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2005年8月18日 (木)

違星北斗の旅 3日目 花のお家、樹のお家

2005年08月18日01:15

 8月15日、3日目。

 朝一番にホロベツの浜へ行きました。
 なぜかというと、違星北斗の歌に

  ホロベツの浜のハマナシ咲き匂ひ
  イサンの山の遠くかすめる

 というのがあって、ここに出てくる「イサン」は、函館の近くの「恵山」だということなんですね。
 北海道を魚のエイにたとえると、ホロベツはお腹のあたり、恵山は尻尾の右側あたりです(って、よけいわからないですね)。
 噴火湾をはさんで、けっこう距離があるはずですが、本当に北斗が詠んだように、対岸に恵山が見えるのだろうかということで、ホロベツの浜に行ってみた次第です。
 ホロベツの浜は、今も砂浜ですが、すぐ近くを国道が走っていて、残念ながらハマナシ(はまなす)は咲き匂っていませんでした。
 なかなかのいい天気。これなら見えるかもしれない、と思いながら、フロッガーのように(?)ビュンビュン走る自動車のスキマをぬって、海岸の堤防まで行き、太平洋を眺めました。
 やっぱり、見事に何も見えませんでした。残念。

 でも、海岸沿いの家のおばさんに聞いたところ、今でも1年に何日かは恵山も、えりも岬も見えるとのこと。
 また、北斗の時代には一面に咲いていた「はまなす」は40年ぐらい前だったか、国道36号線が出来て、砂浜が狭くなったのでなくなってしまったが、国道沿いの花壇には植えてあるとのことで、おばちゃんの指さす先には、たしかに赤いハマナシの花が咲いていました。
 恥ずかしながら、私はそのときはじめて、へえ、これがハマナスか、赤いんだ、と思ったのでした。
 花の名を知っていても、その姿を知らないということは、知らないってことですね。
 情けないと思いました。


 登別へ。
 知里森舎へ行く前に、先に知里幸恵の墓に参ることにしました。
 小学校の校庭に知里幸恵の弟で、文学博士の知里真志保の碑があり、そこに「知里幸恵の墓・金成マツの碑(マツは高名なユーカラの伝承者で、幸恵の伯母で義母)」という矢印が出ていたので、それに従って坂道を登っていきました。もうすぐだろう、と思ってのんきに構えていると、どんどん坂がきつくなってきて、気が付けばかなり高いところまで登っているのでした。暑く、日差しはきつく、荷物は重くて、どうもへこたれそうでしたが、いやいや、病身をおして雪のコタンを巡った北斗のことを思えばこんなのなんともないやい、と思って、なんとか墓地にたどりつきました。

 知里幸恵の墓は小さなお墓でした。クリスチャンだった幸恵のことを思うと、どう偲んでいいものかわかりませんでしたので、ただ手を合わせてきました。
 瑞々しいアジサイがぼん、ぼんと供えられていて、可愛いな、とても幸恵に似合っているな、と思いました。
 これが、知里幸恵の墓なんだ、と思うと、なにかあたたかな思いに包まれた気がしました。

 
 最近、30にして、ようやく人はなぜお墓に参るのか、仏壇を置くのか、ということの意味が、すこしづつだけれども、理屈じゃなく実感としてわかるような気がしてきています。
 理屈では墓はただの石塊だし、仏壇はただの木工だ。ユーレイも魂もみんな脳味噌のからくりだ。
 でも、理屈ではそうなんだけど、やっぱり、お墓だの仏壇だのといった装置を作って、亡き人を偲ぶ。それは理屈じゃなくって、本能なんだ、そういう本能を持つのが人間なんだなと。
 なんとなく思うわけです。あんまり、関係ないかもしれませんが、最近とみにそう思います。


 さて、違星北斗は、上京してすぐにアイヌ文化の研究者であった金田一京助を訪ね、そこで知里幸恵の遺著を手にしたと思われ、すぐさま敬愛する幸恵の墓に参らなければ、と発言しているそうですが、当時幸恵の墓は東京の雑司ヶ谷にありました。
 東京の金田一京助の元で亡くなったため、その頃は幸恵は東京に葬られ北斗もそこに参ったと思われます。その後、昭和40年代に故郷の登別に改葬されたのでした。

 違星北斗は、この知里幸恵という少女、『アイヌ神謡集』というたった一冊の本を遺して死んだ少女の、その思い描いた理想を自らの理想として心の中に描き、彼女の遺した願いを、自らの願いとして、アイヌ民族のために自らの生涯を捧げようとして北海道に戻ってきたのでした。
 
 
 知里幸恵の生家知里森舎へ。
 違星北斗が日記に「花のお家、樹のお家、池のお家として印象深い物だった」と書いていますが、行ってみるとまさにその通りの印象でした。ただ、お庭の「池」は、干上がってしまったそうですが、森の中のお家という感じで、北斗が訪ねた時のイメージが浮かぶような、懐かしい感じがしました。

 そこで、知里幸恵の姪にあたる方にいろいろお話を伺いました。
 その中で、違星北斗はもっとこれから有名になって然るべき人だ、という言葉をお聞きして、とてもうれしくなりました。
 
 懸案のなぜ違星北斗は「登別」ではなく「幌別」に向かったのか、という、私にとっては長年の疑問だった「ホロベツの謎」を、ぶつけてみました。
 すると、本当に意外なほど簡単に答えがでました。

 ――ここは今は「登別市幌別」だけど、昔はここは「幌別村登別」だったんです。だから、ここ(登別)は、幌別といえば幌別なんです。

 ということでした。つまり、登別が温泉で知名度が高くなったので、幌別の一地区の名前であった登別が、地域全体の名前であった幌別と逆転したわけですね。

 だから、違星北斗は東京から帰ってきて、いの一番に「ホロベツ」に降り、「ホロベツ」の知里幸恵の家を訪ねてその両親と会っている、と見て間違いないと思います。
 
 地元の人にとってみれば、あたりまえのことなのかもしれませんが、余所者の私には、思いもつかないことでした。
 調べてみると、確かにそうなっています。幌別村は1951年に町制をしいて幌別町になりますが、1961年に町名を登別町として、その後1970年に登別市になっているんですね。
 謎が、あっというまに解けました。
 こういうのも、やはり現地に来ないとわからないもんだなあ、と思いました。

 その他、いくつかの細々とした疑問も、即座に答えていただき、大変勉強になりましたが、一番印象的なのは、そのお家が、とても温かかったことです。

 私なんか、余所者の通りすがりなのに、お昼ご飯を御馳走になり、写真を撮って頂き、なおかつ駅まで車で送って頂いてしまいました。
 別れ際に「またいらしてください。忘れませんよ」とおっしゃって頂いて、なんだかとても感激してしましました。


 79年前、違星北斗もこんな気持ちで、温かい気持ちになって、幸恵の父母に見送られて、花のお家、樹のお家、池のお家をあとにしたのだろうか、と思いました。


 その日は白老まで行き、駅前で自転車を借りてぐるぐる走り回り、疲れて寝ました。

 三日目、長い1日の終わり。
 

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