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2005年3月13日 (日)

大正末、阿佐ヶ谷近辺

  3月13日(日)16時26分10秒

 東京に行く用事がありましたので、いろいろ「視察」してまいりました。

 

 大正14年、違星北斗は上京しますが、一番に阿佐ヶ谷の西川光次郎のところへ行きます。

「発行人より」

 △東京府市場協会の高見沢さんから、『真面目な青年がないか』との御相談があり、私は大阪の額田君と、北海道の違星君などをおスゝメしました、幸に採用さるゝことゝなって、額田君は既に上京し、違星君も近日上京することになってをります。

「校正を終へて」

 幸に額田さんと違星さんとが事務を大変に手伝って下さったので助かりました。二人とも本当に感心な青年です、違星さんはアイヌの方ですが、絵も文筆も俳句なども上手な珍らしい人で、北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買ふたきりで弁当は一度も買はずに来たほどの人です。(神保院にて文子。十八日)

(自働道話 大正十四年三月号)

 五年前の或夕、日がとつぷり暮れてから、成宗の田圃をぐる/\めぐつて、私の門前へたどり著いた未知の青年があつた。出て逢ふと、あゝうれしい、やつとわかつた。ではこれで失礼します。

 誰です、と問うたら、余市町から出て来たアイヌの青年、違星瀧次郎といふものですと答へて、午後三時頃、成宗の停留所へ降りてから、五時間ぶつ通しに成宗を一戸一戸あたつて尋ね廻つて、足が余りよごれて上れない、といふのであつたが、兎に角上つてもらつた。(『違星青年』金田一京助)

 自働道話社があった阿佐ヶ谷は大正14年当時は東京「市外」で、「東京府豊多摩郡杉並町」でした。当時金田一京助が暮らし、北斗も訪ねた「成宗」もおなじく杉並で、ご近所です。

 阿佐ヶ谷駅から成宗まで歩いてみましたが、2、30分ぐらいでしょうか。

 当時、大正11年7月、国鉄中央線の「高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪」の3駅が開設され、震災後東京市中から郊外への人口流出がはじまります。大正13年に「杉並村」から「杉並町」になりました。現代でもそうですが、新宿まで「電車」ですぐに出られるため便利ですが、金田一の記述にもあるように、まだまだ家が少なく、駅をすこし離れると武蔵野の森が拡がるのどかな田園地帯だったようで、家賃も安かったのでしょう。

 ちなみに、阿佐ヶ谷に「文士村」といわれ、井伏鱒二などが多く暮らしはじめるのが昭和2年あたりから。北斗が過ごしたのは大正14年から15年ですから、ニアミスです。ただし、北斗がいた当時、高円寺には中原中也が、女優の長谷川泰子と同棲していて、よく夜中に阿佐ヶ谷駅前の「ぴのちお」(のちに阿佐ヶ谷文士のたまり場になる支那料理店)に食べにいっていたそうです。

 北斗の歌には


 支那蕎麦の立食をした東京の 去年の今頃楽しかったね


 というのがあります。ここでは「立ち食い」になっているので、「ぴのちお」ではないかもしれませんが、この店にも食べに行ったことがあったのかもしれません。

 この長谷川泰子を中也に紹介したのが『青空詩人』永井叔です。永井は北斗が大正13年に書いた詩「大空」を大正14年に『緑光土』に載せたており、北斗とは何らかの交流があったと思います。

 もしかしたら、中也と北斗が……などと空想してみたりもしますが、まあわかりません。中也は大正14年5月に高円寺に泰子とともに同棲しますが、泰子は小林秀雄にとられてしまい、翌年4月には日大予科に入学して中野に移ります。

 

 金田一と北斗が熱烈な会談をした「成宗」は地名表記からは消えてしまっていますが、「成宗公園」「成宗交番」「成宗ビル」などという名残は見られました。

 現在は「成田西」「成田東」という地名になっていますが、これは「成宗」と「田端」を合わせた名前だそうです。(昨今の市町村併合もそうですが、こういう、古い地名をどんどん消していくのはどうかと思います)。

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