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2005年9月27日 (火)

ジョン・バチラーと北斗

9月27日(火)00時51分55秒

 気になるのはバチラーとの関係ですね。

 かたや、すでに「アイヌ語の権威」「アイヌの父」として名をとどろかせていたバチラー。

 かたや、キリスト教では、ましてや外国人ではウタリは救えない、アイヌの復興はアイヌがやらねばならない、といい、来るべき未来を見据えて走りだそうとしている若者、違星北斗。

 いうまでもなく、バチラーをリスペクトしています。それは1年後の昭和2年8月の『自働道話』の北斗の言葉でもわかります。

 今もやっぱりそうです。けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。

 反響があらうがなからうが決して実行に手かげんはしなかった。黙々として進んでゆく博士には社会のおもわくも反響も、宛にしてやってゐるのではなかった。(ママ)ことを思ふと自分と云ふ意気地無しは穴があったら入りたい様な気持になります。


 やり方はどうあれ、バチラーを尊敬する気持ちは変わっていないのですが、バチラーのやり方はもうすでにどうしようもなく時代錯誤であると。やはり北斗は自分のやり方を貫くことにしたのだと思います。

 では、この二人はどの程度の関係だったのか。

 日記に書かれていることだけで言えば、大正15年7月15日ごろ平取で一度と、8月26日~27(28?)日、札幌で一度。

 たった2度、なんですね。記録に残っている北斗とジョン・バチラーの接点は。

 もちろん一夏をともに過ごした八重子や岡村神父から北斗のことはよく聞いているでしょうが、実際の北斗とバチラーの接触は驚くほど少ないんですね。

 もしかしたら、本当に2度会っただけなのかもしれません。

 7月14日の日記にある短歌、

  五十年伝道されし此のコタン

  見るべきものの無きを悲しむ

 この歌には、読み方によってはバチラーらキリスト者の不甲斐なさを詠っているようにも読めますが、私は悲しみはむしろ、それでも見るべき者がない、ウタリの現実へと向けられているような気がします。

 いよいよ憧れのバチラーと会えるという7月15日の日記のギラギラした北斗の姿と、そこから様々な現実的な問題を目の当たりにした8月の日記の内容を比べると、ものすごい落胆ぶりです。

 札幌のバチラー邸で後藤静香を迎えた北斗は、一旦余市に帰り、9月ごろ再び日高へ、二風谷に赴きます。12月25日、日高のどこかの山奥(二風谷?新冠?)で大正天皇の崩御を聞き、(年表では「平取」となっていますが、違うでしょうね。いくらなんでも汽車が通っていた平取本町では、崩御の報が二日も遅れることはない気がします)。

そこからは今ひとつはっきりしませんが、冬本番を迎える前に新冠など日高の山地を漂ったあと、冬場は海側の三石など日高を転々としたのではないでしょうか。

 金田一の『違星青年』に見られるように、労働しながら、調査していたのかもしれません。(もちろん、この時はまだ売薬はしていません)。

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