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2005年8月28日 (日)

吉田ハナさん、そしてバチラー幼稚園の日々

 8月28日(日)23時27分53秒

 平取で北斗とバチラー八重子とともにあった、吉田ハナさん。

 今回入手した資料『バチラー八重子抄』ではバチラー八重子より17才年下となっていて、昭和45年現在70才とあります。ということは、1900年生まれで、違星北斗とほぼ同世代ということになる。

 うーん。早川昇の「アイヌの民俗」では、明治31(1898)年に平取キリスト教婦人会長とある……うーん。

 どちらかが間違っているんだろうけど……。

 この方のことは、バチラー保育園の園長さんもご存じだったけど、あまり詳しいことも知らないようでした。伝道婦でもなかったので、公式の記録にも残っていないし。

 聞き書きでは、北斗のこと、あんまり覚えてないって言ってるんですね。それに印象もそれほど良くない。

 それは取りも直さず、北斗が「キリスト教では同族は救えない」という信念を持っていたからで……時には意見が平行線を辿ることもあったんですね。

 ひとまずバチラー幼稚園に身を寄せ、八重子とともにあったけれども、北斗と八重子の思想は重なり合わなかったんでしょう。あくまで「外から(そして上から)与える」のキリスト教徒たちのアイヌに対する施策には、「アイヌの復興はアイヌの手で」という北斗の思想ははなじまないでしょうし、50年経っても一向に成果の上がらないバチラーのやり方にも失望もしただろうし。(北斗も自分の体が強くないことを気にもし、急いでもいたでしょうから)。

 喧嘩別れというわけではないけれども、気まずい雰囲気を引きずったまま、袂を分かたざるを得なかったのだと思います。

 日記に残っている7月の風景は、あれは北斗と「バチラー幼稚園」の蜜月の姿なのでしょう。しかし、1ヶ月もしないうちに日記にも現実的な問題点がかいま見えるようになります。たとえば、後藤静香の送金を中止といった「お金」の問題もあるでしょう。

 平取に居る間、北斗は丸抱えで、バチラー幼稚園に雇われていたわけではありません。土方仕事や伐採などですくなくとも生活費は自分で稼いでいたわけです。

 だから、バチラー八重子や、岡村神父といった人に命令される立場でもなく、ただ補修や雑用などの仕事を請け負うかたち(もしくはボランティアで)でやっていたにすぎないのでしょう。

 住居はバチラー八重子がミス・ブライアントから貰い受け、吉田ハナが管理していた貸屋に、たぶん寄宿していたのでしょうが、関わりとしては、かっちりとした雇用関係や信仰による絆があったわけではない。ただ、ウタリの向上を願う気持ちのみ通じている。幼稚園や教会に出入りしているけれど、信者でもないので、北斗自身の行動はバチラー側には束縛されない。そういうどっちつかず「関わり方」になっていったのだと思います

 穿ちすぎかもしれませんが、バチラー側からすると、幼稚園のスポンサーである後藤静香の息のかかった者でもあって、いろいろ扱いづらい部分もあったかもしれません。北斗もバチラー側と後藤静香側の板挟みになって苦しんだことと思います。

 そのあたりの苦悩が、希望に満ちた7月とは打って変わって8月の日記には見え隠れしてきます。

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