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2005年10月

2005年10月30日 (日)

新短歌時代を読む

 
 今、『新短歌時代』を読んでいます。
 違星北斗に直接関係ない記事も目を通していますが、非常に面白いです。
 並木凡平、稲畑笑治、瀬鬼惺、福田義正、山野鴉人など、全国的にはほぼ無名の歌人たちですが、文字通り「新しい短歌の時代」を作ろうとしている、ものすごい熱気が誌面に渦巻いています。
 そして、いい歌だなあ、と思わせられる歌も沢山あります。

 違星北斗がいろいろな歌人に影響を与えていたことが、この雑誌のあちこちに見いだせる彼の名前によってよくわかります。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:23 [64]


 だいぶ、新短歌時代の各歌人のキャラクターがわかってきました。
 また、並木凡平全歌集も、読み返しています。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 23:21 [69] 

新短歌時代より(2)

第2巻2号(昭和3年2月)

五十人集

(前略)

○              高根一路
遠いのに薬売りながら尋ねきたけなげなアイヌにまた逢へなんだ

薬売るけなげなアイヌのその歌をこゝろしみ/゛\口にしてみる

(後略)

--------------------------------------------------

昭和三年口語歌壇予想暦

(前略)

十月三十日

 違星北斗、「正義の前に立った確信」といふ気持で、フゴツペの鉄道沿線を掘ると、中から「誇大坊主」(古代文字)のミイラ現れ「淋しい気持」に変る。

(後略)

※これは、まあ各同人の「未来予想」で、冗談記事のようなものですね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:30 [61]

「歌の作り方に就て(二)」 福田義正

(前略)一体に燕麦とか憂鬱とかのやうな音読の文字は強く響くから、次のやうに前後に強い言葉を据えて均衡を保つことが大切であると思ふ。
(中略)
 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌよアイヌ今何處にゐる
(中略)
 これらの歌はよくリズムが整調されてゐて一読ピンとくるではないか。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 19:07 [63] 

第2巻6号(昭和3年6月)

さらば小樽よ小樽の人々よ    福田義正
(前略)
 思へば―。百余日にわたる小樽の冬ごもりは私にも楽しかつた。景山医学士夫妻の厚意をうけて望月病院内に起居したことは幸であつた。昼は毎日大きな風呂敷包みを背負つて雑誌を売りに歩いた。私の売る雑誌は至る所で歓迎せられた。並木凡平さんをはじめ、勝見茂、後藤勇、石田さだを、渡部剛、村木雄一、園田朱一、岡野陽子、種田嘉代子等の諸君は私の商売のためにも一方ならず力を尽くしてくれた。然るに私は何等報ることなく立去らうとしてゐる。また裏切り者の名を負うのか。苦しい。諸君よ、許してくれ。
 夕方になると病院に帰つて、景山先生の乗る橇の後押しをして走つた。大男の橇を押す姿は可笑しかつたか、通りすがりの女学生などよくゲラゲラ笑つたりした。それでも患者の家に行けば労を犒つてくれるのでうれしかつた。汗を拭きながら肩で息をしてゐる者にとつて、一杯の渋茶も涙がこぼれるほどうれしかつた。往診から帰つて火の気のない冷たい食堂で飯を食ふとあとは自由に遊ぶ時間であつた。ある晩は景山夫妻の部屋に行つて、ある晩は薬剤師青木朗々の部屋に行つて、たいていは短歌の研究をしあつた。愉快な談笑の声が更けてゆく夜の空気をゆすつた。
 一月十七日の晩だつたと思ふ。小樽に於ける最初の口語歌雑誌「橄攬樹」の編輯者渡邊要君の来訪を幸に、その歓迎会をかねて病院内で短歌会を開いた。凡平さんがヤケドのため出席されなかつたのは残念だつたが、会する者十七八名なかなかの盛会でうれしかつた。その前後であつたか、治療助手の原草之介も歌を作る。川村看護婦も作る。入院患者にまで共鳴者があつた。違星北斗君が来て寝食を共にしたのもその頃であつた。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:24 [65] 

