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2005年4月28日 (木)

北斗と国柱会

4月28日(木)23時05分16秒

 出発を前に、定例の「違星北斗」検索をしていたら、新しいページがひっかかりました。

 それも、けっこう、サプライズです。

 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」宮沢賢治学会・会報第30号

  http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho30/

 下の方に

「冬季セミナー講演(要旨)宮沢賢治「土神ときつね」と知里幸恵『アイヌ神謡集』

二〇〇四年十二月五日宮沢賢治イーハトーブ館 秋枝美保」

 という記事があり、アイヌと賢司についての研究を発表されていて、そこに北斗の記事があります。

 秋枝美保さん、という人の研究なんですね。


5 、田中智学とアイヌの接点

『天業民報』昭和五年八月五日に、「違星青年を惜む」という記事が掲載されており、アイヌの歌人「違星北斗」追悼(昭和四年没)に寄せて、彼が智学の下を訪れていたことが紹介されている。アイヌの青年たちと仏教との接点が認められ、興味深い。本発表では、賢治の実践活動への結節点にアイヌ文化との接点があったことを示した。


 とあります。

 田中智学という仏教の指導者がいて、その人による「違星青年を惜しむ」という記事があるのですね。

 それにしても宮沢賢治学会とは……そして、田中智学とは!?

 やはり、北斗は「仏教徒」であったがゆえに、キリスト教との距離をおいていたのでしょうか。この「天業民報」も見てみないと。

 田中智学も調べないと。

 また新たな発見があるかもしれない!


4月28日(木)23時11分0秒

思文閣 サイト・美術人名辞典より

田中智学

たなか ちがく


宗教家。東京生。東京江戸川一之江妙覚寺で得度。のち僧籍を返還し、日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱。立正安国会創立。日刊新聞『天業民報』を発行。国柱会本部を建設。昭和14年(1939)歿、79才。


http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_id.php?id=4263


4月28日(木)23時29分4秒

 この国柱会にも、北斗は出入りしていた、ということでしょう。

「違星青年を惜しむ」を読んだら、そのへんはわかるんでしょうね。

 国柱会には宮沢賢治が入会していたんですね。

 はあ、なんだか、中原中也だけじゃなくて、宮沢賢治も、北斗のまわりにちらついてきたような……まあ、共通の知人がいる、と言うレベルなんですけど。

 確か、大正15年に宮沢賢治が上京しているんですけど、

12月、チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エスペラントを学習。29日、帰郷。

引用:http://www.city.hanamaki.iwate.jp/main/kenji/nenpu.html

 惜しい。北斗は大正15年の七月に北海道に帰っているから、数ヶ月の差ですね。

 しかし、北斗が「希望社」と同じようなつきあいを「国柱会」としていたとしたら、賢治と北斗はお互いの文を読んでいたかも知れない。(賢治が幸恵の「神謡集」を読んでいたのでは、というのが、秋枝先生の研究なのだと思いますが……。

 うーん。深い。


4月29日(金)00時15分36秒

 ちょっと引っかかるなあ。

 先の発表の要約なんですけど。その最後に

アイヌの青年たちと仏教との接点が認められ、興味深い。


 って、なんか変じゃないですか?

 だって、北斗が東京にいて、国柱会と接近したのは大正14年や15年ですよ?

 だいぶ前に書きましたけど、北斗は普通に「仏教徒」だった、と思われるわけで、それをアイヌの青年たちと仏教の「接点」だなんて書かれてるけど、なんか違和感だなあ。

 「接点」もなにも、おそらく北斗は祖父の代から普通に、仏教徒だったとおもうんですが……この文脈(元のHP参照)では、いかにも、「神謡集」の世界の住人、宮沢賢治にインスパイアを与えた、ピュアな妖精かなにかの文化の、その担い手であるかのような青年の一団が、はじめて仏教にふれ、それがとっても珍しいことのように読めてしまう。

(私だけでしょうか?)

 そんな……。

 変だなあ。

 

 うーん。

 (これは秋枝先生の講演の内容ではなくて、HP上の表現についての感想なんですが……)


国柱会……うーん。  投稿者: 管理人  投稿日: 4月29日(金)00時58分23秒

 調べれば調べるほど、「国粋主義的」ですねえ。

 日蓮と、国粋主義ですか。

 宮沢賢治と、

 石原完爾ですか。

 東京時代の、北斗の右傾っぷりを示す、一つの極かもしれませんね。

 でも、なんとなく、わかるような気がする。

 北斗の東京での空白の期間の秘密は、このあたりにあるのでしょうか。

 後藤静香の希望社、西川光次郎の自働道話社、田中智学の国柱会。

 金田一京助、博文館の中山太郎、伊波普猷、山中峯太郎、永井叔。

 北斗は、一年半の東京時代を、ただおとなしく労働していただけではないのでしょう。紹介、紹介でつてを辿って、いろんなところに知己を得て、いろんな組織に出入りしていた。

 

 まだまだ、北斗が東京で会い、親しくつきあった「著名人」はいると思われます。

 何か、私に見えていない大きな目的があったのでしょうか?

 何か、隠れているものがあるのでしょうか?

 

 北斗は、一体、東京で何をしようとしていたのか……?


4月29日(金)09時46分8秒

 微妙に関係ないんですが……

 石原完爾が国柱会のメンバーだっただけじゃなく、極真会館の大山倍達総裁もそうだったそうで、なんでも大山総裁に空手の手ほどきをした曹寧柱という人が国柱会だったと。

 違星北斗を調べてたら、それまで私がやってたことと関係あることが、いろいろ出てくるものですね。
 私は「空手バカ一代」を読んで極真空手を始めましたし、大学時代にゼミのY先生の専門が中也と賢治だったりもしまして、なにやら不思議だなあ、と。

 ゼミの3年次の発表では「言霊の虐殺とは何か?」ということで、金田一と知里真志保の確執を調べたんです。その時に参考書類として、北斗の短歌を刷ったんですが、それを見られたY先生は、「かえって現代的で新しいね、特にこの立ち食いソバの短歌なんて」みたいなことをおっしゃられ、それがずっと心にのこってたんだと思います。
 金田一・知里の確執から、違星北斗に興味が移ったのは、それからなんだなあ、などと思っていたりもします。

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