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2005年5月

2005年5月29日 (日)

違星北斗遺稿集

5月29日(日)17時12分28秒

昭和29年に違星北斗の会が発行した「違星北斗遺稿集」の内容を書いておきます。

違星北斗遺稿集昭和29.8.10 印刷

 昭和29.8.15 発行

  発行所

 違星北斗の会

 札幌市北一条西十丁目

 門間清四郎方

北斗を憶う

 彗星の如く現われ

 彗星の如く消え去つた

 違星北斗

 アイヌの石川啄木といわれた

 違星北斗は

 その青春多感の日を

 自己民族の研究と復興のために

 魂も 血も 肉も捧げつくした。

 北斗逝いて二十五年

 その悲しいまでの志は

 永久に地下のものであつて

 よいであろうか。

 彼の中途に於て挫折した志は

 我々今日、日本人の当面する

 民族的課題でもある。

 平等を希い、平和を求むる心

 それは自主と独立よりないことを

 北斗は喝破している。

 北海道の大自然に育まれた

 明治の先覚者内村鑑三も

 我々に自主と独立との

 道を示した。

 平和は何処よりくるか。

 「吾れアイヌ也」と叫んだ

 違星北斗の

 血みどろの生涯は

 我々世代に

 その全身全霊とを以て

 強くよびかける。

 自主と独立とをこそ。

<北斗の肖像写真>

獰猛な

  つら魂を

    よそにして

 弱い

  淋しい

    アイヌの心

      違星北斗

違星北斗年譜

明治三十四年余市に生まる。祖父万次郎はアイヌ最初の留学生として東京芝の増上寺清光院に留学し、後に北海道開拓使の雇員となつた。

 姓の違星は、明治六年祖父に苗字を許され、アイヌにとつて家紋ともいうべきエカシシロシが※であつたので、これをチガイに星「違星」と宛字をしたものという。

 北斗は号で、本名は滝次郎である。一歳。

明治四十一年 尋常小学校に入学。担任の奈良直彌先生に愛せられ、終生その精神的指導と影響を受く。八歳。

大正三年 同上卒業 十四歳。

大正六年 夕張線登川附近に木材人夫として出稼ぎ 十七歳。

大正七年 網走船大誉地に出稼ぎしたが、病を得る。 十八歳。

大正八年 石狩鰊場に漁夫として出稼ぎをしたり、登村に柴刈に働きに出かける。 十九歳。

大正九年 畑を借りて茄子作りする。途中で病気再発。 二十歳。

大正十一年 徴兵検査に甲種合格 二十二歳。

大正十二年 朝里等にて落葉松伐採に従事。病気をする。

  七月 旭川輜重隊に輜重輸卒として入隊

  八月 除隊す。上京を計画するところあつたが、関東震災のため中止。二十三歳。

大正十三年 沿海州に出稼ぎす。二十四歳。

大正十四年 西川光次郎氏及び高見沢氏を頼つて上京。その世話で東京市場協会事務員に就職。

 金田一京助氏、後藤静香氏、松宮春一郎氏等の知遇を受く。 二十五歳。

大正十五年 アイヌとしての自己の地位に深く苦悩し、民族復興の使命を痛感し、十一月飄然として北海道に帰る。 二十六歳。

昭和二年 平取村に英人バチェラー氏の創立せる幼稚園を手伝い乍ら、日傭等の労働によつて生活の資を得、アイヌ研究に従事す。余市の同族青年中里篤治と共にアイヌ青年の修養会たる「茶話笑楽会」を作り、その機関誌として「コタン」創刊号を出す。 二十七歳。

昭和三年 売薬行商に従事。四月発病のため余市の実兄の許に身を寄せ、遂に病床の人となる。郷土研究家である医師山岸礼三氏の好意ある治療を最後まで受ける。

 七月 小樽新聞紙上にて、フゴッペの洞窟中に発見された奇形文字をめぐり、小樽高商教授西田彰三氏とその所見を戦わす。 二十八歳。

昭和四年 一月二十六日永眠。 二十九歳。

昭和五年 五月、余市小学校訓導古田謙二氏により蒐集整理された資料に基づき、希望社より遺稿集「コタン」出版さる。

2~3ページ

<違星青年 金田一京助>

<落葉 古田謙二>

<北斗の歌声 小田邦雄>

4~5ページ

<自撰歌集 北斗帖>

《註 彼の臨終の際、枕頭のボストンバツグの中から出て来た墨書による自撰歌集で、表紙に北斗帖と題されている》

6~7ページ

<コタン吟>

《註 札幌市雫詩社発行の文芸誌「しづく」第三巻第二号(昭和三年四月三日発行となつている)に、違星北斗歌集として掲載されたもの。編集後記には北海道の彗星的歌人として紹介されていることが注目をひく。》

7ページ

<コタン吟補遺>

《註 昭和二年北斗の手になる雑誌「コタン」のコタン吟にあつて「しづく」のコタン吟にもれているものである。》

7~8ページ

<心の日記から>

《註 彼の臨終の際枕頭におかれてあつた昭和二、三、四年にわたる三冊の「心の日記」の中に記されたもの》

8ページ

<俳句 北斗>

<淋しい元気 違星北斗>

8~10ページ

<疑ふべきフゴッペ遺跡(抜粋) 違星北斗>

  読まない文字

  Ekashi shiroshi

  Ekashi shiroshiの系統

  Paroat

 (昭和三年七月小樽新聞に投稿)