※上の文章が書かれたのは五月四日。
 ここにも、新発見の北斗の足取りがありますね。

 昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 20:32 [66] 

第2号7号(昭和3年7月)

漫歌十人一首 明圓政二
――怒りつぽい人読むべからず――

(前略)
   違星北斗さんへ
おゝアイヌ強いアイヌよどこにゐる出てこい出てこいもう一度たて
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:19 [67] 

第六回 新短歌座談会 
 
 大友秋牧 稲畑笑治 後藤勇 石田さだを 近藤輝越 美津井勇 野村保幸 並木凡平

(前略)

(凡)どうです彗星的に現れた彼の違星北斗君に就いてなにか。
(輝)違星さんの作品に就いて近ごろ非常に幻滅を感じてきました。
(笑)同感々々。
(美)未見ですが歌を通して見た違星君は大変に大和民族的なねつ情のある歌人だと思つてゐます、だが最近の作品のどれもが極端に誇張し過ぎてゐてさつぱり駄目ですね一時は中村孝助氏とともに注目された人ですのに。
(さだ)そう、僕なんかも一時作品には感心させられましたが此の頃の作品はどうも好きになれません。
(保)なぜ違星さんがはじめて歌壇に現出したころのような自然らしい歌が近ごろ生れないのかと不思議に思つております。
(凡)彼の処女作「握り飯腰にぶらさげ出る朝のコタンの空になく鳶の声」当時の詩的情感が今日枯死した感のあるのは甚だ物足りない。民族的偏見と、議論の一説に近い叫びを余りに強く悪どく出しすぎてるの感がある然し理論のしっかりした点は将来期待していゝと思ふ。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 22:55 [68] 

>昭和3年の1月ごろ、小樽の景山病院に起居していた福田義正を訪ね、寝食を共にした、ということですが、この頃はちょうど売薬行商の時期に重なりますね。何日かは滞在したのでしょうね。

 景山病院じゃなくて、望月病院ですね。

管理人  ++.. 2005/10/31(月) 23:52 [70]

2005年10月27日 (木)

新短歌時代より

創刊号 (昭和二年十二月)

社中閑話
 (前略)
 稲畑笑治
 
 雑誌発行に関する可成り苦痛な「生れ出づる悩み」を体験した、ぼくも今度の新短歌時代否凡平さんの膝下には一も二もなく飛込んだ、口語歌の宣伝部員として大いに使つて頂きたい性来たい慢なぼくも今度こそは……懸命に新短歌時代の隆盛を確信し真面目な歌作生活に浸りたいと思つてる。
 純正詩社の同人として古くからぼくの憧憬して止まぬ福田義正氏が小樽に住まはれ日常親しく接してるのもうれしいことである。
 十一月三日の余市短歌会には違星北斗君と快談し、名産の林檎に舌鼓を打ちながら近頃にない雰囲気にひたつた。
 まあ、これからお互に口語歌研究のために精進してゆきたいものだ。
 

管理人  ++.. 2005/10/27(木) 23:17 [47]

大男涙を落す記(北海道歌人と会見の記)

 福田義正

(前略)
 余市にアイヌの違星北斗君がゐる。彼の歌の力強い其内生命に驚嘆したのであつたが、親しく会つて見て、果して彼は普通駈出しの歌人でないことを知つた。私は彼を敬慕する。彼は必ずや何か偉大な事を成し遂げる人物に相違ないと私は思ふ彼の将来を見たい
(後略)

 ※(昭和二年十一月四日稿了)の記載あり。

管理人  ++.. 2005/10/27(木) 23:36 [48] 

「新短歌座談会」の全文を読んだんですが、瀬鬼惺さんがやたらと語気が荒いのは、前半でやたらと叩かれたからですかね。
全文は95年版『コタン』掲載分の倍の長さがあり、前半の最後で瀬鬼氏の作品に対しての稲畑笑治の批判があります。その直後から、ほぼ最後まで並木・稲畑両氏の北斗への讃美に費やされています。
 稲畑笑治は「瀬鬼君の歌は、目下の歌境から出てゐるものは、僕は、どうも余り感心しない」「感覚的で」と言っています。

