『違星北斗の会』
『違星北斗の会』の木呂子敏彦先生の息子さんと会って、いろいろ話をしました。
木呂子敏彦先生は、とても波瀾万丈で、いろんなことをされているので、とてもひとことでは言えないのですが、その著作集によれば、帯広の教育委員、助役などを務められた方だそうです。また、フゴッペ論争で北斗と争った西田彰三は叔父にあたるそうです。
若い時に後藤静香の薫陶を受け、人格者として多くの人に慕われた方です。
木呂子敏彦先生の作品集「鳥の眼、みみずの目」には、けっこう新発見もありました。 たとえば、湯本喜作に協力した「谷口正」氏は、木呂子氏とも懇意で、またこの方は「賢治観音」の発見にも寄与した方だったこと。
お会いした息子さんも木呂子先生の若い頃いろいろ調べられたそうです。記憶の整理も兼ねて、息子さんにお聞きしたことを書いてみます。
・ご実家には、いろいろ木呂子先生の残した資料があり、そこには北斗関係のものもある。
・北斗のことについて書いた小説がある。(恩師奈良直弥が書いた?)
・アベという学校の先生が書いた、ワープロ打ちの小説もある(アベ?という先生が書いた)。これは、東京時代の恋愛も描いている。(甘味処の短歌がありますよね、あれにインスパイアされたものらしいですが)
・後藤静香について
木呂子先生は東京で後藤静香の教えを受けている。(昭和七年ごろ)
家計調査を最初におこなったのは後藤/高崎に記念館がある/
希望社の後継団体「こころの家」はすでに解散。「磯崎氏」が関係者。/
多摩川霊園で後藤の墓前祭をやっている。息子さんは参加したことがある
・木呂子先生の吹き込んだテープが40本?以上ある
・遺稿集の「門間清四郎」という名前は寄宿先
フゴッペに関しては、北斗から見て、敵役のように思われているが、身内としては西田彰三の名誉回復もはかりたく、調査しているそうです。
・西田彰三について
西田彰三は宮部金吾の助手であった/
素人というわけではなく、むしろ博物学者のようであった/
河野本道の研究会に参加していた/
小樽高商で、商業の実習として石けんの製造からマーケティング?までを
実際におこなっていた。
伊藤整の「若き詩人の肖像」に、伊藤整が西田彰三のところに石けんを
買いに行く場面がでてくる。
NHKのラジオドラマについては、木呂子先生のNHKへの働きかけによって実現したものだそうです。私が、息子さんにシナリオのコピーをお渡しすると、仏前に供えます、と言って喜んでいらっしゃいました。
その他、いろいろあったのですが、やはり印象的だったのは、「西田は決して悪者ではないのだ」ということ。そうですよね。西田の立場に立ってみることも大事なんだなあ、と思いました。
その他、思い出すことがあれば、また書きます。
コメント