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2005年8月25日 (木)

違星北斗の旅 7日目(1) 平取編

2005年08月25日14:57

 なんだか、どんどん、書き込みがマニアックになっていきますが、適当に読み飛ばしてください。


 8月19日 7日目。


 いよいよ、北斗が過ごした平取の地へ。
 1本バスを乗り損ねた末、8時半のバスに乗り、平取へ向かいます。
 いやー、速い速い。昨日荷物を背負って泣きながら歩いた道程がもう後ろへ後ろへ飛ぶように去っていきました。
 バスは「平取」止まり。役場のある平取本町です。

 そうか、このバスは「二風谷」までは行かないんだなあ、とバスを降りてから、初めて気づきました。
 本当に私は迂闊というか、粗忽というか、考えなしで旅をしているようで、どうも困ったことだと思います。なんとなくで旅をしているんですね。だから、一人旅しか出来ないんだと思います。
 バスを降りると、立派な「ふれあいセンター」という建物。役場のようなものなのでしょう。思ったより大きな町ですね。
 考えてみると、私は「二風谷」を訪れるのは今回の旅で3度目になると思うのですが、この「平取」の市街を訪れるのは、ほとんど初めてといえるかも知れないなあ、としみじみ思いました。
 以前にこのあたりに自転車で来た時も、バイクで来た時も、私にとっては、平取=アイヌの聖地・二風谷、というふうな思い込みがあって、平取本町はあまり眼中になく、ほとんど通り過ぎただけだったのでした。
 ところが、違星北斗の研究を目的に来た場合には、それではいけないんだ、とこのときになって初めて気付きました。
 平取に来た違星北斗が手伝ったという「バチラー幼稚園」は平取本町にあり、その時期、違星北斗が住んでいたのも、このバチラー幼稚園の下あたりでした。つまり、違星北斗にとっては、北斗の歌碑が建立されている二風谷よりも、むしろこの平取本町のほうが縁が格段に深いのですね。
 そんなこともわかっていなかった自分が、情けなくなりました。この違星北斗の足跡を辿る今回の旅でも、もちろんこの平取本町の方にこそ、重点を置かなければいけなかったわけです。
 もう少しで平取大橋を渡って二風谷に向かってしまうところでした。途中で気づいてよかったよかった。

 さて、平取の町をふらふら歩いていると、いきなり「バチラー保育園」の看板が。北斗が平取時代を過ごしたのが、まさにここなのです。
 実は以前、5年ほど前の自転車旅の時に一度見ているとは思うのですが、その時はバチラーって誰だっけ、みたいな感じでしたが。
 北斗の大正15年(※)8月11日の日記には

 ヤエ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違う私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた

 とあります。それがこの教会なんですね。
 北斗の居たときは「幼稚園」だったのですが、その後一旦閉鎖され、「保育園」として再開して今に至っています。その側には「聖公会」の教会も建っています。  
 アイヌのために一生を捧げる覚悟をして、東京から北海道に帰ってきた大正15年の夏、北斗はこのバチラー幼稚園に身を寄せています。7月7日に幌別の知里幸恵の生家を訪ねたのち、11日には平取に入っています。

 英国聖公会の神父ジョン・バチラーは「アイヌの父」などともよばれ、アイヌへの援助や救済に一生をささげた人で、札幌にアイヌ子弟の教育を目的としたバチラー学園などを設立したりもしていましたが、この平取の「バチラー幼稚園」もまたその一つでした。
 この幼稚園は、北斗が東京で私淑していた社会運動家の後藤静香(せいこう)が資金援助していましたから、その線での繋がりもあるのでしょう。
 当時バチラーは札幌にいましたが、その養女のバチラー八重子が平取にいて、布教にあたっていました。有珠アイヌであった八重子は、父親が信者であったため、ジョン・バチラーの養女となり、高い教育を受けていました。
 北斗は東京にいた頃、金田一京助にバチラー八重子のことを聞き、八重子に手紙を書いてその返事を受け取っていたといいます。それまで俳句しか詠んでいなかった北斗が、短歌という表現手段を用いるようになったのにも、短歌をよくしたバチラー八重子の多大な影響があるとおもわれます。
 また、北斗が敬愛した知里幸恵の母ナミや伯母(養母)の金成マツもバチラーの教会の伝道婦だったこともあり、そういった諸々の縁が重なって、北斗を平取に呼び寄せたのだと思います。

 バチラー保育園に近付くと、子供たちの騒ぐ声が聞こえてきました。失礼ながら、こんな山村にもこんなに子供がいるんだなあ、と少しおどろいたほどでした。
 園内にいらっしゃった保母さんに声をかけ、園長先生を呼んでもらうと、出て来たのはやさしそうな女性の園長さんでした。事情を説明すると、子ども達が昼寝をしている2時頃来て欲しいとのこと。あと3時間ほどありますので、いろいろ回ってから後から来ることにしました。

