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2005年5月 8日 (日)

「違星青年を惜む」

5月 8日(日)02時15分34秒

 戻って参りました。

 海が荒れて船がかなり揺れましたので、いまも船上にいるようにゆらゆらしております。

 帰りますと、ポストに「国柱会」から御手紙が。

 北斗について書かれた「違星青年を惜む」についてメールで質問したのですが、封書でお返事いただいたのでした。

 本当に感謝。ありがたいです。

 今回の北海道行は本当に成果がありました。

 ありすぎてどこから手をつけていいものか。

 じょじょに発表していきたいと思います。


「違星青年を惜む」(1)  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)11時27分41秒

 国柱会の方から送って頂いた「違星青年を惜む」です。

 昭和五年八月五日および六日に掲載されたもので、著者は田中智学先生ではなく、その一番下の娘さんの田中(のちに結婚されて岩永)蓮代さんという方だそうです。

     ※

 違星青年を惜む(一) 田中蓮代


 違星青年を惜む――と申しましても、私には一面識もなく、昭和四年一月二十六日に二十九歳を一期として永眠されたアイヌ青年でした。

 最近の或日、且て私が言語学を教へて頂いた金田一先生を阿佐ヶ谷にお訪ねしました。学界の権威殊にアイヌの研究に於ては第一人者であられる文学博士金田一京助先生――学者的真摯と細やかな人情とを兼ね備へられた先生に適はしいお書斎で、思ひがけなくも違星青年のことを伺つたのでした。

「此の青年は貴女のお父様を崇拝してゐまして、三保の講習会へも伺はせて頂いたとか、色々の感銘をよく語つてゐました。お父様はきつと斯ういふアイヌ青年のゐた事を御存知かもしれませんから此の遺作集をお目にかけて頂けましたら、亡き違星君も満足する事で御座いませう」

 かう云つて先生がお出しになつた一冊の本は「コタン」と名づけられた、アイヌ青年違星北斗(号北斗)氏の遺作集でした。

 此の遺作集を読んで、私は生ける違星氏に接する感を得たのでした。アイヌである事をかくしてシヤモ(和人)に化けてゐる同族のある事を、彼は身を斬られるやうな思で歎じてゐます。

 吾人は自覚して同化する事が理想であつて模倣する事が目的でない、況やニセモノに於てをやである」

 アイヌでありたくない――といふのではない――シヤモになりたい――と云ふのでもない。然らば何か。平和を願ふ心だ。適切に云ふならば日本臣民として生きたい願望である」

かうした言々句々の鋭さ。彼はまさにアイヌ民族の彗星です。

 アイヌには乃木将軍もゐなかつた、大西郷もゐなかつた、一人の偉人をも出してゐない事は限りなく残念である、されど吾人は失望しない。せめてもの誇は不逞アイヌの一人も出なかつた事だ。今にアイヌは衷心の欲求にめざめる時機をほゝゑんで待つものである、水の貴きは水なるが為であり、火の貴きは火なるが為である」

かう云つて彼は朴烈や大助がアイヌから出なかつたことに胸をなでおろして、アイヌの前途にせめてもの光明を見出さうとしたのでしたが、それが極めて覚束ないと考へる時のさびしさは、如何に堪へ難いものでしたらう。

 公明偉大なる大日本の国本に生きんとする白熱の至情が爆発して「われアイヌ也」と絶叫するのだ。(中略)アイヌは亡びてなるものか。違星北斗はアイヌだ今こそ明く斯く云ひ得るが……反省し、瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視(みるめる)のである」

最後の一句の寂しさ。

     ※

 ここまでが八月五日の文です。(続く)