10~11ページ

<アイヌの姿 違星北斗>

 

《真の創造的革新は破壊に対する単なる反動から来るものではない―それが現象に現れるや否や、かようなものとして作用するにしても―根源的な体験から来るのである。

 「最も遠いところからのみ革新は来る」―自力を以て疾患に対抗し、或は疾患に転化する、大いなる健康から来るのだ。 ―グンドルフ―》

12ページ

違星北斗歌碑建設趣意書

 違星北斗が逝くなって二十五年になります。ウタリーの最後の光芒のように、彼の短い生の中に鬱勃として湧き上つた感慨と、その悲しいまでの民族の志を口語型のゴツゴツした短歌の中に歌いこめ、歌い上げ、民族の再生と快癒の道をさし示しました。

 彼は英雄でもなければ偉人でもありません。只おのれの生の体験をその内奥からの叫びを真率に歌に託し、歌に支えられて、短い生涯をとぢてしまつた一ウタリーとしての青年であります。

 彼の民俗学的な研究には非常に興味の多い領域を示しているようでありますが、その完成には生活も生命も許しませんでした。もちろん彼の生涯は、ひたすら爆発的な生の燃焼として終始してしまつたのであります。

 今ここに北斗を慕い、北斗を憶う有志の発願によつて、彼の歌碑を、ウタリーの故地日高国平取村二風谷に建設することになりました。どうかこの「遺稿集」を手にせられ、北斗の生涯と志について、いささかでも思知るところある方々のご協力によつて、歌碑建設を実現いたしたく存じますので、よろしくご賛同とご支援をお願いいたす次第でございます。

   昭和二十九年八月十五日

         違星北斗歌碑建設の会

 発起人  石附 忠平   小田 邦雄

      加藤 善徳   鎌塚  扶

      木呂子敏彦   河野 広道

      後藤 静香   更科 源蔵

      田上 義也   古田 謙二

              (五十音順)

   歌碑建設募金計画

1 歌碑設計  田上建築制作事務所 田上 義也

2 工事費予算  七万五千円

3 募  金  一口 二百円 一口以上

4 送金方法

   現金は、札幌市北一西十、門間清四郎方

              違星北斗の会

   振り替えは 北海道僻地教育委員会振替口座小樽四一九〇番宛に願い、通信欄に「北斗歌碑建設基金」と必ず明記して下さい。

<制作者の言葉 田上義也>

<後記 木呂子敏彦> 


6月 1日(水)20時26分10秒

遺稿集フォロー   

 昭和29年に小冊子「違星北斗遺稿集」を発行し、北斗の歌碑建設を計画した「違星北斗の会」の代表、木呂子敏彦先生は、2004年にお亡くなりになられたそうです。合掌。

 この木呂子先生は、帯広市の助役を勤められた人で、北海道賢治の会の代表でもあります。やはり、北斗が好きな人は賢治が好きな人が多いのでしょうか?

(私も好きですが)。

 小冊子「遺稿集」のあとがきによると、木呂子先生もまた、若き日に北斗の作品を読んで感銘を受けたそうで、平取小学校改築の計画に際して、違星北斗のことを思い出し、歌碑による顕彰を思いついたそうです。

たしか違星北斗の日記の中に、二風谷に於て彼の事業計画があり、「平取に浴場一つ欲しいもの金があったら建てたいものを」という歌が、私の追憶の中に切々として湧いてきたのであります。少年の日に北斗の遺稿集を手にし強い感銘を受けた私は、彼の遺志のためにもこの仕事を完成したい。このことから彼の志を顕彰するためにもと、歌碑建設の計画となつた次第です。

 遺稿集の発起人のメンバーもなんだかすごいですね。3つ下の記事にありますが。


 「代表」の「門間清四郎」というのは、実在の人物でしょうか?

 なんだか、検索していると、ドンピシャで「門間清四郎」という地名が宮城県にあるらしくて、それがやたらとひっかかるのですが。

 

 この地名も謎が多そうですが・・・。

 門間清四郎は木呂子先生のペンネームでしょうか? 出身地とか。

 関係ないのかもしれませんが。


 このあたり、木呂子先生の遺稿「鳥の眼みみずの目」を読めば書いてあったりするのかもしれませんが、自費出版本で、入手は困難そうですね。

 北斗がらみの記述があるかもしれませんし、読んでみたい気もします。

2005年5月28日 (土)

中里徳太郎 の父

 5月28日(土)18時58分40秒

 余市アイヌの先覚者であり、北斗も影響を受けた中里徳太郎について。

 先日、余市で「北斗に尺八を教えたのは中里徳太郎の父である」という情報を得たのですが、あれっと思いました。

 金田一京助の「アイヌの話」では、中里徳太郎の父は徳蔵といって、徳蔵は和人のリンチに遇い、虫の息で九つの息子徳太郎に同族の地位向上のためには教育が重要だ、と言い残して死んでいます。

 ということは、北斗とは接点があるはずはない。

 ここで、中里徳太郎の父を系図でたどってみると、徳太郎の父は伯太郎になっています。伯太郎は、中里家出身の父甚作の兄であり、北斗が親しくし、教えをうけるのもわかります。

 