 とりあえず、バチラー保育園のすぐ上にある「義経神社」へと向かいました。この神社も北斗ゆかりの地です。北斗はこんな歌を詠んでいます。

  平取はアイヌの旧都懐しみ
  義経神社で尺八を吹く

 奥州平泉で死んだとされている源義経が、実は死なずに蝦夷地に渡ったのだ、という伝説が北海道の各地に残っているのですが、この地の義経神社もそういう伝説から生まれた神社だと思います。また、アイヌの英雄神「オキクルミ」が、じつは義経なのだ、というような伝説があるとも聞きます。でも、これはあまりにも和人にとって都合の良すぎるものであり、どの時代、どの程度かはわかりませんが、和人側の情報操作が加わっているものだと私は思っています。
 そのような事を考えながら、義経神社の資料館でいろいろの伝説だのなんだのを見て、出てくると、雨が降り始めていました。
 しまった。
 実は朝、こんなこともあろうかと富川のコンビニでビニール傘を買ったばっかりなのを、どこかで忘れてきてしまったのでした。まったく。北斗が尺八を吹いていたという、境内の様子もろくに見ないうちに、雨を避け、傘を求めて商店を探しました。
 とりあえず、近くの商店でビニール傘を買い求めましたが、雨量はいや増すばかり。

 しょうがなく、先程降りたバス亭の近くにあった「ふれあいセンター」の入口で雨をやり過ごすことにしました。
 荷物を降ろして、雨宿りしていると、「どっから来たの?」と、一人の太ったおじさんが話しかけてきました。
 大阪から、違星北斗のことを調べに来た、と言うと、「そうか、明日『チプサンケ』やるから、ぜひ見に来なさい」というような意味のことを言われ、「舟に乗せてやっから」と言われました。
 チプサンケとは、アイヌの舟下ろしの儀式で、8月20日に行われることは知っていました。今回違星北斗とはあまり関係ないとは思いながらも、外せないと思っていたイベントでした。私がチプサンケに参加するつもりだと答えると、おじさんは前から歩いてきた別の痩せたおじさんをさして「この人が明日、チプサンケでカムイノミ(お祈り)するんだわ」とおっしゃいました。さすが平取、アイヌ文化の里だなあ、と感心しました。

 雨がなかなか止まないので、「ふれあいセンター」の3階の図書館で書漁。ここで平取にいた当時の北斗に関する貴重な情報を得ました。
 末武綾子著『バチラー八重子(抄)』というもので、ここに北斗とともにバチラー幼稚園にあった吉田ハナさんからの聞き取りがありました。北斗は吉田ハナさんによく「キリスト教ではアイヌは救えない」と言っていたようで、なるほど、やっぱりそうか、と思いました。
 北斗の周りにはいつもキリスト者がいたのに、彼は生涯、キリスト教を受け入れることができなかったばかりか、辞世の歌にも、次のように詠っています。

  いかにして「我世に勝てり」と叫びたる
  キリストの如 安きに居らむ

 民族の運命を背負って自分の足で立つ決意をした違星北斗にとっては、多くの同族が杖に支えにとばかりにすがりついているキリスト教は、時には頼りたいけれども、決して頼ってはいけない、そのような存在だったではないだろうかと思っています。辞世のこの一句にはそういうキリスト教への愛憎の色が見えるような気がします。

 さて、時間が近付いたので、再びバチラー保育園へ。
 園長室に案内されて、お話を聞きますが、あまり大正時代のことはご存知ない様子でした。ただ、北斗とともにあった吉田ハナさんはすでにお亡くなりになっていること、現在の教会も保育園の建物も、建て直した時に、少し位置が変わっていること等をお聞きすることができました。
 やはり、昭和初期に幼稚園が閉園になってから、戦後に保育園が開演するまで、かなり断絶があるんですね。また、聖公会も戦前は英国に本部がある英国聖公会だったのが、戦後は日本聖公会という日本に本部を置く組織に改組されているようで、そのあたりも難しいところです。

 次に、園長先生から、神父さんをご紹介いただき、教会でお話を伺いました。神父さんはちょうど高校野球の「駒大苫小牧高校」の準決勝の試合を見ていらっしゃって、ちょっと間の悪い時に来てしまったな、と思いました。
 神父さんもあまり、北斗の時代のことはご存知ない様子でした。ただ、大阪の桃山大学が聖公会の大学だから、そこを訪ねると、バチラーのことなどはよくわかるだろう、と教えてくださいました。
 大阪、か。結構、「灯台もと暗し」なのかも。

 バチラー保育園を出たら、すっかりいい天気。どうも涼しくていい感じでした。
 まだ3時。
 よし。これから北斗も平取から二風谷に行く時は歩いたに違いない道を通って、歩いて二風谷へ向かおう、と決意。

  尺八で追分節を吹き流し
  平取橋の長きを渡る

 北斗が尺八を吹きながら渡ったという橋、先程途中まで渡りかけた、平取橋へと向かうことにしました。
 しかし、尺八か。
 渋すぎる。ニヒルっぽい(?)な北斗にはお似合いの楽器ですね。私も習いたくなってきた。


 長いので、7日目(2)二風谷編に続きます。
 
※『違星北斗遺稿 コタン』所収の「日記」の「昭和2年」の項のほとんどは、実は前年の大正15年のものであると思われる。詳しくは研究ページ
http://www.geocities.jp/bzy14554/nikkinitsuite.html
参照。

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