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2006年1月

2006年1月29日 (日)

国柱会三保夏期講習会

 

 『国柱会100年史』によれば、北斗が参加した「三保の講習会」は、8月と12月に行われています。
 北斗が参加できた講習会は大正14年の8月か12月のどちらかになります。
 
 このどちらに参加したかは、今のところわかりません。
 夏は「第三十一回 大正十四年八月三日より十日間」で、田中智学の講義は「妙行正軌」。
 冬は「第三十二回 大正十四年十二月二十七日から十日間」。田中智学の講義は「法国冥合と本門本尊」。

 内容は

 正法正義を確立し鼓吹する本会は、いきおい説法講義の機会が必要であり、同志もつとめて聞法するよう訓練づけられた。その会員の行解鍛錬の場が、本会独自の講習会で、朝から晩まで、俗世を離れた法の道場に身をおき、多くの信友と起居を共にし、ご本尊を中心に合掌に起き合掌に寝る、つまり環境から形を通してまず体に法を読み魂に染みこませる、そういう生きた修行の場で、会員はいつとはなしに薫染されて、安心が決定していったのである。
 戦前は、男性は必ず羽織と袴を着用、居眠りをしようものなら、遠慮会釈なくチョークが飛んだ。「合掌以敬心欲聞具足道」の実践である。しかし茶談会や納涼談話、スポーツや遠足など、童心に帰ってみな愉しく語りかつ遊びもした。(中略)この伝統の講習会に参加したものは、みな魂の底から蘇生した心地に住し、いずれも生涯の思い出として信行の誓いを固めたのである。



管理人  ++.. 2006/01/29(日) 10:14 [109]

本化仏教講習会の開講

 霊峰富士に直面する三保の貝島に、さながら竜宮城のごとき最勝閣が建ったのは、明治四十三年七月である。
 最勝閣の「仏子の間」には、聖伝画二十点・宗史画十余点が掲げられ、細心の工夫がはらわれた諸設備は、本門戒壇の霊地たる富士を朝に夕に望みうる環境とあいまって、最高の教育道場であった。(中略)
 講習会の内容について、先生が「学問以上の大学問」と言われたのは、「国民の魂を造り出す学問、国家に魂を入れる学問」を教えたからである。講義は先生を主として、門下同人、宗門の碩学および日蓮主義に鑽仰の志ある緒名家によってなされた。講義のほかに討論会、幻燈講話、少年講話、婦人講話、演説会、運動競技会、修学旅行、茶談会、宗曲・雅楽の演奏など多彩な内容があり、通学をあわせて日々三百人をこえる聴講生に与えた感化は、じつに大きかった。

管理人  ++.. 2006/01/29(日) 10:28 [110] 

さて、問題は北斗は夏か、冬かどちらの講習会に出たかですが……

 日程的には東京府市場協会の「サラリーマン」だった北斗には、8月3日から10日間の夏の講習会よりも、年末年始の冬の方が参加しやすいような気がします。

 もちろん、北斗が10日間全部出たというわけではなく、数日間のみの参加しているという可能性もありますが。

 先日の筑波登山も含めて、空白だった東京時代が、すこしずつ埋まってきました。

管理人  ++.. 2006/01/29(日) 11:42 [111] 

ということは……。

 北斗も羽織袴で講習を受けて、無心に「南無妙法蓮華経」を唱えたんでしょうね。
 おそらくは、10日間も!

 これは「講習会」というよりも、「セミナー」あるいは「合宿」、もっといえば「修行」といってもいいでしょう。
 
 これは想像以上に熱心な信者ではないでしょうか。
 
 日記のバチラー八重子の平取教会についての記述「宗旨の違う私も」というのも、これならわかる気がします。

 

管理人  ++.. 2006/01/30(月) 17:19 [112] 

記憶だけで書いたら、全然違いました。

ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交りの伝道ぶり、その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違ふ私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。アイヌ語の讃美歌……あの時の声音は今も尚耳に残って居る。


大正14年後半から大正15年の初夏にかけての北斗の行動がつかめないのは、国柱会の国家主義的日蓮主義に傾いていたというのもあるのでしょうか。

かといって、北斗は金田一京助に国柱会のことを報告したりしていますし、仕事もちゃんとしていたようですから、普通に日常生活を送っていたはず。後藤静香、西川光次郎などとも関わりを断っているわけではないようです。

