山岸礼三の著作
8月27日(土)12時58分5秒
山岸玄津(礼三)『北海道余市貝塚に於ける土石器の考察』
「緒言」
(前略)
余市が斯く先住民族の遺蹟地であり、遺物埋蔵地でありながら、学者や好事家の発掘に任せ、或は折角蒐集したる人にありても、これを容易に人手に附与し或は今日尚堀土の折等に、時として遺物埋蔵地に遭遇することがあつても、無頓着、無理解なる鋤鍬の一撃に委ねて、之を細砕し、或は抛棄して顧みざるが如きことがある。斯くては貴重なる遺物の包含量も次第に幻滅に帰し去るであらうと思はれる。余は何かの縁で由緒ある此郷に来り、卜したる現住地が恰もその遺蹟地中の優なる場所であつと云ふことは、余自身は勿論何人も気づかなかつたのである。即ち余が現住地は俗にアイヌ街と称する処で、アイヌ住屋地に近接してゐる為め、自(オノズカ)ら土人と親しみを来すことになつたのと、其上に其頃土人中に違星竹次郎(号北斗後上京金田一学士などの名士に参じたことのある且つ頗る気骨があり、又文雅の道にも趣味を有し、思索もすると云ふ面白い男であつたが惜しいことには、三年前に肺患で病没した)なる青年がゐて、時々余の宅を訪れて、余が移居当時の無聊を慰めくれ、時にはアイヌ口碑や「カムイユーカラ」の伝説、現時に於ける実生活状態など聞かしてくれたりして、随分余の新居地の東道役になつてくれた男であつた。然るに大正十二年の春彼が急性肺炎に罹り可なり重患であつたのを、余が一才引き受けて、入院せしめ世話してやつたのを、彼は喜んで全快祝だと称して、彼が年来秘蔵したる西瓜大の土器一箇を携帯寄贈してくれた。これが余が土器を得たそも/\の初めである。此品は彼が大正九年の秋、余が此地に移居の僅か二三ケ月前の或日、余市川に投網して獲得したるもので、話に聞く土器であつたから、御授かりの気持で、誰人の所望にも応ぜず保有してゐたものであると語つた。当時余の問に対して彼がいふには、私共民族の中では、従来土器の保有者一名もなく、祖先から口碑にも聞き居らず、唯伝へられて居るのは、余市アイヌが此地に来た時先住民族が居た。それはアイヌよりも小さく、弱き人種で、わけもなく追つ払つた。此人種はアイヌでは「クルブルクル」石の家の人の意味で「ストーンサークル」環状石籬を作り立て籠もつた民族である。而し「コロボツクル」(蕗の下の人)人種の事を聞いて居るが、それかもしれぬ。只先住民族が居つたと云ふから、或は其遺物であらうと思ふまでだとの答であつた。
余は此時直感した。これは現住のアイヌではない。併し現住アイヌの祖先を彼等に訊ぬれば、数百年は愚か千年以上の口碑を持つて居る。余は只不思儀の一言を発したのである。
兎に角も余は此の得難き一品を手に入れて欣喜置く能はず、心を尽くして彼を犒ひ、祝宴迄開いたことを記憶する。其後土器が縁となり、北海道史を知人から借覧などして興味をそゝり(後略)
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この文献には、今まで知られていない若き日の北斗の姿がかいま見えます。
大正9年ごろ、北斗が投網で西瓜大の土器を得たこと、北斗が大正12年に肺炎で入院し、治してもらったお礼にそれを山岸礼三に贈ったこと、喜んだ山岸が祝宴まで開いたこと、それが山岸の最初の山岸コレクションであることなど。
また、山岸先生と北斗は非常に親交が厚かったようですね。山岸先生も、北斗の才能や人柄を高く認めていたようです。
余市でお会いしたご子息のお話によると、山岸礼三先生はアイヌの診断は基本的にはお金を取っていなかったようです。
コタンの赤ひげ先生は、白老の高橋房次先生だけじゃなかったんですね。
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