 徳太郎の父は徳蔵か、伯太郎か。

 そのあたりの追究はおいておいて、やはり北斗が尺八の手ほどきを受けたのは伯太郎ではないか、と思いますね。

ノタラップ

 5月28日(土)18時31分16秒

 『北海道の文化』61号(平成2年2月)所収の「ヨイチアイヌの民俗『カムイギリについて』青木延広氏)によると、余市の古老「ノタラップ」は民族の誇りが高く豊富な知識の持ち主で、北斗は、このノタラップより教えを受けた、ということです。

 

 この「ノタラップ」、「ノダラップ」として山中峯太郎の小説『民族』『コタンの娘』に出て来ます。

 峯太郎は、北斗をモデルとした小説を書くため、親しかった北斗の口から出た名前、ノタラップを使ったのでしょうね。

小樽新聞・違星北斗紹介記事

5月28日(土)17時17分34秒

小樽新聞昭和2年12月4日に載っている、並木凡平による違星北斗の紹介記事です。

   ※

歌壇の彗星

今ぞたつ

アイヌの歌人

 滅びゆく同族の救世主

  余市の違星北斗君

  握り飯腰にブラさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声

  暦なくとも鮭くる時を秋としたコタンの昔したはしきかな

  ホロベツの浜のはまなす咲き匂ふエサンの山は遠くかすんで

 北海道色の濃いこの三首の歌が快律と清新な写実亡びゆく同族と虐げられるアイヌの中から男々しくも乗り出した違星北斗君が日本歌壇へ投じた第一矢がこれである

   ◇

 彼はまた叫ぶ、高らかに叫ぶ。シヤモへの挑戦として叫ぶ。

  俺はただアイヌであると自覚して正しき道をふめばよいのだ

  かくさずに「俺はアイヌだ」と叫ぶのも正義の前に立つた喜び

  シヤモといふ優越感でアイヌをば感傷的に歌よむやから

 彼も亦青春の赤き血に燃えたぎる情熱の児であつた、コタンの革命歌人として、今ぞ同族の救世主となつて火と吐く意気は、舌に筆に、われらの前に大きな驚異を与えやうとするまこと真剣なその姿よ!

  ◇

 余市にうまれた彼の家は貧しかつた。尋常六年を卒へると、石狩の漁場などに糧を得る労力をさゝげた、その間石に追はれる迫害に彼の思想の一転機は来た、それは十年程前、某新聞の歌壇に

  いさゝかの酒のことよりアイヌらが喧嘩してあり萩の夜辻に

  わずか得し金もて酒を買つてのむ刹那々々に生きるアイヌら

の歌は遂に彼れを爆発させた、この憤怒は一層反逆思想へ油をかけて燃え上つた、まだ雪深い大正十四年二月、彼は上京して東京府工場協会の事務員に働くことゝなつた、そして絶えず思索方面への錬磨をつゞけ、金田一博士その他の名士の門に出入りした。

 

    ◇

 今日、演壇に起って叫ぶのも、筆をもてば立派な歌を作るのも、シヤモへの報復の一念に、燃え上がる焔の意気に出発してゐる。かくて再びコタンに帰つてから、彼は同族の遺跡をたづねて、アイヌ人の手になる記録を世にのこさうと白老や日高に徒歩の旅をつづけた

  コタンからコタンを廻るも嬉しけれ絵の旅、詩の旅、伝説の旅

  オキクルミ、トレシマ悲し沙流川の昔を語れクンネチュップよ

の歌はこゝに生れた。

    ◇

 高商西田教授のフゴツペの古代文字の学術的研究に対しても、彼はアイヌとしての疑問を抱き、近くその研究を発表するとも聞いた当年二十七歳、彼の未来は恐らく同族の味方として何等かの貢献をさゝげるであらう。

  仕方なくあきらめるといふこゝろ哀れアイヌをなくしたこゝろ

  強いもの!それはアイヌの名であつた昔に恥よ、さめよ同族

 革命歌人違星北斗!われらは暫らく温かいこゝろをもつて、彼の前途に祝福を祈らうではないか(凡)

 ――写真は違星北斗君

    ※

 これは、草風館の『コタン』の付録「くさのかぜ」にも載っていないので、貴重かと思います。

 内容の中で北斗の近況については、金田一の「違星青年」にすこし似ているのですが、よく考えてみると、金田一の「違星青年」は北斗の死後発表されたものであり、この並木凡平の紹介記事の方が当然早いわけですね。

 

 いわば、北斗の事実上のデビュー、といえる記事です。


2005年5月25日 (水)

フゴッペ論争について  

5月25日(水)00時57分42秒

 小樽新聞における違星北斗と西田彰三の「フゴッペ論争」の全てを、テキスト化しようと思います。

 《フゴッペ論争》

 1、 昭和2年11月14日 フゴッペ発見記事

 2、 11月15日~11月20日

    西田彰三「フゴッペの古代文字並にマスクについて」(全6回)

 3、 12月3(?)日~12月7日

    西田彰三「再びフゴッペ 古代文字と石偶について」(全5回)

   (第1回欠、道立図書館のマイクロフィルムにありませんでした)

 4、 12月19日、25日、30日、昭和3年1月5日、1月8日、10日

    違星北斗「疑ふべきフゴッペの遺跡 問題の古代文字 アイヌの土俗的傍証」     (全6回)

    

 5、 7月25~28,31日,8月2、4~7日

    西田彰三「畚部古代文字と砦址並に環状石籬」(全10回)

2005年5月22日 (日)

余市文教発達史

ヌサマカ? マサマカ?  投稿者: 管理人  投稿日: 5月22日(日)20時27分4秒

 「フゴッペ」に出てくる「ヌサマカ翁」ですが、『余市文教発達史』には「マサマカ」とあります。どっちが正しいのでしょう?