しかし、この当時の修養雑誌などを読んでいると、西川光次郎にしても、後藤静香にしても、宗教の上位に国家主義をおいているので、不思議と各宗教と国家主義が共存できていたようですね。キリスト教でさえも。

上手く説明できませんが、「生活向上」や「修養」という上昇志向で善良なキーワードが、いつのまにか「国家のためにお役に立てる人間になる」というベクトルに向いていて、真面目さや向上心が、うまくスムーズに「国家主義」にスイッチングされるような風潮とでもいうのでしょうか。

西川光次郎や後藤静香の掲げた「修養」という言葉。
放っておけない言葉。

あきらかに存在したムーブメントのはずなのに、どうしてこれほどまでに黙殺されるのか。

希望社にしても、それなりの影響力を持っていたのに、どうしてそれに関しての研究が行われていないのか。

不思議です。



 

管理人  ++.. 2006/02/01(水) 10:11 [113]

2006年1月28日 (土)

山中峯太郎

 山中峯太郎の評伝「夢いまだ成らず」を読了。
 
 違星北斗と出会った頃の山中峯太郎は、まだ少年少女向けの読み物を多く手がける前で、非常に宗教的な時期だったようです。
 山中峯太郎は陸軍大学校に入学したエリート軍人でしたが、朝日新聞の通信員という身分を得て中国に渡り、袁世凱(中華民国大総統、自ら皇帝になろうとして孫文を追放)への反抗運動に加わります。いわゆる「第二革命」ですが、これは袁世凱の圧倒的軍事力の前に失敗に終わります。続く「第三革命」においても、孫文のもとで活動します。
 大正2年から4年。
 その後日本に戻った峯太郎は朝日新聞記者として勤務するかたわらで、「山中未成」「大窪逸人」などのペンネームで小説を書き、二足のわらじを履くようになります。
 大正6年、山中峯太郎は突然、逮捕されます。
 「淡路丸偽電事件」と呼ばれているのですが、これは「客船淡路丸が沈没した」という嘘の情報を新聞社に流し、株式市場を混乱させたという罪です。
 いわゆる「風評の流布」ってやつです。この当時、峯太郎は株をやっていました。事実はわかりませんが、中国へ資金を送るためだったのではないかともいわれてます。
 峯太郎は懲役二年の刑を受けます。獄中において親や妻子らのことを思い、内省の日々を送ります。
 大正8年、出獄した時には、すっかり改悛して宗教的な人物になっています。
 峯太郎は、獄中において、「我れ、爾(なんじ)を救う」という啓示を受けたのでした。
 この「我れ」とは、何者でもないものであり、キリストであり、阿弥陀如来でもあるような存在でした。かといって、キリスト教とか、真宗とか特定の宗教に帰依するのではなく、新たな宗教を創出するというわけでもありませんでした。

 彼の宗教観は独自のもので、キリストの性格の中に仏の性格の権限を見る。そして絶対(純真)他力によって救われるとする。〈我れ〉は神であり仏だとすれば、〈爾(なんじ)〉は自分自身であり、その他力本願は、「我れ爾を救ふ」に体現される
とのこと。
(あんまりよくわかりません)。

 峯太郎は、出獄後は宗教的な著述を精力的に行うようになります。
 このころ、天理教や一燈会の西田天花、『出家とその弟子』の倉田百三と接触し、一燈会に入ろうかどうか逡巡しています。
 聖(内なる思い)と俗(生活のための売文への疑問)との迷いの中にあった、ということだと思います。

 大正12年、関東大震災。未曾有の災厄を前に、がれきの中で峯太郎はあらたな啓示、「ある実在感」――ある「一人格」の実在を得、それを「如来」と名付けます。
 それも、よくわかりませんが、迷いからの脱却、ということだと思います。

 その後は、うってかわって峯太郎は精力的に執筆活動を打ち込みはじめます。宗教的なものから、娯楽的なもの、変名でスターの実録ものなども書いています。
 
 北斗が峯太郎に会ったのは、大正14年~15年、峯太郎が「迷い」を吹っ切った頃のことです。

 山中峯太郎の代名詞となった、「敵中横断三百里」や「亜細亜の曙」なんかの冒険ものは、昭和にはいってからの作品になります。、
 

管理人  ++.. 2006/01/28(土) 19:34 [107]

