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2005年9月

2005年9月30日 (金)

バチラー周辺

9月30日(金)01時21分7秒

『バチラー八重子の生涯』によると、バチラー八重子が幌別教会にいたのはT13から、S2年まで、S2より平取教会となっています。

これは、『若きウタリに』(岩波文庫)も同様。『異境の使徒』も『バチラー八重子抄』も『バチラー八重子小伝』(『若きウタリに』)でも昭和2年。

これらの「昭和2年」の記述は、北斗の日記の「昭和2年」という記述に引っ張られているものだと思います。

で、北斗の「昭和2年」の日記が、実は「大正15年」だった、という発見を受けて、これらのバチラー八重子の平取教会時代が昭和2年からだ、というのも間違っているといわなければならなくなりません。

 今回の旅で平取教会を訪れたのですが、あまりめぼしい資料はなかった(わからなかった?)ようでした。神父さんが「聖公会の資料は、大阪の桃山学院にある」とおっしゃっていたので、確認してみたいと思います。

 平取幼稚園の始まりの年も、本によって大正11年だったり、12年だったり、本によって違いますし、終わった年も「昭和3年」と「昭和4年」があり、はっきりしません。

 平取教会で頂いた資料(「平取保育園25周年記念誌」)によれば、保育園の前身である平取幼稚園は大正12年9月~昭和3年。後藤静香の援助が大正11年12月(『後藤静香選集10』)~大正15年(「日記」)だから、これは結構信憑性が高いのではないかと思う。後藤静香の援助を受けて設立された幼稚園だから、大正11年12月より前に幼稚園はできていないと思う。

2005年9月29日 (木)

八重子の足跡

9月29日(木)01時57分59秒

 バチラー八重子の足取りというもの、実はよくわかりません。

 掛川源一郎『バチラー八重子の生涯』が一番詳しい本でしょうが、いろいろと疑問点もあります。

 たとえば、バチラー八重子は大正13年から昭和2年まで「幌別教会」勤務になっていますが、これも大正15年に直すべきかもしれませんね。

 八重子は「幌別教会」から「平取教会」に移ったのと、北斗が幌別を経て平取教会に入ったのはなんらかの関係あるかもしれません。

 真志保と八重子の関係もまた、そのあたりに秘密があるのかもしれません。

真志保と北斗

9月29日(木)01時51分54秒

北斗は東京から北海道に戻ってきて、いの一番に幌別(登別)に向かいました。

そこで、知里幸恵の父と母に会っています。

 私は、そこで北斗がじつは、知里真志保と会っている、と考えています。

 これは、知里むつみさんに聞いたのですが、当時、室蘭中学に行っていた真志保は、室蘭に下宿していたそうですが、帰ってくるなら幌別の家だろう、ということでした。(ちなみに真志保はマシホではなくマシオという発音が正しいそうです)。

 もしかしたら、北斗の幌別の目的はそれであったのかも知れない、とも思います。バチラー八重子とは東京時代から文通していたそうですが、それを考えると、金田一京助にあれだけ接触していた北斗が、知里真志保の事を聞いていないはずはないですし、真志保がバチラー八重子と親しかったことを考え合わせると、やはり東京時代から、真志保とも文通していたとしても不思議ではない。

 そして、真志保は、北斗とこの大正15年の夏の時点で出会っていると思います。

 なぜ、それがわかるかというと、この3つの短歌がヒントです。


 新聞でアイヌの記事を読む毎に

 切に苦しき我が思かな

 深々と更け行く夜半は我はしも

 ウタリー思ひてないてありけり

 ほろ/\と鳴く虫の音はウタリーを

 思ひて泣ける我にしあらぬか

 (いずれも『北斗帖』より)

 この3つの短歌は曰く付きの短歌で、じつはバチラー八重子が、金田一京助にこんなことを書き送っているのです。


 ……先生、違星さんの「コタン」の中に私の作った歌が三つのっています。それはか(こ)うなのです。幌別で違星さんと一しょに作ったのです。私がいつものちょうし(調子)で不×(一字不明。不意か?)に作ったのを、下の句のと(ど)こかおなほしになりましたのでした。