万次郎の東京  投稿者:管理人  投稿日: 5月22日(日)20時58分23秒

『余市文教発達史』によると、明治5年5月21日、余市アイヌ(男6人、女2人)が東京へと出発したそうです。当時万次郎は20歳。

 万次郎は「成績優良で、東京出張所に採択され、開拓史の仕事にたずさわった」とあります。

 「役人」であったというのは、本当だったのでしょうね。(それがそのような「役人」であるかは別として)。


余市文教発達史より  投稿者: 管理人  投稿日: 5月22日(日)21時20分49秒

 余市文教発達史によると、北斗の俳句の師である古田謙二(号・冬草)は

 冬草は、学究的、敬虔な基督教徒として信仰厚く「聖書研究」を常に手許から離さなかったことでも、その人柄が偲ばれる。

 (田坂要人『追憶される人々』より)とあります。

 また、北斗に思想的一大転機を与えた登小学校の校長・島田先生のフルネームが島田弥三郎だということもわかります。

 北斗の主治医、山岸礼三についても

 山岸礼三は東京の旧制第一高等学校を卒業し、明治三十四年(1901)に医師免許を取得、日露戦争での軍医としての活躍が認められ、従五位勳三等を受け、大正九年(一九三四)十二月、余市町内大川町で開院した。気さくな人柄で、困っている人には温い手を差しのべ、名医として慕われた。病院内の一室に、山岸コレクションとよばれる土器、石器を収集し、郷土研究への関心を高めた。

 とあります。漢詩などもよくしたようです。

 この山岸医院は北斗の家のすぐそば、徒歩10秒です。

北斗の肖像について  

5月22日(日)19時52分56秒

 

 北斗の肖像はいままで、3点見つかっています。

 (1)小樽新聞、遺稿集、草風館版『コタン』などに載っているもので、一番知られている写真。

 (2)『アイヌの歌人』に掲載されている写真は、白目と黒目がはっきりしていて、黒目がちな北斗の写真とは、雰囲気がちがいます。「(大正15年東京にて撮影)」のキャプションがあります。

 (3)『思い出の人々』に掲載されている、中里篤治と一緒に写っているもの。

 いずれもが同じ服を着ているのですが、これは一体なんだろうと思っていました。

 いろいろ調べたのですが、これ「国民服」(乙式)に酷似していますね。

 ただ、「国民服」が制定されたのが昭和15年ですから、大正時代にこの服が「国民服」と呼ばれていたかどうかはわかりませんが……。

 

 (1)の写真、いろいろなヴァージョンがあり、背景が写っているものと写っていないものがあります。

 一番広い範囲が写っているのがこの「違星北斗遺稿集」(昭和29年)の写真で胸より上が写っています。

Ikousyupics

並木凡平の短歌

5月22日(日)18時14分34秒

昭和3年2月27日の小樽新聞の同じ短歌欄に、並木凡平の次のような短歌があります。

 

 旅に出てアイヌ北斗の歌思ふこゝがコタンかしみ/゛\と見る


 並木凡平が、どれほど北斗に感銘を受けていたかわかりますね。

昭和3年 白老・幌別

5月22日(日)18時02分49秒

北海道での収穫を整理しています。

 そこで、ささやかな発見をいくつか。

 (1)『コタン』にも載っているのですが、小樽新聞2月27日に、北斗の短歌が載っています。

 

              白老 違星北斗

  夕陽がまばゆくそめた石狩の雪の平野をひた走る汽車

  行商がやたらにいやな一ん日よ金のないのが気になってゝも

  ひるめしも食はずに夜の旅もするうれない薬に声を絞って

  金ためたただそれだけの先生を感心してるコタンの人だち

  酔ひどれのアイヌを見れば俺ながら義憤も消えて憎しみのわく

 

 小樽新聞には、『コタン』ではわからない情報が。

 名前の所にある「白老」ですが、これは北斗が2月27日の数日前に白老にいた、ということでしょう。

 白老方面での足取りを、まとめてみますと、

昭和3年

2月下旬     白老から『小樽新聞』に短歌を投函。(A')

2月24日ごろ  『自働道話』白老、親しい友が死んでいた(B)

          明後日ホロベツ方面へ。(C”)

2月26日?   幌別に。(C’)

2月27日    『小樽新聞』掲載(A)

2月28日夜?  知里真志保と同宿。

          吉田はな宛葉書をこの夜書いたなら

          「知里ましほ君と二人で泊まつてゐます」(D)

          「明日出発の予定です。」(E)

          「一昨日当地(幌別)へ参りました」(C)

2月29日     『吉田はな宛葉書』を投函。               

2月29日     『日記』豊年健治君の墓に参る。(B)

2月29日     幌別を出発? 八雲方面へ?(E')

