣味講座という枠の中で喋ったのだと思います。

 この内容というのは今となっては知る術はほとんどないのでしょうけれども、日記にある北斗への葉書の内容によれば、沙流川の昔を語る、ということで、そこで北斗のことを触れた可能性が高い、といえると思います。

 関係ないですが、黎明期のラジオ欄を見てみて、意外だったのは、東京版に全国の放送局(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)の番組表がすべて載っていたということ。これはチューニングを頑張れば他の局も聴けたということなんでしょうか? 現在でも、例えば大阪でも普通に東京のAM放送局も入りますし。ノイズはありますが。

 あと、全国の局は全て違う番組をしている(生放送だから当然でしょうが)ということ、それに現代でもNHKはそうですが、夕方六時に子供の番組をやるということ。これはやはり六時に家に帰らせようという教育的配慮かもしれませんね。

 まったく関係ないですが。

2005年3月13日 (日)

北斗の東京での住所

 3月13日(日)19時18分27秒

 東京時代の北斗が立ち寄ったと思われる場所を挙げてみます。

 自働道話社(西川光次郎) 東京府豊多摩郡杉並町阿佐谷(現:杉並区阿佐ヶ谷)

 希望社(後藤静香)    東京府下西大久保(現:新宿区西大久保)

 金田一京助宅       豊多摩郡杉並町成宗(現:杉並区成田)

 

 高見沢清(東京府市場協会)豊多摩郡淀橋角筈(現:西新宿)

 伊波普猷宅        小石川

 にいはり出版所      牛込区中里町(現:新宿区中里)

 (にひはり句会)     (不明)

 自働道話送別会      四谷(三河屋)

 医文学          本郷区新花町(現:文京区湯島)

 (医文学送別会)     (?)

 北海道人         東京市外満田町

 東京アイヌ学会      永楽町(現:大手町)永楽クラブ

 山中峯太郎宅       北豊島郡中新井村(練馬区豊玉上)

 自働道話社遠足      新宿→高尾山

 知里幸恵の墓参り     雑司ヶ谷霊園(池袋)

 あと、祖父が留学した芝増上寺あたりも行ったかもしれません。

 肝心の北斗の居住地がどこなのか、また下宿か、一人暮らしかも含めてわからないのですが、西川の自働道話社の近く(阿佐ヶ谷)か、市場協会のあったと思われる新宿の近辺だと思います。

 新宿には後藤静香の希望社もありますので、足繁く通ったのもわかります。

 北斗は遠足会の時、北斗は寝坊して(興奮してねむれなかったのかもしれません)新宿駅のホームに駆け込んでいますから、一人暮らしの可能性が高いですね。

 阿佐ヶ谷近辺に住んでいるのであれば、西川らと一緒に来るような気がしますし、やはり新宿近辺なのかもしれない。勤務先の市場協会が新宿であれば、やはりその近くに住みますよね。推測の域を出ませんが、やはり北斗は新宿あたりに住んでいたのでしょう。

 

大正末、阿佐ヶ谷近辺

  3月13日(日)16時26分10秒

 東京に行く用事がありましたので、いろいろ「視察」してまいりました。

 

 大正14年、違星北斗は上京しますが、一番に阿佐ヶ谷の西川光次郎のところへ行きます。

「発行人より」

 △東京府市場協会の高見沢さんから、『真面目な青年がないか』との御相談があり、私は大阪の額田君と、北海道の違星君などをおスゝメしました、幸に採用さるゝことゝなって、額田君は既に上京し、違星君も近日上京することになってをります。

「校正を終へて」

 幸に額田さんと違星さんとが事務を大変に手伝って下さったので助かりました。二人とも本当に感心な青年です、違星さんはアイヌの方ですが、絵も文筆も俳句なども上手な珍らしい人で、北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買ふたきりで弁当は一度も買はずに来たほどの人です。(神保院にて文子。十八日)

(自働道話 大正十四年三月号)

 五年前の或夕、日がとつぷり暮れてから、成宗の田圃をぐる/\めぐつて、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。出て逢ふと、あゝうれしい、やつとわかつた。ではこれで失礼します。

 誰です、と問うたら、余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎といふものですと答へて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶつ通しに成宗を一戸一戸あたつて尋ね廻つて、足が余りよごれて上れない、といふのであつたが、兎に角上つてもらつた。(『違星青年』金田一京助)

 自働道話社があった阿佐ヶ谷は大正14年当時は東京「市外」で、「東京府豊多摩郡杉並町」でした。当時金田一京助が暮らし、北斗も訪ねた「成宗」もおなじく杉並で、ご近所です。

 阿佐ヶ谷駅から成宗まで歩いてみましたが、2、30分ぐらいでしょうか。

 当時、大正11年7月、国鉄中央線の「高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪」の3駅が開設され、震災後東京市中から郊外への人口流出がはじまります。大正13年に「杉並村」から「杉並町」になりました。現代でもそうですが、新宿まで「電車」ですぐに出られるため便利ですが、金田一の記述にもあるように、まだまだ家が少なく、駅をすこし離れると武蔵野の森が拡がるのどかな田園地帯だったようで、家賃も安かったのでしょう。

