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2005年9月29日 (木)

真志保と北斗

9月29日(木)01時51分54秒

北斗は東京から北海道に戻ってきて、いの一番に幌別(登別)に向かいました。

そこで、知里幸恵の父と母に会っています。

 私は、そこで北斗がじつは、知里真志保と会っている、と考えています。

 これは、知里むつみさんに聞いたのですが、当時、室蘭中学に行っていた真志保は、室蘭に下宿していたそうですが、帰ってくるなら幌別の家だろう、ということでした。(ちなみに真志保はマシホではなくマシオという発音が正しいそうです)。

 もしかしたら、北斗の幌別の目的はそれであったのかも知れない、とも思います。バチラー八重子とは東京時代から文通していたそうですが、それを考えると、金田一京助にあれだけ接触していた北斗が、知里真志保の事を聞いていないはずはないですし、真志保がバチラー八重子と親しかったことを考え合わせると、やはり東京時代から、真志保とも文通していたとしても不思議ではない。

 そして、真志保は、北斗とこの大正15年の夏の時点で出会っていると思います。

 なぜ、それがわかるかというと、この3つの短歌がヒントです。


 新聞でアイヌの記事を読む毎に

 切に苦しき我が思かな

 深々と更け行く夜半は我はしも

 ウタリー思ひてないてありけり

 ほろ/\と鳴く虫の音はウタリーを

 思ひて泣ける我にしあらぬか

 (いずれも『北斗帖』より)

 この3つの短歌は曰く付きの短歌で、じつはバチラー八重子が、金田一京助にこんなことを書き送っているのです。


 ……先生、違星さんの「コタン」の中に私の作った歌が三つのっています。それはか(こ)うなのです。幌別で違星さんと一しょに作ったのです。私がいつものちょうし(調子)で不×(一字不明。不意か?)に作ったのを、下の句のと(ど)こかおなほしになりましたのでした。

 真志保さんにきけばよくわかりますの。あれは私の大切な歌なのですものね。「深々とふけ行く夜半」と云(う)のと、「新聞にアイヌの記事」と云(う)のと、「とろとろとなく虫の音」と云ふのです。

 真志保さんの三人て(で)作ったのでした。……(原文のまま)

(昭和5・8・10)


(掛川源一郎「バチラー八重子の生涯」北海道出版企画センター)より)

 この三つの短歌がなぜ、北斗の本に載ることになったかは、今は置いておきます。

 これらの短歌とバチラー八重子の手紙には、重要な事実が隠されています。

 まず、真志保と八重子は「幌別」でこの短歌を三人で詠んでいる、ということ。

 そして、この短歌の内容から、これらの歌が詠まれたのが「夜」であるらしく、また「虫の声」がする季節であること。

 ということは、秋でしょう。夏かもしれませんが。

 そして、夏から秋で北斗とバチラー八重子がともにあったのは、大正十五年だけです。昭和2年の夏にはもう、余市に帰って『コタン』を出し、フゴッペを調査し、小樽新聞などに盛んに投稿をしている。余市を活動の拠点としていて、バチラーとの接点もほとんどないような気がします。

 3人が一堂に会したのが大正15年で、夏から秋だとすれば、それは北斗とバチラー八重子が平取教会に一緒にあった時期と重なります。もしかしたらそれは夏で、帰道直後のあの幌別かもしれないし、そうでない別の機会に3人が幌別に集まったのかもしれないですが。

 いずれにせよ、大正15年のその頃に出会っていないと、昭和3年、吉田ハナさんへのハガキのように知里真志保と同宿して、昔話、噂話をするというのもしっくりきません。

 帰道後の幌別で、北斗は真志保と出会い、そこで豊年健治君などとも会います。真志保と豊年君は同郷のウタリですから、当然知りあいです。

 北斗と真志保、豊年君、その他真志保の友人たちが、北斗を迎えたのかもしれません。そこで歌を詠み、みんなで寄せ書きをしたのでしょうか。

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