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 00:02 [49]

編輯後記

(前略)
△歌は厳選したつもりだ。この新生の雑誌に新短歌協会員の福田義正君を同人に、アイヌの口語歌人余市の違星北斗君を準会員にしたことや、各地方雑誌の代表者が加盟したのは特に感謝したい。本誌は新人諸君の大グラウンドとして自由な活躍を希望する
(後略)(並木)

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 00:08 [50]

第2巻第1号(昭和3年1月)

 積丹半島歌壇の現状

  高橋白楊

 (前略)
 最後に余市に移ると、ここまた口語歌萬歳の旺盛ぶりである。そして最近ます/\盛んになつて来たのは争はれぬ事実で、次々と輩出される新人のみを見ても充分認め得られるであらふ。この余市にとつて大きな存在は何んと言つても大柿よしえ君である事実、大柿君の出現以来余市に於ける口語歌は急速度に普及して来たといつてもいゝ位である。
 (中略)又極く最近、惑星的に出現した違星北斗君も、その将来を期待するに足るべき人と思ふ。殊に、民族的自覚の上から発せられた痛烈な叫びは、必ずや吾々に何物かを示して呉れるであらう。
(後略)

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 09:12 [53]

2号には一條迷洋という人の「東北海道口語歌壇の現状」という文章があり、そこに東北海道の雑誌として「白楊樹」のことがあがっています。

この白楊樹は北斗の遺稿編纂時に参照された雑誌の一つですね。

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 09:17 [54]

白楊樹の編集者は一條迷洋、同人としては田村信吉、吉岡謙吉、黒汐晃一郎などがいるようです。

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 09:19 [55]

本道歌人百人一首(二) 読人しらず

(前略)

「俺はアイヌだ」正しい道を踏めばいゝ歌壇に気を吐く違星北斗

(後略)

管理人  ++.. 2005/10/29(土) 09:37 [57] 

「歌の作り方に就て」(福田義正)の「3 異彩を発揮せよ」に、北斗の

「しかたなくあきらめるといふ心、あはれアイヌを亡した心」が「ある程度の異彩を発揮している」歌として引用されている

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:28 [60] 

> 本道歌人百人一首(二) 読人しらず
> 「俺はアイヌだ」正しい道を踏めばいゝ歌壇に気を吐く違星北斗

これは、並木凡平か誰かの歌だと思います。北斗の短歌ではありませんので。念のため。

管理人  ++.. 2005/10/30(日) 00:32 [62]

新短歌時代

同人誌「コタン」は手に入らなかったですが、かわりに
『新短歌時代』を入手。
創刊号(昭和2年12月)
2巻1号(昭和3年1月)
2巻2号(昭和3年2月)
2巻6号(昭和3年6月)
2巻7号(昭和3年7月)

 けっこう大奮発して入手しました。
 で、新発見がありました。

 また、報告します。

管理人  ++.. 2005/10/27(木) 00:44 [45]

この5冊が、実は、草風館版『コタン』に掲載されている全てなんですね。

創刊号と2巻1号の表紙に「ほくと□(一字不明)」とペンで書かれている文字があります。

北斗の短歌や文章だけでなく、けっこう他の同人たちが北斗のことについて語っている言葉があり、中には「山野鴉人」の言葉もあります。
 日記に出てくる山野鴉人は、新短歌時代の関係だったんですね。
 北斗が闘病中に、他の同人たちが、最近の北斗はパワーダウンした、みたいなことを言っていたりして、そうか、北斗が病気だとは知らなかったんだな、と思いました。

管理人  ++.. 2005/10/27(木) 00:55 [46]

> この5冊が、実は、草風館版『コタン』に掲載されている全てなんですね。

 すみません、嘘でした。
 この5冊の他に予告号がありますね。

管理人  ++.. 2005/10/28(金) 23:44 [56]