 確定している日付は2月29日に吉田はな宛葉書を投函していること(「泊まっています」ということは、前夜までに書いたということでしょう)と、同日、豊年健治君の墓に参っていることです。あとは「一昨日」「明後日」や、郵便を出してから届くまでの日数をもとに、相対に割り出した日付です。だいたいこういう感じだとは思うんですが……。

 うーん、おかしい。 

 これでは白老の豊年健治君の墓は「幌別」にあったことになってしまう。しかし、豊年健治君は「一昨年の夏寄せ書した』ということは、この一昨年とは大正15年のことですから、東京から帰ってきてすぐ「明日七月の七日が北海道のホロベツに、東京から持って来た思想の腰をおろしたもんでした」に一致しますね。

 別に豊年君が白老の人でも、ホロベツの人でもかまわない気はします。

 この3月は、北斗の足取りは不明です。本当に八雲方面に行ったのでしょうか。

 4月には喀血し、闘病生活に入ります。

2005年5月21日 (土)

チガイボシ

5月21日(土)04時06分4秒

 違星家のエカシシロシが「※」ではない、と先に書きました。

 これは非常に重要なことです。

 『我が家名』

 違星家の家名「違星」は「違い星」から来ているとあります。

 では、何が「違う」のか。

 何と「違う」のか。

 「※」ならば単に「星」です。

 ワープロで「ほし」と打てば「※」が出ます。

 「※」では、「星」と「違わない」のです。

 つまり、「チガイボシ」は「※」ではない、ということです。

 違星家のエカシシロシ「チガイボシ」は「※」ではないけれど「※」に似た記号

(下図)なのです。これこそが「違い星」なのですね。

 小樽新聞にはちゃんと掲載されていたのです。

 そして、古田謙二は遺稿整理の際、希望社に小樽新聞の切り抜きをそのまま送っています。

 間違えたのは希望社の編集者なのです。

 わざわざ星と違う、「※」じゃないと言っているのにもかかわらず、希望社の『コタン』編集者は、わざわざ「※」の活字を使ったのです。

 

 これは、文意を無視しており、北斗が「我が家名」に込めた本来の意味を失わせてしまっています。

 本当に、惜しいことです。

  

 『コタン』編集者として名前があるのは岩崎吉勝か宗近真澄ですが、岩崎は管理者のようで、実務を担当したのは宗近かその部下でしょう。岩崎は完成したものを見て、脳天気な短歌を何首が残しています。

シヤモ達の米屋の符号それと同じ/シロシより出でしイボシ家の君 (『跋』)


 岩崎はやはり「※」だと思っていたようです。

 奇妙なのは、希望社『コタン』には、ちゃんと違星家のエカシシロシが登場しています。『疑ふべきフゴツペの遺跡』の中に、余市のエカシシロシの一つとして出て来ていて、活字がないので、たぶん凸版で作ったのでしょう。それなのに、『我が家名』ではそれを使わず活字の「※」を使った。

 我が家名は、至るところで引用されていますが、この点を指摘している人は残念ながらいません。

 『コタン』発売後、80年の時を経た現在も「チガイボシ」は間違えられ続けているわけです。


※このエカシシロシの由来については、正しくありません。この後の7月3日の書き込みでさらに考察しています。(05年10月16Ekashishiroshia_3日追記)

5月22日(日)20時46分33秒

『フゴッペ』の謎 

 小樽新聞の初出の方の「フゴッペ」と、希望社版の「フゴッペ」には、違いがあります。

 小樽新聞での「違星家のエカシシロシ(※の左右の・がない)」が『コタン』では「※」になってしまっている、というのは先にも書きましたが、さらに精読してみると、あることに気づきました。

 小樽新聞がわざわざ造字した「違星家のエカシシロシ」を、希望社の編集部が「※」にしただけだったら、まだわかります。
 違うんです。希望社版の中でも、ちゃんと「違星家のエカシシロシ」を使っています。ただ、おかしなところで使っているんです。小樽新聞版で「※」の記号になっているところを、わざわざ希望社版『コタン』では「違星家のエカシシロシ」の記号に入れ替えているのです。つまり、入れ替わっているのです。

 全く、わけがわかりません。

 また、小樽新聞版では「イカシシロシ」「Ikashi-shiroshi」となっているのに、コタン版では「エカシシロシ」「Ekashi-shiroshi」となっています。

2005年5月14日 (土)

東京調査

  5月14日(土)15時02分12秒

 東京出張に来たついでに、新宿区中央図書館へいってきましたが、あまりめぼしい成果はありませんでした。

 新宿の後藤静香の希望社のことと、東京府市場協会について、なにかあればと思ったのですが。

 司書の方が、平林たい子氏の「希望社の真の希望は何であったか?」という文章を見つけてくださったのですが、これは後藤静香の教育の名目で学生を労働に使用する、希望社運営の欺瞞を告発したものです。

 あとは、大宅文庫目録で、希望社に関するいくつかの記事の存在を得たぐらいです。

「希望社に欺されるな!」(山本美智子)女人藝術1930.10 P.20

「希望社の没落、その他」(加藤武雄)婦人サロン1931.11 P.40

「希望社の正体」(林熊王)犯罪公論1931.12 P.171

「其後の後藤静香」 話1934.9 P.112

 これらは、北斗の死後、後藤静香のスキャンダルが発覚するかしないかといったころの記事だと思います。

 

