パッション:受難
投稿日: 4月19日(火)00時49分36秒
映画「パッション」を見て、北斗とキリストについていろいろと考えました。
違星北斗の辞世に、
いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
キリストの如安きに居らむ
(どうしたら死を前にして「私は世に勝った」と叫んだキリストのように心安らかにいられるのだろうか、というような意味でしょうか)
とありますが、この「我世に勝てり(私は世に勝った)」というのは「ヨハネの福音書」からで、いわゆる最後の晩餐で弟子達に言った言葉です。「私はもうすぐいなくなるけれども、勇気を持って生きよ、神の国はもうきているのだ」というようなことでしょうか。よくわかりませんが。
この短歌は、北斗のキリスト教への憧れと不信感の微妙なバランスを表しているんだと思います。
バチラー親娘や平取教会の人々、思想上の師である後藤や西川、幼なじみの中里凸天、そして何より同族で「女神」のように憧憬していた知里幸恵といった、多くのキリスト者との直接的間接的な関係があった北斗ですから、キリスト教を信じようとしたこともあったでしょう。短歌に詠み込むぐらいですから、聖書も読み込んでいたのかもしれません。しかし、信じ切れない「何か」があったのだと思います。
それが何なのかを考えるのも、また私のこれからの重要なテーマの一つだとも思っています。
あと……すこし穿った見方かもしれませんが、北斗はある程度、自分の活動とキリストの布教とをを重ねて見ていたのかもしれません。並木凡平が「同族の救世主」とか言ってますが、北斗も全く意識しないことはないのではないでしょうか。石持て追われる……とまではいかないまでも、正しき道を行こうとして同族から冷笑を浴びせかけられたり、いくら言葉を尽くして理想を語っても、全く理解してもらえなかったり、苦難の連続だったと思いますが、そんなとき、キリストの受難を思って勇気づけられたことはあったかもしれません。(「十字架」という「シンボル」を背負ったキリストに対して、違星北斗は「北斗七星」という「シンボル」を背負ってもいるわけで……そういう類似もあるかと)。
しかし、短命なイメージのあるキリストだって33年だか35年だか生きているのですね。違星北斗の27年の生涯の短さを思うと、やりきれないものがあります。志半ば……本当に半ばです。こつこつと種を播き、ようやく芽が出るか出ないかで絶命してしまいました。じょじょに活動に同調する者、興味を示す者出て来て、ネットワークをつくりはじめようかというその時だと思います。
もし北斗がせめて35といわず、30まで生きていたら……その後のアイヌをとりまく状況はまったく違ったものになっていたのかもしれないのに、と思わずにはおれません。
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