2005年10月23日 (日)

坊ちゃんの時代

投稿日:10月23日(土)17時41分25秒

 あらやさんのBBSにも書いたことですが、関川夏央・作、谷口ジロー・画の

「坊ちゃんの時代」にはいろいろ教えてもらいました。

 もちろん、漫画なので基本的にはフィクションということになるのでしょうが、それまで曖昧だった金田一京助のイメージが私の中で具体化したのは3巻、若き日の金田一と啄木とのエピソードを読んでからです。

 あの中の借金王、どうしようもないダメ人間として描かれる啄木もインパクト大でしたが、どこまでもお人好しの金田一京助の人柄も、印象深いものでした。

 金田一京助は女性のように丁寧で上品なしゃべり方をする人だったそうです。北斗や知里幸恵、その他の人々との交流の記録を見て思うんですが、金田一京助という人はやさしすぎるほどのやさしい人だったのでしょうね。

 金田一のアイヌ研究については、弟子の知里真志保に批判されたりしていますが、やはり金田一の残した業績は偉大だと思います。金田一の研究あっての真志保だと思いますし。
 
 あと、このシリーズには、平民社時代の西川光次郎も出てきます。1ページほどですが。

2005年10月21日 (金)

吉田菊太郎の

著作「アイヌ文化史」を入手。
吉田菊太郎といえば北斗と一緒に「アイヌ一貫同志会」を結成して売薬行商をした人物。

さぞ、北斗のことをたくさん書き残してくれているかとドキドキしながら見ましたが、北斗のことは一言もでてきません。
残念。残念。

管理人  ++.. 2005/10/21(金) 00:28 [41]

2005年10月20日 (木)

コタン創刊号の表紙

Doujinshikotan_2

 

違星北斗が中里凸天と昭和2年8月に発行した同人誌『コタン創刊号』。

 ある古書店の目録で売りに出ていた(けれども、すでに売却済み)という情報を頂き、とりあえず目録を入手しました。
  
 
 あれ、表紙が違う!

 今まで表紙だと思っていたのは、目次ページだったんでしょうか。

管理人  ++.. 2005/10/20(木) 22:10 [36]

この「コタン」は、こより綴り、表紙共34頁。

管理人  ++.. 2005/10/20(木) 22:39 [37] 

Kotanbbs_14135313644

それから、ハガキですが、目録には宛名面しか出ていません。文面は12行だそうです。内容はわかりません。
切手のデザインからみると、かの有名な? 「一銭五厘」の時代の葉書ですね。



消印はよく見えません。上段の局名は不明。確証はありませんが、中段の日付は「2・11・29」と読めるような気がします。下段は受付時刻だと思いますが、「9-12」、午前中に出したものでしょうか。

ハガキには「十月二十八日」の書き文字。「十月」は「十一月」かもしれません。そういえば、うっすら「一」があるような気もします。
北斗の字でしょうか。それとも橋本氏の文字でしょうか。

目録には昭和2年11月付とあります。

10月~11月であれば、
ちょうど、フゴッペの研究をしていた頃ですね。

このハガキとコタンは、誰が買われたのかわかりませんが、いつか、このハガキの内容がわかる日がくるような気がします。

管理人  ++.. 2005/10/20(木) 23:43 [38] 

2005年10月17日 (月)

金田一京助先生の

お孫さんから、「あいぬの話」の掲載写真と、金田一先生の原稿(「違星青年」)の掲載許可をいただきました。

ありがとうございます。

管理人  ++.. 2005/10/17(月) 21:09 [30]

早速、作りかけていた写真の研究ページをオープンしようと思います。

また、「違星青年」が全文掲載可能になったのは嬉しいです。

本当にありがとうございます!

