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2005年9月23日 (金)

平取≠二風谷

投稿日: 9月23日(金)21時04分0秒
 あらやさんの「北斗・賢治8月16日」に


もしも末武綾子(吉田ハナ談)がいうように、北斗の平取滞在が「二ヶ月にも満たない」滞在であったとするならば、今日「8月16日」の日記が平取最後の日記ということになります。


 そうかもしれません。
 北斗が「平取教会」にいたのは2ヶ月なのかもしれません。

 では、そのあと北斗はどこに行ったのか。
 「二風谷」だと思います。

 『医文学』大正十五年十月号に「書中俳句(二風谷より)」があり、


 川止めになってコタン(村)に永居かな


 という俳句があります。書かれたのは9月から10月ごろでしょうか。
 大正時代の沙流川の記録を調べればわかるかもしれません。

 また、『アイヌの歌人』(湯本喜作)に、北斗が秋に二風谷の二谷国松さんをたずねたとあります。これもこの頃のことだと思います。

 同じ頃、『自働道話』大正15年12月号に

 来月から新冠の方面に参りたいと存ます。労働はとても疲労します
 従って皆様に御無沙汰勝になりまして、申わけもありません。どうも郵便局が四里も遠くなので、切手を求むるのが骨です。


 これは、二風谷から見た平取のことではないでしょうか。平取から二風谷はちょうど4里ぐらいだと思います。

 平取から二風谷までは車で15分ですが、歩くと3時間ぐらいかかります。平取までは「沙流鉄道」が通っていましたから、ある程度栄えていたでしょうが、二風谷へは今日のように道路が整っていたわけでもなく、山道を歩かねばならなかったと思います。

 つまり、平取と、二風谷をまったく切り離して考える必要があるんですね。

 平取教会をあとにした北斗は二風谷へ向かい、そこにある程度滞在したことでしょう。そこからさらに日高の奥、新冠へと行ったのかもしれません。

 私のカンなのですが、北斗にとっては、平取本町はもうすでに「コタン」ではないと思ったのかもしれません。

管理人 [URL]  ++.. 2005/10/01(土) 02:27 [7]

 吉田ハナは「北斗は二ヶ月しか平取に居なかった」と云っています。
 しかし、北斗は昭和2年の1月中頃(?)の西川への手紙には「平取の我が本陣」と書いています。これを見ると、あくまで平取幼稚園に戻れるような心持ちだったようです。ケンカ別れしたわけでも、涙の別れをしたわけでもない。
だから、この時点では幼稚園は平取における基地だと考えていて(ある程度、荷物なども置いていて)、そこから二風谷へ、また新冠へ、日高各地へと遠征していたのだと思います。
 ただ、末永氏のインタビューを受けた時、吉田ハナは北斗のことを、あまり憶えていないといいます。
 それは北斗が吉田ハナあてに送ったハガキが、北斗が送った手紙の中で、唯一文面が現存している女性で、なおかつ「邪推」の余地がある文面であったため、少なからぬ数の人間が北斗との関係を聞いたのではないでしょうか。
 そういうこともあり、吉田ハナは北斗のことについては辟易していたのではないか、だから、「二ヶ月しかいなかった」「よく知らない」という、吉田ハナの冷たい北斗評に対しては、いくらか割り引いて考える必要があるのではないか、などとも思います。
 昭和3年のあのハガキの文面では、少なくとも北斗には気後れのようなものはない、と思います。まあ、北斗はそのへんの機微には疎そうな無骨漢でもあるとは思うのですが、それでも険悪さは微塵もない。バチラー父娘に対しての尊敬も失せていない。
 平取教会は、めぐり合わせがそうさせなかっただけで、北斗にとってはいつでも帰ろうと思えば帰れるところだったのではないか、と思います。
  

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 16:26 [23]

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