 真志保さんにきけばよくわかりますの。あれは私の大切な歌なのですものね。「深々とふけ行く夜半」と云(う)のと、「新聞にアイヌの記事」と云(う)のと、「とろとろとなく虫の音」と云ふのです。

 真志保さんの三人て(で)作ったのでした。……(原文のまま)

(昭和5・8・10)


(掛川源一郎「バチラー八重子の生涯」北海道出版企画センター)より)

 この三つの短歌がなぜ、北斗の本に載ることになったかは、今は置いておきます。

 これらの短歌とバチラー八重子の手紙には、重要な事実が隠されています。

 まず、真志保と八重子は「幌別」でこの短歌を三人で詠んでいる、ということ。

 そして、この短歌の内容から、これらの歌が詠まれたのが「夜」であるらしく、また「虫の声」がする季節であること。

 ということは、秋でしょう。夏かもしれませんが。

 そして、夏から秋で北斗とバチラー八重子がともにあったのは、大正十五年だけです。昭和2年の夏にはもう、余市に帰って『コタン』を出し、フゴッペを調査し、小樽新聞などに盛んに投稿をしている。余市を活動の拠点としていて、バチラーとの接点もほとんどないような気がします。

 3人が一堂に会したのが大正15年で、夏から秋だとすれば、それは北斗とバチラー八重子が平取教会に一緒にあった時期と重なります。もしかしたらそれは夏で、帰道直後のあの幌別かもしれないし、そうでない別の機会に3人が幌別に集まったのかもしれないですが。

 いずれにせよ、大正15年のその頃に出会っていないと、昭和3年、吉田ハナさんへのハガキのように知里真志保と同宿して、昔話、噂話をするというのもしっくりきません。

 帰道後の幌別で、北斗は真志保と出会い、そこで豊年健治君などとも会います。真志保と豊年君は同郷のウタリですから、当然知りあいです。

 北斗と真志保、豊年君、その他真志保の友人たちが、北斗を迎えたのかもしれません。そこで歌を詠み、みんなで寄せ書きをしたのでしょうか。

2005年9月27日 (火)

ジョン・バチラーと北斗

9月27日(火)00時51分55秒

 気になるのはバチラーとの関係ですね。

 かたや、すでに「アイヌ語の権威」「アイヌの父」として名をとどろかせていたバチラー。

 かたや、キリスト教では、ましてや外国人ではウタリは救えない、アイヌの復興はアイヌがやらねばならない、といい、来るべき未来を見据えて走りだそうとしている若者、違星北斗。

 いうまでもなく、バチラーをリスペクトしています。それは1年後の昭和2年8月の『自働道話』の北斗の言葉でもわかります。

 今もやっぱりそうです。けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。

 反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかった。(ママ)ことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。


 やり方はどうあれ、バチラーを尊敬する気持ちは変わっていないのですが、バチラーのやり方はもうすでにどうしようもなく時代錯誤であると。やはり北斗は自分のやり方を貫くことにしたのだと思います。

 では、この二人はどの程度の関係だったのか。

 日記に書かれていることだけで言えば、大正15年7月15日ごろ平取で一度と、8月26日~27(28?)日、札幌で一度。

 たった2度、なんですね。記録に残っている北斗とジョン・バチラーの接点は。

 もちろん一夏をともに過ごした八重子や岡村神父から北斗のことはよく聞いているでしょうが、実際の北斗とバチラーの接触は驚くほど少ないんですね。

 もしかしたら、本当に2度会っただけなのかもしれません。

 7月14日の日記にある短歌、

  五十年伝道されし此のコタン

  見るべきものの無きを悲しむ

 この歌には、読み方によってはバチラーらキリスト者の不甲斐なさを詠っているようにも読めますが、私は悲しみはむしろ、それでも見るべき者がない、ウタリの現実へと向けられているような気がします。

 いよいよ憧れのバチラーと会えるという7月15日の日記のギラギラした北斗の姿と、そこから様々な現実的な問題を目の当たりにした8月の日記の内容を比べると、ものすごい落胆ぶりです。

 札幌のバチラー邸で後藤静香を迎えた北斗は、一旦余市に帰り、9月ごろ再び日高へ、二風谷に赴きます。12月25日、日高のどこかの山奥(二風谷?新冠?)で大正天皇の崩御を聞き、(年表では「平取」となっていますが、違うでしょうね。いくらなんでも汽車が通っていた平取本町では、崩御の報が二日も遅れることはない気がします)。