 大正14,5年の新宿の地図に、「希望館」「勤労女学校」の文字をみつけました。また角筈に「青物市場」とあるのですが、これが市場協会でしょうか。

 それにしても市場協会や希望社に関するものは、いったいどこにあるんでしょうか。

 国会図書館にならあるのでしょうか。

5月15日(日)19時06分5秒

 今朝は北斗の祖父万次郎が留学した「芝増上寺」にいってまいりました。清光院を見るためです。

 増上寺の寺務所で「清光院はどこですか」と聞くと、若い作務衣を着た丸坊主の人が、「ありません」というので閉口しました。ちゃんとテキストを見せて字を確認してもらったのですが、ありませんの一点張り。

 そんなわけないので、もっと年長の人に聞いたりしてほしかったのですが……。

 むこうが自信満々なので、そのまま引き下がってきました。

 その後、ネットカフェで調べてみました。やっぱり、ある。

 http://www.shiba.gr.jp/seikoji/

 確かに「清光院」じゃなくて「清光寺」だけど、もともと清光院だったわけで、それを知らないのかもしれませんが……。

 今日はその芝増上寺のあと、電車を乗り継ぎ、徒歩で麻布の都立中央図書館にわっせわっせといってきたのですが(東京府市場協会の服務規程なる書物があるそうです)、間の悪いことに「休み」。えーって感じです。

 今回の東京はあまり成果なし。残念。

※poronupさんより、この清光「寺」は「清光院」とは違うという指摘を頂きました。

2005年5月13日 (金)

エカシシロシ

  5月13日(金)07時54分30秒

 違星家のエカシシロシは書物では「※」だとされていますが、実際は「※」の左右の点がありません。(下図)

 実際、Ekashishiroshia_2「小樽新聞」に掲載された時点ではちゃんと正しい記号になっているのです。

 しかし、希望社の『コタン』がそれを「※」で表したため、以後全ての文書で「※」になってしまったようです。

 (このエカシシロシ、違星家の墓石にも「家紋」として刻まれています)。

 ちなみに「我が家名」は「フゴッペ」掲載時に「閑話休題」として掲載されています。これも『コタン』掲載時に「我が家名」とタイトルをつけられたのでしょう。

2005年5月 8日 (日)

入手した新資料・新事実など  

5月 8日(日)23時24分40秒

 とりあえず、入手した資料、事実などを。

・違星北斗の詳細な家系図(これまで知られていなかった情報や、驚きの事実が多々出て来ました)。

・大正15年当時の余市大川町の地図(北斗の生家や、周囲の状況がわかりました)

・大正3年、余市アイヌの集合写真(北斗は写っていませんが、兄の梅太郎や中里徳太郎等が写っています)。

・これまで未発見の北斗の「色紙」の写真(書と絵)

・北斗と森竹竹市との書簡が白老の「森竹竹市研究会」にあるらしいこと。

・父甚作の樺太での狩猟と、5月のレプンカムイ祭りについて、その他。

・小樽新聞フゴッペ論争ほぼ全文(西田その1、西田その2、北斗、西田反論)

・その他

 とりあえず書いておきます。詳細は徐々に。

「違星青年を惜む」

5月 8日(日)02時15分34秒

 戻って参りました。

 海が荒れて船がかなり揺れましたので、いまも船上にいるようにゆらゆらしております。

 帰りますと、ポストに「国柱会」から御手紙が。

 北斗について書かれた「違星青年を惜む」についてメールで質問したのですが、封書でお返事いただいたのでした。

 本当に感謝。ありがたいです。

 今回の北海道行は本当に成果がありました。

 ありすぎてどこから手をつけていいものか。

 じょじょに発表していきたいと思います。


「違星青年を惜む」(1)  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)11時27分41秒

 国柱会の方から送って頂いた「違星青年を惜む」です。

 昭和五年八月五日および六日に掲載されたもので、著者は田中智学先生ではなく、その一番下の娘さんの田中(のちに結婚されて岩永)蓮代さんという方だそうです。

     ※

 違星青年を惜む(一) 田中蓮代


 違星青年を惜む――と申しましても、私には一面識もなく、昭和四年一月二十六日に二十九歳を一期として永眠されたアイヌ青年でした。

 最近の或日、且て私が言語学を教へて頂いた金田一先生を阿佐ヶ谷にお訪ねしました。学界の権威殊にアイヌの研究に於ては第一人者であられる文学博士金田一京助先生――学者的真摯と細やかな人情とを兼ね備へられた先生に適はしいお書斎で、思ひがけなくも違星青年のことを伺つたのでした。

「此の青年は貴女のお父様を崇拝してゐまして、三保の講習会へも伺はせて頂いたとか、色々の感銘をよく語つてゐました。お父様はきつと斯ういふアイヌ青年のゐた事を御存知かもしれませんから此の遺作集をお目にかけて頂けましたら、亡き違星君も満足する事で御座いませう」

 かう云つて先生がお出しになつた一冊の本は「コタン」と名づけられた、アイヌ青年違星北斗(号北斗)氏の遺作集でした。

 此の遺作集を読んで、私は生ける違星氏に接する感を得たのでした。アイヌである事をかくしてシヤモ(和人)に化けてゐる同族のある事を、彼は身を斬られるやうな思で歎じてゐます。