 ちなみに、阿佐ヶ谷に「文士村」といわれ、井伏鱒二などが多く暮らしはじめるのが昭和2年あたりから。北斗が過ごしたのは大正14年から15年ですから、ニアミスです。ただし、北斗がいた当時、高円寺には中原中也が、女優の長谷川泰子と同棲していて、よく夜中に阿佐ヶ谷駅前の「ぴのちお」(のちに阿佐ヶ谷文士のたまり場になる支那料理店)に食べにいっていたそうです。

 北斗の歌には


 支那蕎麦の立食をした東京の 去年の今頃楽しかったね


 というのがあります。ここでは「立ち食い」になっているので、「ぴのちお」ではないかもしれませんが、この店にも食べに行ったことがあったのかもしれません。

 この長谷川泰子を中也に紹介したのが『青空詩人』永井叔です。永井は北斗が大正13年に書いた詩「大空」を大正14年に『緑光土』に載せたており、北斗とは何らかの交流があったと思います。

 もしかしたら、中也と北斗が……などと空想してみたりもしますが、まあわかりません。中也は大正14年5月に高円寺に泰子とともに同棲しますが、泰子は小林秀雄にとられてしまい、翌年4月には日大予科に入学して中野に移ります。

 

 金田一と北斗が熱烈な会談をした「成宗」は地名表記からは消えてしまっていますが、「成宗公園」「成宗交番」「成宗ビル」などという名残は見られました。

 現在は「成田西」「成田東」という地名になっていますが、これは「成宗」と「田端」を合わせた名前だそうです。(昨今の市町村併合もそうですが、こういう、古い地名をどんどん消していくのはどうかと思います)。

2005年3月 4日 (金)

後藤静香の援助

3月 4日(金)00時41分22秒

 後藤静香がバチラーを援助していた件について、後藤静香の著書の中から、それに関する記述をみつけました。


アイヌ民族の保護

 大正十一年十二月から、この事業に着手いたしました。これはまだ発表したことがありませんから、不思議に思われるかも知れません。

 しかし、これは、国家がなすべき当然の仕事です。これをすておいては、人道の上に立った日本として世界にモノが言えません。国家がなすべくして、未だなし能わざるとき、これに代って国民を代表し、当然の責務を果たすのが、社会教育者の務めでございます。私はこんな見地から、この授業のために四十幾年間没頭していられるバチラー博士を助けています。いまは主として、幼稚園の経営につくしています。

(後藤静香「希望社の事業とその信念」『希望』大正13年1月、『後藤静香選集』第十巻)

 これを見ると、大正13年の執筆ですから、北斗と出会うより前から幼稚園に着手していたわけですね。大正14年に上京した北斗が、後藤に接近したのは、先に「修養」ではなく「アイヌ民族の保護」をしている静香だからこそかもしれません。金田一も後藤がこのような事業をしていたことを知っていたのかもしれません。金田一とバチラーのラインと、バチラーと後藤のラインがあるわけですから、金田一と後藤も面識があってもおかしくはないでしょう。やはり、北斗と金田一とのあの出会いが、多くの新たな出会いを生み、北斗の世界を拡げたのかもしれませんね。

2005年3月 3日 (木)

ポストコロニアリズム

3月 3日(木)13時28分10秒

 電車の中で本橋哲也『ポストコロニアリズム』(新潮新書)を読んでいます。

 ポストコロニアリリズムとは、植民地主義以後、あるいは脱植民地主義と訳すのでしょうか。

 まだ途中なのですが、アルジェリアの革命に身を投じたファノンという運動家の文章が、北斗の思想に共通点があることに驚きました。

 ファノンは1925年生まれ、1960年に死んでいるのですが、同じことを言っている、というところが何箇所もあります。

 また、詳しく調べたいと思います。

2005年3月 1日 (火)

永劫の象

  3月 1日(火)01時11分2秒

 

 ずっと疑問だったのですが、「豊年健治君」が大正15年の夏に寄せ書きした短歌


  永劫の象に於ける生命の/迸り出る時の嬉しさ


  及び、昭和3年に彼の墓前で北斗が詠んだ、

  

  永劫の象に君は帰りしか/アシニを撫でて偲ぶ一昨年


 の「永劫の象」の意味ですが、どういう意味でしょうか? 出典がありそうなのですが。後藤静香? 少なくとも『権威』にはないようだし。『聖書』でもなさそうです。

 とりあえず私には意味不明なんですが、字面的には、プラトンの「永遠のイデア」っていうのを思い浮かべてしまうんですが・・・豊年君は「永遠のイデアの世界」、魂の世界に還ったと。違うでしょうか。

 北斗の返歌の方はそれでいいんですが、豊年君のオリジナルの方が意味がそれでもよくわからない。

 ロダンに「永遠の偶像」って作品がありますが関係なさそうだし?

 象は「象徴」「印象」の「象」、かたちという意味で、「像」と同じような意味でいいと思うのですが・・・まさか「象さん」の象ではないですよね。

 

 「親しい友」豊年健治はどのような人だったのかわかりません。大正15年の夏、寄せ書きをしたというのは、どういう場面だったのか。

 寄せ書きだから、「がんばろう」という会合だったのかもしれません。

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