そこからは今ひとつはっきりしませんが、冬本番を迎える前に新冠など日高の山地を漂ったあと、冬場は海側の三石など日高を転々としたのではないでしょうか。

 金田一の『違星青年』に見られるように、労働しながら、調査していたのかもしれません。(もちろん、この時はまだ売薬はしていません)。

2005年9月23日 (金)

平取≠二風谷

投稿日: 9月23日(金)21時04分0秒
 あらやさんの「北斗・賢治8月16日」に


もしも末武綾子(吉田ハナ談)がいうように、北斗の平取滞在が「二ヶ月にも満たない」滞在であったとするならば、今日「8月16日」の日記が平取最後の日記ということになります。


 そうかもしれません。
 北斗が「平取教会」にいたのは2ヶ月なのかもしれません。

 では、そのあと北斗はどこに行ったのか。
 「二風谷」だと思います。

 『医文学』大正十五年十月号に「書中俳句(二風谷より)」があり、


 川止めになってコタン(村)に永居かな


 という俳句があります。書かれたのは9月から10月ごろでしょうか。
 大正時代の沙流川の記録を調べればわかるかもしれません。

 また、『アイヌの歌人』(湯本喜作)に、北斗が秋に二風谷の二谷国松さんをたずねたとあります。これもこの頃のことだと思います。

 同じ頃、『自働道話』大正15年12月号に

 来月から新冠の方面に参りたいと存ます。労働はとても疲労します
 従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。


 これは、二風谷から見た平取のことではないでしょうか。平取から二風谷はちょうど4里ぐらいだと思います。

 平取から二風谷までは車で15分ですが、歩くと3時間ぐらいかかります。平取までは「沙流鉄道」が通っていましたから、ある程度栄えていたでしょうが、二風谷へは今日のように道路が整っていたわけでもなく、山道を歩かねばならなかったと思います。

 つまり、平取と、二風谷をまったく切り離して考える必要があるんですね。

 平取教会をあとにした北斗は二風谷へ向かい、そこにある程度滞在したことでしょう。そこからさらに日高の奥、新冠へと行ったのかもしれません。

 私のカンなのですが、北斗にとっては、平取本町はもうすでに「コタン」ではないと思ったのかもしれません。

管理人 [URL]  ++.. 2005/10/01(土) 02:27 [7]

 吉田ハナは「北斗は二ヶ月しか平取に居なかった」と云っています。
 しかし、北斗は昭和2年の1月中頃(?)の西川への手紙には「平取の我が本陣」と書いています。これを見ると、あくまで平取幼稚園に戻れるような心持ちだったようです。ケンカ別れしたわけでも、涙の別れをしたわけでもない。
だから、この時点では幼稚園は平取における基地だと考えていて(ある程度、荷物なども置いていて)、そこから二風谷へ、また新冠へ、日高各地へと遠征していたのだと思います。
 ただ、末永氏のインタビューを受けた時、吉田ハナは北斗のことを、あまり憶えていないといいます。
 それは北斗が吉田ハナあてに送ったハガキが、北斗が送った手紙の中で、唯一文面が現存している女性で、なおかつ「邪推」の余地がある文面であったため、少なからぬ数の人間が北斗との関係を聞いたのではないでしょうか。
 そういうこともあり、吉田ハナは北斗のことについては辟易していたのではないか、だから、「二ヶ月しかいなかった」「よく知らない」という、吉田ハナの冷たい北斗評に対しては、いくらか割り引いて考える必要があるのではないか、などとも思います。
 昭和3年のあのハガキの文面では、少なくとも北斗には気後れのようなものはない、と思います。まあ、北斗はそのへんの機微には疎そうな無骨漢でもあるとは思うのですが、それでも険悪さは微塵もない。バチラー父娘に対しての尊敬も失せていない。
 平取教会は、めぐり合わせがそうさせなかっただけで、北斗にとってはいつでも帰ろうと思えば帰れるところだったのではないか、と思います。
  

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 16:26 [23]

2005年9月 2日 (金)