管理人  ++.. 2005/10/17(月) 21:11 [31] 

とりあえず、写真ページを作成。
トップページと、「コタン文庫」からリンクしています。

管理人  ++.. 2005/10/18(火) 11:15 [33]

「違星青年」は複数のバージョンがあるので、それぞれを掲載することにしようと思います。
管理人  ++.. 2005/10/18(火) 11:27 [34]

2005年10月16日 (日)

「コタン」創刊号とハガキ2枚


 ある方から教えて頂いたのですが、札幌の古書店に「コタン」創刊号(ガリ版刷り同人誌)と、北斗の自筆ハガキが売りに出ていたそうです。
 その方が連絡したところ、もうすでに売却済みだったそうです。12万円。
 残念です。
 本当に残念です。もし、買えるものであれば借金してでも買いたかった!
 どなたが買われたのかが、気になります。研究者とか、研究機関だったらいいのですが……。

 「コタン創刊号」は、希望社版『コタン』に付録として掲載された時点で、活字に直されているのですが、内容が変えられている可能性もあるのです。
 これは、夏の旅で同宿の時にporonupさんが発見されたことですが、「フゴッペ」の「エカシシロシ」というのは、小樽新聞では「イカシシロシ」となっているのです。こういう「改竄」が、「コタン創刊号」にもあるはずです。
 それに、おそらくガリ版を切ったのは北斗自身であるはずです。
 写真でもコピーでもいいから、ぜひみてみたいものです。

管理人  ++.. 2005/10/16(日) 09:06 [26]

それから、ハガキ。

小樽の郷土史家「橋本尭尚」氏宛だそうです。

その内容が知りたい。

ちょっと検索しただけですが、橋本尭尚氏には「北海道史年譜」「小樽の人と名勝」という著作があるようです。

管理人  ++.. 2005/10/16(日) 09:18 [27] 

2005年10月 7日 (金)

日本残酷物語

 平凡社『日本残酷物語4 保障なき社会』を読んでいたら、どこかで見た文章が。


 村上久吉氏は、あるアイヌ少年の苦悩の印象をつぎのように伝えている。「じぶんが通るのを見ると子どもたちが、アイヌ、アイヌという。聞こえなければ聞こえないだけに、何かささやいているように思われ、口は閉じていても目が云っている。行きも、帰りも、昨日も、今日も……毎日のことについ陰鬱な少年になり、病身にさえなって、はては血をはき、世をのろい、人をのろい、手あたり次第に物をたたきわって、あばれ死にでもしたくなる。生意気ざかりの年頃には、『アイヌがどうした』と立ちもどってなぐりとばす。不意にうたれた子どもたちは意外だという顔をして、やがて泣いて逃げてゆく。そのまた様子があとまで目について、自分が打たれたよりも苦痛であった」というこの文章の最後の箇所はとくに意味深い。虐げられたものの傷が予想以外に深いことにアイヌみずから気がついたとき、彼らの生涯抜きがたい真の苦しみがはじまることを告げているからである。

(無署名記事だが、筆者は高倉(新一郎)と文中にある)。


これは、金田一京助の「あいぬの話」の北斗の項と内容がほとんど同じですね。村上久吉には『あいぬ実話集』に「熱血の違星瀧次郎君」、『あいぬ人物誌』に「熱血青年違星滝次郎」がありますが、どちらも金田一京助の文章の引き写しです。
 まあ、早い話、金田一の文章をパクっているのですが、それが名著と名高い『日本残酷物語』に載っているというのはいやはやどうしたことか。
 
 
 

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:12 [18]

云うまでもなく、このアイヌ少年というのは北斗のことです。念のため。
管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:13 [19] 

さて、この村上久吉『あいぬ実話集』は、そういうことでまことに信用ならん部分があるのですが、そういう本に限ってオヤッという記述がある。


 余市アイヌの傑物中里徳太郎君。この中里君の感化をうけて、力強く民族に目ざめ、勤労のかたはら、自ら雑誌を作つて部落の青少年に呼びかけ、毎号巻頭にはその標語として「よき日本人に」といふ題字をかゝげ、まつすぐに同化の一路をすゝんだ熱血男児違星瀧次郎君(金田一先生曰く、兄は松太郎でこれは弟であるから竹次郎であつた。所が届出の時に竹を瀧に誤つたのであると)がある。