2006年1月23日 (月)

小熊秀雄と吉田一穂


 小熊秀雄詩集と吉田一穂詩集を読む。

 二人とも北斗と同世代で、小熊は小樽生まれ(樺太育ち)、吉田は古平の生まれ。二人とも、少年時代にニシン漁を経験しています。
 といっても、対称的で、小熊は継母に虐められる不遇な少年時代を過ごしており、生活のために鰊場をはじめとして、伐採、炭焼、昆布漁などの労働をしているのに対し、吉田は網元の息子で「引きこもり」、どちらかというと放蕩息子ですね。

 小熊秀雄はそのような貧困の中から、旭川で新聞記者となり、上京して芸術家・詩人として名を成します。小熊は和人ですが、どことなく、北斗の「もしかしたら、あったかもしれない未来」を思わせます。北海道に戻らず、東京にずっといたら、北斗にも歌人・詩人としての将来があったのかもしれません。

 小熊には「飛ぶ橇」という詩があります。老アイヌと和人の山林官の交流を描いたものですが、雪崩から山林官を救うアイヌの勇敢な姿には心を打たれます。
 
 一方の吉田一穂もまた、東京で詩人として成功しますが、故郷古平を「白鳥古丹(かむいこたん)」と呼んで憧憬しています。
 その古平のコタンは、北斗が

ウタリーの絶えて久しくふるびらのコタンの遺蹟に心ひかれる

 と詠ったコタンと同じ、古平のコタンなのでしょう。

 もちろん、和人である吉田が偲んだ「コタン」と、アイヌである北斗の「コタン」はその切実さにおいて、まったく意味合いが違うでしょう。しかし、和人である吉田もまた、自らの原風景を「コタン」という言葉に託したのは興味深いことだと思います。

管理人  ++.. 2006/01/23(月) 01:27 [104]


 その吉田一穂に「白鳥」という詩があります。


   白鳥

 1

 掌(て)に消える北斗の印。
 ……然れども開かねばならない、この内部の花は。
 背後(うしろ)で漏沙(すなどけい)が零れる。

 (後略)

 というのがあります。


 この「北斗」はもちろん違星北斗の北斗ではないでしょうが……なんだか気になります。

 

管理人  ++.. 2006/01/23(月) 01:35 [105] [引用]

2006年1月19日 (木)

北斗と「論語」

 私は西川光次郎は元キリスト者だというようなことを書いてきましたが、自働道話を読んでいくと「論語」に関する記事が多いのに驚きました。
 西川は自らキリスト教の信者ではなく、「儒教の信者」だといっています。(ちょっと違和感のある表現ですが)。
 また、西川が北斗のいた東京府市場協会でしていた講演は「論語」の講演でした。
 
 「北斗」と「論語」。
 今まで考えてみたことのない組み合わせですが、何か新しくみえてくるものがあるかもしれません。

管理人  ++.. 2006/01/19(木) 23:43 [101]

 西川光次郎はキリスト教に見切りをつけ、論語に希望を見出した。
 山中峯太郎もキリスト教では救われず、宗教的な遍歴をすることになる。
 後藤静香の教えも、キリスト教からすこしづつ離れていった。

 北斗は、キリスト教から離脱していったこれらの先達に多大な影響を受けている。

 そして、ジョン・バチラーの布教は北斗が期待するほど、アイヌの救済をしてくれるわけではないことを知った。
 キリスト教にすがって生きた知里幸恵は、その信仰を報われることなく、早すぎる死を迎えた。 

 キリスト教では、アイヌは救えない。
 
 北斗に必要なのは、即効性のある教え、現世利益だったと思う。
 北斗は自ら勉強し、東京で錚々たる学者や知識人と語り合うことができるような知識を得た。
 今、同族に必要なのは、おとなしく神にすがりついて嘆くことではない。知識を深め、修養することだ。人格を高めることだ。行動することだ。

 死の間際に北斗が記した言葉が思いだされる。

「よいものであったら何でもやりたい」
  

管理人  ++.. 2006/01/20(金) 00:05 [102]

2006年1月17日 (火)