 吾人は自覚して同化する事が理想であつて模倣する事が目的でない、況やニセモノに於てをやである」

 アイヌでありたくない――といふのではない――シヤモになりたい――と云ふのでもない。然らば何か。平和を願ふ心だ。適切に云ふならば日本臣民として生きたい願望である」

かうした言々句々の鋭さ。彼はまさにアイヌ民族の彗星です。

 アイヌには乃木将軍もゐなかつた、大西郷もゐなかつた、一人の偉人をも出してゐない事は限りなく残念である、されど吾人は失望しない。せめてもの誇は不逞アイヌの一人も出なかつた事だ。今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時機をほゝゑんで待つものである、水の貴きは水なるが為であり、火の貴きは火なるが為である」

かう云つて彼は朴烈や大助がアイヌから出なかつたことに胸をなでおろして、アイヌの前途にせめてもの光明を見出さうとしたのでしたが、それが極めて覚束ないと考へる時のさびしさは、如何に堪へ難いものでしたらう。

 公明偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「われアイヌ也」と絶叫するのだ。(中略)アイヌは亡びてなるものか。違星北斗はアイヌだ今こそ明く斯く云ひ得るが……反省し、瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視(みるめる)のである」

最後の一句の寂しさ。

     ※

 ここまでが八月五日の文です。(続く)


「違星青年を惜む」(2)  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)14時29分55秒

 続いて、八月六日の分です。

     ※

 彼はまた短歌に於て自分の心持を適切に表現してゐます。彼は、自分の歌はゴツ/\してゐるが虚偽でないものを歌ふ、と自ら云つて居ります。

 はしたないアイヌだけれど日の本に生れ会せてた幸福を知る

 滅びゆくアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く

 我はたゞアイヌであると自覚して正しき道をふめばよいのだ

 アイヌとして生きて死にたい心もてアイヌ絵を描く淋しい心

 ネクタイを結ぶと覗くその顔を鏡はやはりアイヌと云へり

 ガツチヤキの薬を売つたその金で十一州を視察する俺

 昼飯も食はずに夜もなほ歩く売れない薬で旅する辛さ

 ガツチヤキの薬如何と人の居ない峠で大きな声出してみる

 アイヌ研究したら金になるかときく人に金になるよとよく云つてやつた

 葉書さへ買ふ金なくて本意ならず御無沙汰をする俺の淋しさ

 佐藤湯を呑んでふと思ふ東京の美好野のあの汁粉と粟餅

 同胞(ウタリー)は何故滅びゆく空想の夢よりさめて泣いた一宵

 悪辣で栄えるよりは正直で亡びるアイヌ勝利者なるか

 崩御の報二日もたつてやつときく此の山中のコタンの驚き

 病よし悲しみ苦しみそれもよしいつそしんだがよしとも思ふ

これらは二百首近い歌の中からほんの僅かをあげたに過ぎませんが実にその意気と念願と、そして繊細な人生観照とが漲つてゐます。

 多感なる違星青年は遂に和人(シャモ)になりすましてゐる事に堪へ切れず飄然と、眠れる北海の部落へ帰つて同族を覚醒せしめようとしたのでしたが、そこには無理解な嘲笑がある許りで、彼の掴み得たものは貧困と云ふ事実だけでした。身体を虐使した彼は遂に傷ましき病床に横たはつて、無量の感慨に悶えるのでした。

 血を吐いた後の眩暈に今度こそ死ぬぢやないかと胸の轟き

 頑健な体体でなくば願望も只水泡だ病床に泣く

 アイヌとして使命のまゝに起つ事を胸に描いて病気忘れる

 東京を退いたのは何の為薬のみつゝ理想をみかへる

宿望――彼は病床にあせりましたが時にはまた

 何をそのくよ/\するなそれよりか心静かに全快をまて

と歌って自ら気をとりなほしてもみましたが、遂に死は迫りました

 世の中は何が何やらしらねども死ぬ事だけはたしかなりけり

かうした予感をとゞめて幾ばくもなく、次第に違星青年の身体は冷えて二十九才の春に先だつて燃ゆる希望を抱いたまゝ名残をしくも短き此の世の春を終つたのでした。

 遺稿集をよみ終へた時、此の多望なるアイヌ青年を追惜するのは念は誠にやみ難いものでした。

 亡びゆくアイヌ――それを傍観してゐてよいものか、又はその中から何ものかを見出すべく研究しなければならないものか、そしてその研究がどれ程の価値を有するか、等々の問題は、衰滅近きアイヌの上になげられた一大問題であると思ひます。

 日本の先住民族であつたらしいアイヌの文化と日本の歴史との関係、即ち文字のないアイヌが口伝してきた所の伝承は、たとへ順次に各時代の色彩が加はつてゐるとは云へ、生きた言語によつて伝へられた伝説は、普遍性を帯びた民衆的社会的の思想傾向として、正史では知られない所の日本原始の姿の上に何等かの関係ある事実を有してはゐないでせうか。

 違星青年をして人生五十の齢まであらしめたならば、自然科学的研究の上にも文化科学的研究の上にも、右の如き懸案に多少なりとも裨益する点がありはしなかつたかと、返らぬ事ながら残念に思はれます。

