余市文教発達史
ヌサマカ? マサマカ? 投稿者: 管理人 投稿日: 5月22日(日)20時27分4秒
「フゴッペ」に出てくる「ヌサマカ翁」ですが、『余市文教発達史』には「マサマカ」とあります。どっちが正しいのでしょう?
万次郎の東京 投稿者:管理人 投稿日: 5月22日(日)20時58分23秒
『余市文教発達史』によると、明治5年5月21日、余市アイヌ(男6人、女2人)が東京へと出発したそうです。当時万次郎は20歳。
万次郎は「成績優良で、東京出張所に採択され、開拓史の仕事にたずさわった」とあります。
「役人」であったというのは、本当だったのでしょうね。(それがそのような「役人」であるかは別として)。
余市文教発達史より 投稿者: 管理人 投稿日: 5月22日(日)21時20分49秒
余市文教発達史によると、北斗の俳句の師である古田謙二(号・冬草)は
冬草は、学究的、敬虔な基督教徒として信仰厚く「聖書研究」を常に手許から離さなかったことでも、その人柄が偲ばれる。
(田坂要人『追憶される人々』より)とあります。
また、北斗に思想的一大転機を与えた登小学校の校長・島田先生のフルネームが島田弥三郎だということもわかります。
北斗の主治医、山岸礼三についても
山岸礼三は東京の旧制第一高等学校を卒業し、明治三十四年(1901)に医師免許を取得、日露戦争での軍医としての活躍が認められ、従五位勳三等を受け、大正九年(一九三四)十二月、余市町内大川町で開院した。気さくな人柄で、困っている人には温い手を差しのべ、名医として慕われた。病院内の一室に、山岸コレクションとよばれる土器、石器を収集し、郷土研究への関心を高めた。
とあります。漢詩などもよくしたようです。
この山岸医院は北斗の家のすぐそば、徒歩10秒です。
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