うーん。初耳ですね。
 長男は梅太郎のはずなんですが、もしかしたらやはり松太郎という兄がいたのかも? (『北の光』に「違星松太郎」という名前が出てくるのも気になるけど)。
 しかし、わざわざ金田一京助の名前を出しているところを見ると無視できないですね。
 本当なら、以前書いた余市方言の「イ段音」と「エ段音」の混同が、こんなところにも影響を与えたことになりますね。

管理人  ++.. 2005/10/07(金) 00:25 [20] 

やっぱり……気になるなあ。

村上久吉(1898-1981)は旭川中学教諭、郷土史家。昭和30年、旭川文化賞受賞。
 著作には『旭川市史試詠百題』『旭川市史小話』『あいぬ実話集』『あいぬ人物伝』『字原を探る』『盲唖人物伝』『郷土を拓く人々』などがあるようですね。

管理人  ++.. 2005/10/08(土) 00:03 [22] 

私はこの「竹次郎」が戸籍届け出の際、エ段音がイ段音に訛る訛りが原因で「滝次郎」になってしまったというのを信じることにしました。

やっぱり、金田一先生の名前を出されてはしょうがない。『あいぬ実話集』執筆当時は当然金田一京助は生きていたわけで、旭川中学の村上先生ともあろう人がそんな嘘をつくとも思えない。
それに、東京留学した祖父万次郎はともかく、父甚作は読み書きに不自由した可能性が高い。

(なら、なぜ学のある祖父の万次郎がヘルプしない? というところですが、万次郎と甚作は実の親子ではなく、甚作は中里からの養子なので微妙なところではないのか、と思うんです。実際、同じ家に住んでいたのかも疑う必要があると思います。近所には住んでいたでしょうが)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:12 [24] 

つまり、こういうことかと。
「甚作さんヨォ、赤ちゃんの名前はどうするんだい?」
「おう、次郎(タジロウ)にしてくれんか」
「そうか。次郎(タジロウ)かね。そりゃ良い名前だ」
「おう、良い名前だともよ」
「で、甚作さんよ、子どもの生まれた日付はどうするよ?」
「わすれちまったでよ、めでてぇから1月1日にしてくれねぇかな」
「1月1日ね。そりゃめでたいね」

……というような感じだったのではないかと。
(あくまで想像)。

管理人  ++.. 2005/10/09(日) 23:22 [25] 

2005年10月 1日 (土)

希望園

投稿日: 9月24日(土)04時24分57秒

三、二風谷に希望園を作る 林檎三百本


 北斗は二風谷にリンゴを植えようとしたのです。
 平取(いわゆる平取本町)ではなく。
 自働道話10月号の

来年から平取村にリンゴの苗木を少し植附けます

 の「平取村」は「村」とついていることから、役場のある「平取」ではなく、「平取村」全体を指した言葉であり、より厳密に言えば「平取村二風谷」であると思います。

 あらやさんが言われるように、バチラー八重子や吉田ハナがリンゴ園を手伝ったとかいう話はありません。なぜなら、平取教会を守らねばならない八重子やハナは、平取から動けないからです。
 もちろん、北斗が二風谷でリンゴ園をやろうというのも頓挫するのですけれど。
 『希望園』というネーミングから、北斗はバチラー幼稚園と同様に希望社のバックアップを期待していたのかもしれません。ですが、後藤静香はこの後、バチラーへの資金援助を打ち切ります。
 バチラーと後藤静香の間に立つ北斗には、立つ瀬ないことだったでしょう。
 微妙な関係。バチラー幼稚園にいられなくなった理由はそういうところにもあるかもしれません。

管理人   ++.. 2005/10/01(土) 02:28 [8]


 このリンゴ園のことについては、「平取入村時代の違星君の思い出」に記述がありましたね。八重子が土地を買い、実現しそうだったのだけど、買った機械が使い物にならなかった、ということでした。
またフォローしときます。

管理人  ++.. 2006/08/22(火) 00:55 [261]

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