古田謙二
6月18日(土)22時33分35秒
北斗の俳句の師であるとされる古田謙二(冬草)の句集『冬霧』(昭和34年発行)によると、
古田謙二は昭和34(1959)年2月2日に満60歳の誕生日を迎えた、とありますので、1898(明治31)年生まれということになり、北斗より3つ年上です。
「先生」というより、兄貴分というような感じだったのでしょうね。
古田は1918(大正7)年、20歳の時に初めて俳句を詠みます、
成長期には家が火災に遭い、小学校卒業後は額に汗して働かねばならなかったということです。小学校教員になりますが、資格をとるために受験勉強に追われて、俳句に気を向けている余裕がなかった、ということです。
昭和5年、留萌の女学校へ赴任してから、「暁雲」主幹の青木郭公に手紙を書き、それに参加、昭和19年より「緋衣」を始めます。
北斗と出会った当時、余市小学校の先生だったわけですが、3つ違いですから、まだ二十代前半です。今まで言われていた「北斗の俳句の師」というイメージともすこし違う気がします。
北斗が最初に俳句を発表したのが大正13年で、このころでも古田は5年ほどの俳句歴しかなく、いわば同人の先輩後輩ような感じではなかったのでしょうか。
北斗の遺稿をまとめた昭和4~5年ごろでも29歳ぐらいです。
6月19日(日)13時08分44秒
『余市文教発達史』によると、
余市小学校訓導であった古田は、大正の末ごろ、余市の句会に参加していました。
これは、田中半夢(余市農産物検査員)と多田半銭(りんご園経営)、小保内桂泉(旅館業、日記昭和3年のフゴッペに関する記述のところにに出てくる郷土史家の小保内氏であろうと思われます)らが開いていた句会で、小保内旅館で行われていたようです。
これに北斗が参加したかどうかわかりません。大正14年頃の2月には東京に向かっており、微妙なところです。大正13年より『にひはり』誌に投稿をはじめており、それには「俳句の師」である古田の影響があったでしょうから、やはり、古田を通じてこの会と関係があったのかもしれません。
古田冬草は熱心なクリスチャンで、家族がみな俳句をやっていたので、自然に短歌をたしなむようになっていったようです。若い頃は教員として余市、留萌等で過ごし、昭和24年札幌へ移り、北海道拓殖銀行に入り、昭和31年に退職しています。
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