筑波登山

これは新発見。

「筑波登山」の記録です。
自働道話大正14年8月号。

  筑波登山

 私共の登山団では、六月十四日紫の筑波山へ登りました。当日は終日雨天でしたけれども、幸に降らず、無事に面白く、目的を達しました。西川の上野着がおくれし為め、一汽車おくれ其の為帰りが後くれて御気の毒でした。
一行は今村、沼田、鈴木、岩瀬、違星、西川の六人と、愛国少年団員六人と都合十二人でした。この写真は筑波の絶頂、男体山の連歌嶽でとつたものです。岩瀬、違星の両君は既に女体山の方へ向ひし後でしたので、両君はこの写真の中へ、這入つて居りません。

筑波は登るに頃合の山ですが、ナカ/\急な山なので、割合に骨が折れます。併し山が樹木と奇岩に富んで居るのと、絶頂からは関東一円見へますので愉快です。

筑波神社のウラから絶頂まで、登山鉄道が出来るソウで、盛んに工事中でした。

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 00:17 [95]

これは西川光次郎の文でしょうね。
写真もありますが、北斗も写っていませんし、印刷が悪すぎるのでやめておきます。

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 00:19 [96]

2006年1月16日 (月)

高尾登山の記念写真

Takaotozan

 

金光図書館で『自働道話』を読んできました。
 
 まず、大発見(?)から。

 これは、高尾登山の写真。

頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。一向はその雄大な眺めに酔はされました。みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。


 その記念写真がこれ。

 
 

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:54 [92]

後列右より 中原氏 礼子さん 違星氏 永田氏 額田氏 西川氏 石沢氏

前列右より 大久保氏 島田市 今村氏


管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:56 [93]

クリックすると拡大されますが……

北斗の顔はなんとなく面影はあるのですが、不鮮明すぎますね。

ただ、洋服を着ていること、帽子をかぶっていることはわかります。

ほとんど洋装ですね。
しかし、この写真は貴重です。
うまくすれば、北斗の身長が大体割り出せるかもしれません。

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 00:00 [94]

高尾登山 フルバージョン

「自働道話社遠足会 高尾登山」額田真一


 三月二十一日春季霊祭の日、自働道話社春の遠足会あり、高尾山に登りました。その日は風のなく、暖いほんとに選ばれたる晴天でした。集合地新宿駅には既に西川先生、島田氏、大久保氏が見えて居ました。それから日本排酒会の永田氏や今村氏も見えました。また見える筈の違星北斗君が、七時になっても見えず、どうした事かと案じて居ますと、七時十二分発車のベルはケタヽマシク鳴響いて止んでしまひました。もう駄目だと、諦めて。プラットホームに返す途端、違星氏が見えて大急にて汽車に飛込みました。石沢氏は吉祥寺駅から加はり、一行は氏の外に中島氏と妹さんの礼子さんと十人でした。殊に礼子さんはまだ十一歳と云ふ小さい方なのに足も大へん達者にて始終一番で登られました。みんなは色々の木や、草を見て研究しました、又大木を見ては驚き顔にて仰ぐのでした。中には四人でもかゝへ切れない程の太い杉もありました。
 頂上は大へん広い見晴で、俗に関八州他三州十一州の見下と云ひます。一向はその雄大な眺めに酔はされました。みんななんと云ふよい天気でせう、こんな暖い日はと云って大喜びでした。
 頂上の茶屋にて弁当を食べて、記念の写真を撮りました。
 帰りには反対路に降りました。こちらは少々路も険しい様でした。蛇滝、琵琶の滝などみんな小さい滝で水も僅かですが、美しい好い感じの処でした。
 路々天気よく軍歌や三角章の歌を歌つたり、又色々と面白い話が次から次と出て、知らぬうちに降りて仕舞ました。
 広い道に出ると両側に沢山の紅白の梅が今を盛りと咲いて高い香が鼻をつくのでした。
 日頃黄塵万丈の都会生活をするものに此の様な大自然に楽しむ事ほど恵まれた事は有りません須く吾等教壇は大自然の中に見出すことです、野にはユラ/\と柔らかなカゲローが立つて居るし、小川の水車のゴトリ/\の音も長閑さうにきこえて暖い春が来た事をほんとに嬉しく感じました。
  水車の音も長閑や春の昼
 などゝ口吟んで見ました。
 殊に私達一行を喜ばせた礼子さんは汽車の中でも梅の小枝をねむりかけて居る人の鼻もとに驚かせたり、渋い顔をして居る人に好い香りをかゞせて笑はせたり、ほんとに『子供の道話』に出て居るパレアナさんの様だと云つて笑ひました。
 常に職務に没頭するものには休日には斯うした志を同ふする人々と共に、オープンハアートした集いを大自然の中につくりたいと存じます。
 是れから隔月位に催うし度いものだと存じます。
 今回御都合が悪くて御出席にならなかつた御方もどうぞ御越下ある様祈ります。