「違星青年を惜む」(2)  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)14時29分55秒

 続いて、八月六日の分です。

     ※

 彼はまた短歌に於て自分の心持を適切に表現してゐます。彼は、自分の歌はゴツ/\してゐるが虚偽でないものを歌ふ、と自ら云つて居ります。

 はしたないアイヌだけれど日の本に生れ会せてた幸福を知る

 滅びゆくアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く

 我はたゞアイヌであると自覚して正しき道をふめばよいのだ

 アイヌとして生きて死にたい心もてアイヌ絵を描く淋しい心

 ネクタイを結ぶと覗くその顔を鏡はやはりアイヌと云へり

 ガツチヤキの薬を売つたその金で十一州を視察する俺

 昼飯も食はずに夜もなほ歩く売れない薬で旅する辛さ

 ガツチヤキの薬如何と人の居ない峠で大きな声出してみる

 アイヌ研究したら金になるかときく人に金になるよとよく云つてやつた

 葉書さへ買ふ金なくて本意ならず御無沙汰をする俺の淋しさ

 佐藤湯を呑んでふと思ふ東京の美好野のあの汁粉と粟餅

 同胞(ウタリー)は何故滅びゆく空想の夢よりさめて泣いた一宵

 悪辣で栄えるよりは正直で亡びるアイヌ勝利者なるか

 崩御の報二日もたつてやつときく此の山中のコタンの驚き

 病よし悲しみ苦しみそれもよしいつそしんだがよしとも思ふ

これらは二百首近い歌の中からほんの僅かをあげたに過ぎませんが実にその意気と念願と、そして繊細な人生観照とが漲つてゐます。

 多感なる違星青年は遂に和人(シャモ)になりすましてゐる事に堪へ切れず飄然と、眠れる北海の部落へ帰つて同族を覚醒せしめようとしたのでしたが、そこには無理解な嘲笑がある許りで、彼の掴み得たものは貧困と云ふ事実だけでした。身体を虐使した彼は遂に傷ましき病床に横たはつて、無量の感慨に悶えるのでした。

 血を吐いた後の眩暈に今度こそ死ぬぢやないかと胸の轟き

 頑健な体体でなくば願望も只水泡だ病床に泣く

 アイヌとして使命のまゝに起つ事を胸に描いて病気忘れる

 東京を退いたのは何の為薬のみつゝ理想をみかへる

宿望――彼は病床にあせりましたが時にはまた

 何をそのくよ/\するなそれよりか心静かに全快をまて

と歌って自ら気をとりなほしてもみましたが、遂に死は迫りました

 世の中は何が何やらしらねども死ぬ事だけはたしかなりけり

かうした予感をとゞめて幾ばくもなく、次第に違星青年の身体は冷えて二十九才の春に先だつて燃ゆる希望を抱いたまゝ名残をしくも短き此の世の春を終つたのでした。

 遺稿集をよみ終へた時、此の多望なるアイヌ青年を追惜するのは念は誠にやみ難いものでした。

 亡びゆくアイヌ――それを傍観してゐてよいものか、又はその中から何ものかを見出すべく研究しなければならないものか、そしてその研究がどれ程の価値を有するか、等々の問題は、衰滅近きアイヌの上になげられた一大問題であると思ひます。

 日本の先住民族であつたらしいアイヌの文化と日本の歴史との関係、即ち文字のないアイヌが口伝してきた所の伝承は、たとへ順次に各時代の色彩が加はつてゐるとは云へ、生きた言語によつて伝へられた伝説は、普遍性を帯びた民衆的社会的の思想傾向として、正史では知られない所の日本原始の姿の上に何等かの関係ある事実を有してはゐないでせうか。

 違星青年をして人生五十の齢まであらしめたならば、自然科学的研究の上にも文化科学的研究の上にも、右の如き懸案に多少なりとも裨益する点がありはしなかつたかと、返らぬ事ながら残念に思はれます。

 然し乍ら心身を堵しての金田一先生が、重き使命を負はれてアイヌ研究を続けられる限り違星青年の魂も亦、北海コタンの地下にその焦慮を鎮めて、安らかに眠ることが出来ると信じます。(終)

     ※

 北斗が「三保の講習会」に行ったことがあること、そして田中智学のことを金田一にも度々語っていたということがわかります。そして、興味深いことは、その繋がりが直接田中智学の筆によってではなく、金田一に学んだ娘の田中蓮代さんが、偶然金田一を訪ね『コタン』を託されたことによってこの記事が書かれた、ということです。


三保が最西端では?  投稿者: 管理人  投稿日: 5月 8日(日)14時59分48秒

 この「三保」とは、当時国柱会の本部があった静岡県三保だと思います。

 すると、これは北斗の訪れた最西端になります。

 これまで、最西端は高尾山だと思っていたのですが、静岡県ですか。

 もしかしたら、関西にも来たことがあるのでしょうか? わかりませんが、そうだと嬉しいですね。

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