イとエ

  9月 2日(金)11時20分44秒

 今回の旅で、余市の方の訛りとして「イ」音と「エ」音の類似があるんだなあ、というのを再確認しました。

 これまで気になっていた「イ」音と「エ」音の記述の混乱は、やはりこれが原因なのだと改めて思いました。

「イボシ」と「エボシ」

「イサン」と「エサン」

「イカシ」と「エカシ」

などは、おそらくこれによるものだと思います。

 また北斗「滝次郎」の名前がいたるところで「竹次郎」と書かれているのも、このせいでしょうね。

「滝次郎タキジロウ」「竹次郎タケジロウ」。

 北斗自身も訛っていたでしょうし、周りの人間も「タケジロウ」と訛って呼んでいたのでしょう。

 北斗自身も別名のような感じで「竹次郎」と書いていた風でもありますね。

2005年9月 1日 (木)

違星北斗の旅 最終日 旅の終わり

2005年09月01日07:44
 
8月23日 11日目

 いよいよ北海道における最終日です。
 函館から出る大阪行き特急に乗るには、お昼12時22分の特急に乗らなければいけないのですが、それまでは動けますので、昨日行けなかった道立図書館や道立文学館に行くつもりでした。

 ところが。
 寝坊してしまいました。
 昨夜もあらや氏と夜遅くまで違星北斗談義していたのですが……8時過ぎている!

 あーあ。やっちゃった。急いで起きてしたくをし、取りあえず道立図書館へ。あらやさんに送って頂きました。本当に何から何までありがとうございます。

 10時ごろ道立図書館へ。郷土資料室へ駆け込む。
 北斗の死んだ昭和5年の4月と翌5月の小樽新聞と北海タイムスのマイクロフィルムを借り、閲覧しました。
 前回、チェックできなかった違星北斗の小樽新聞の死亡記事と追悼記事をプリントアウト。北海タイムスにも掲載されていると聞いたので探したのですが、こちらはみつかりませんでした。

 11時道立図書館を出て、札幌駅まで、あらやさんに送って頂きました。ありがとうございました。
 札幌から函館まで、特急スーパー北斗。
 函館で大阪行きの特急日本海に乗り換えですが、時間が余ったので、駅で食事。
 今回、ほとんどコンビニのおにぎりとか、安いものしか食べていなかったので、さいごは北海道らしいものを食べよう、と駅ビルの中の食堂でカニとかホタテとかが乗ったラーメンを食べました。カニの足が丼からはみ出すように4本、根本ごと乗っていて1000円。
 おいしかったけど、カニは昼間、それも電車の時間を気にしながら食べるものはありませんね。手が汚れるし、時間はかかるし。
 駅ビルの構内に、青函連絡船の歴史のような展示があって、ちょっと見る。
 そこで、青函連絡船の本を見ていたら、あることに気づいた。
 行きの時、違星北斗は青森で降りて、青函連絡船に乗ったであろう、と思っていて、日記にもそう書いたのですが……青函連絡船って、鉄道をそのまま船の中へ線路で引き込むような仕組みになっていたんですね。カーフェリーのように、汽車ごと運んでしまうんです。
 だから、北斗は青森で降りていない可能性が高いですね。うん。勉強になりました。
 
 16時半。寝台列車へ。
 行きとちがって、空席が多く、ゆったりできました。
  
 今回の旅でお世話になったすべての方に感謝します。応援してくださったかた、協力していただいた方、やさしさをくださった方。いろんな方に時間と労力を割いていただき、その生活をかき回してしまったことを申し訳なく思います。
 
 準備不足、無計画な旅でしたが、それだけに自由な旅の空の下で、旅の醍醐味を味わうことができました。
 それまでほとんど一人でやっていた違星北斗の研究が、ここにきていろんな人を巻き込むことになり、もう引っ込みがつかない戻れないところまで来てしまったのだという覚悟をさせられた旅でもありました。
 いろんな人の期待や好意に応えるために、これから違星北斗の研究をどこかに発表してゆき、世に問うていかねばならないんだ、自分にはその責任があるんだ、と思いました。
 
 寝台特急日本海で、一路大阪へ。
 翌朝9時まで、ほとんど眠って過ごしました。
 10時すぎ、大阪着。その足で職場である研究室へ向かいました。

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