昭和3年 白老・幌別
5月22日(日)18時02分49秒
北海道での収穫を整理しています。
そこで、ささやかな発見をいくつか。
(1)『コタン』にも載っているのですが、小樽新聞2月27日に、北斗の短歌が載っています。
白老 違星北斗
夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車
行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも
ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って
金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち
酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく
小樽新聞には、『コタン』ではわからない情報が。
名前の所にある「白老」ですが、これは北斗が2月27日の数日前に白老にいた、ということでしょう。
白老方面での足取りを、まとめてみますと、
昭和3年
2月下旬 白老から『小樽新聞』に短歌を投函。(A')
2月24日ごろ 『自働道話』白老、親しい友が死んでいた(B)
明後日ホロベツ方面へ。(C”)
2月26日? 幌別に。(C’)
2月27日 『小樽新聞』掲載(A)
2月28日夜? 知里真志保と同宿。
吉田はな宛葉書をこの夜書いたなら
「知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」(D)
「明日出発の予定です。」(E)
「一昨日当地(幌別)へ参りました」(C)
2月29日 『吉田はな宛葉書』を投函。
2月29日 『日記』豊年健治君の墓に参る。(B)
2月29日 幌別を出発? 八雲方面へ?(E')
確定している日付は2月29日に吉田はな宛葉書を投函していること(「泊まっています」ということは、前夜までに書いたということでしょう)と、同日、豊年健治君の墓に参っていることです。あとは「一昨日」「明後日」や、郵便を出してから届くまでの日数をもとに、相対に割り出した日付です。だいたいこういう感じだとは思うんですが……。
うーん、おかしい。
これでは白老の豊年健治君の墓は「幌別」にあったことになってしまう。しかし、豊年健治君は「一昨年の夏寄せ書した』ということは、この一昨年とは大正15年のことですから、東京から帰ってきてすぐ「明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした」に一致しますね。
別に豊年君が白老の人でも、ホロベツの人でもかまわない気はします。
この3月は、北斗の足取りは不明です。本当に八雲方面に行ったのでしょうか。
4月には喀血し、闘病生活に入ります。
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