 然し乍ら心身を堵しての金田一先生が、重き使命を負はれてアイヌ研究を続けられる限り違星青年の魂も亦、北海コタンの地下にその焦慮を鎮めて、安らかに眠ることが出来ると信じます。(終)

     ※

 北斗が「三保の講習会」に行ったことがあること、そして田中智学のことを金田一にも度々語っていたということがわかります。そして、興味深いことは、その繋がりが直接田中智学の筆によってではなく、金田一に学んだ娘の田中蓮代さんが、偶然金田一を訪ね『コタン』を託されたことによってこの記事が書かれた、ということです。


三保が最西端では?  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)14時59分48秒

 この「三保」とは、当時国柱会の本部があった静岡県三保だと思います。

 すると、これは北斗の訪れた最西端になります。

 これまで、最西端は高尾山だと思っていたのですが、静岡県ですか。

 もしかしたら、関西にも来たことがあるのでしょうか? わかりませんが、そうだと嬉しいですね。

2005年5月 2日 (月)

北海道調査 5/2

5月 2日(月)19時30分36秒

 今日は、自転車に乗って、余市の町を走りまわってきました。

 

 しかし、私はよっぽど馬鹿なのでしょう。

 フゴッペ洞窟、水産博物館、余市町図書館など、公立の施設はことごとく休みでありました。

 一応、外から見れるところ(旧フゴッペ壁画跡、北斗句碑)等は見てきましたが。

 また、明日ということになりますね。

 町役場に行き、教育委員会のカウンターで「違星北斗について調べているんですが」と言うと、案の定、若い職員さんに、「違星北斗? それは誰ですか?」と言われてしまいました。

 やっぱり、地元の人でも知らないんですねぇ。

 でも、年配の職員の方が知ってらっしゃったみたいで、水産博物館に詳しい方がいらっしゃるそうです。やはり明日は行かねばなりませんね。

 さんざんっぱら自転車で走りまわっていたので、おかしな人と思われたかもしれませんが、いろいろと発見がありました。

 これは! という偶然の発見もありました。

 でも、それが新たな謎を呼んでしまったりもしました。

 北斗や凸天の生れ育った(と思われる)あたりも見てきました。駅にも近いので大通りは賑やかなのですが、一歩内側に入ると、とても静かで、時間がとまったような感じがしました。海辺には廃屋も目立ちました。

 鰊漁盛んなりし頃は、きっとものすごく賑わっていたんだろうな、と思いました。

 今日はなんだか余市の町そのものを探検した感じです。

2005年5月 1日 (日)

北海道調査

5月 1日(日)22時50分26秒

 ただ今、小樽のあらや様宅に居候しております。

 いろいろ、本当にお世話になりっぱなしです。ありがとうございます。

 本日、道立図書館に籠もりまして、いろいろ未知の資料と対面いたしました。

本日対面した資料

(1)NHK札幌 ラジオドラマ台本『光りを掲げた人々・違星北斗』

 ちょっと期待はずれでした。金田一の『違星青年』および古田謙二の『落葉』をベースにしてこさえた感じ。あっというサプライズはなし。違星北斗をよく知らない人が書いたという感は否めない。

 北斗のキャラクターもものすごく田舎キャラで、ものすごく抵抗があります。

 詳細は後日。

 

(2)『違星北斗遺稿集』

 詳細は後日。12頁の小冊子、ということですが、ほとんど全集についてくる「月報」です。

(3)『志づく』第3巻第1号 

(5首掲載。うち一首が『コタン』未掲載の短歌。新発見!!)

 詳しくは後日。

 でも一応載せておきます。

 悪いもの降りましたネイと

 挨拶する

 北海道の雪の朝方

 あとの4首は

シリバ山 もしそにからむ/波のみが/昔を今に ひるかへすかな

正直なアイヌだました/シャモをこそ/憫れなものと ゆるす此頃

久々で熊がとれたで熊の肉/何年ぶりで食ふたうまさよ

コタンからコタンを巡るも/嬉しけれ/絵の旅 詩の旅 伝説の旅


(4)『志づく』第3巻第2号 (「違星北斗特集号」)

 詳細は後日。

(5)『北海道人』北斗掲載号は道立図書館にはなし。ちなみにT156月号はアイヌ研究号

(6)『北海道歌壇史』「新短歌時代」の項に違星北斗および並木凡平の記事

(7)『余市文教発達史』北斗、古田謙二、島田弥三郎、山岸礼三について、また祖父万次郎の上京についても記述あり。

 また、この文書が北斗の情報源としてあげている書名が『明けゆく後方羊蹄』というもので、ここに北斗のことが載っているらしい。

(8)司書の方が出してきてくださった『あいぬ実話集』『あいぬ人物誌』にも北斗の記述がありましたが、金田一の「あいぬの話」「違星青年」等の引き写しでした。

(9)小樽新聞のマイクロフィルムで西田彰三氏との「フゴッペ論争」を探したのですが、惜しくも閉館時間。そして、2,3,4と道立は3連休。

 もういちど5日か6日に来ることになりそうです。

 明日はいよいよ、余市を歩きまわってきます。

 余市のみなさん、きょろきょろあやしい男が歩いていたら、私ですのでどうか石もて追わないでください。

 今回得た情報は、いずれも、大阪に帰ってから、情報を整理してHP上に反映させます。

 あらやさんともいろいろ情報交換できて、勉強になっています。

 それでは。

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