 又今回御出席下さいました方々にすべて不徹底で有りました事を私から御託申ます。又御出席下さる為に駅まで御越下さった方が他に御在りかと案じて居ます。実は目標に『高尾登山自働道話社』と前夜書いて置いたのですが、違星君に託して置いた為に、同君は発車間際に来られたので折角の準備も役に立たず殊に先生からのご案内にて御越になって先生の御顔を御存じない為に引返された方には何とも申訳有りません。次回から充分に用意もして皆様の御越を期待申して居ます。


管理人  ++.. 2006/01/19(木) 23:24 [100]

書き込みは久しぶりです。
この写真は大発見ですね。すごい。ご努力に心から敬意を表したいと思います。
いろいろ私からも報告したこともあったんですがちょっとゆっくり文章を書く時間がないのでまた次回にします。

poronup  ++.. 2006/01/26(木) 00:20 [106]

いわゆる「霊感」について

[返信] [引用]

 私は、幽霊や、超能力や、生まれ変わりやらといういわゆる霊感、オカルトの類をあまり信じてはいないのですが、それはなぜかというと、若い頃にどっぷりと浸かっていたんですね。ワンダーライフというオカルト誌の愛読者でしたから。

 しかし、ある時からそれを卒業して、頑なに否定するようになりました。
 テレビなんかで、そういうオカルトな人を見ると、非科学的だとか、浅はかだとか思うようになったんですね。 

 だけれども、違星北斗を調べるようになって、そういうオカルトを信じる人を否定したり、軽蔑したりするのは間違っていると思うようになりました。

 自分の物差しだけで、人をはかってはいけない。あるいは、現代人の物差しで、過去の時代の人々の価値観をはかってはいけないんだと思うようになりました。あるいは、自分の属する文化圏の基準を、他の文化を人々に押しつけてはいけないんだと思います。

 北斗の生きた戦前の人々は、たぶん現代人の我々よりも非科学的で、信心深い。
 
 北斗が会った人々だってそうだ。
 霊感(オカルト的な意味だけでなく)によって動かされている人たちが多いと思う。
 
 希望社の後藤静香は霊感の人だと思うし、バチラーも心霊術をよくした人だった。山中峯太郎は第六感、今日でいえば「超能力」と呼んでもさしつかえないような能力を持っていたそうだし、永井叔は今日的にいえば多分に「電波系」なところがあると思う。
 西川光次郎は金光会や大本教の出口王仁三郎といった宗教関係者とつながりがあったようですし。(どの程度かはわからないが)。
 
 そして、北斗。
 
 「アイヌの姿」に

 鮮人が鮮人で貴い。アイヌはアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう。嗚呼我等の理想はまだ遠きか。

 とある。この一気に宇宙の高みへのぼってゆき、世界を見下ろすような感覚は、何かに似ているような気がします。


 何代か前の主人が海上に漁業に出でしに、船中にて恍惚として霊域に入り、江戸も樺太も何処でも見得た。是れは神通自在の「ヌプル」に成りかけたのであつた。 (「アイヌの秘密数件」)
 
 この北斗の祖先が体験したという「霊域」、あるいは「幽体離脱」(!?)の感覚ににていないだろうか。
 北斗は後藤静香と会った時、電気に撃たれたようになった、と「故人の霊に」にある。ほかにも穿った読み方をすれば、そういう箇所は探せばあるだろうとおもうんです。
 無論、僕は、わざわざ北斗をオカルティストだというように読み直したいわけではないし、そうだとも思わないのですが、ただ、霊感のようなものについて、当時の人々の感覚を、あらためて考え直してみる必要があるのではないか、とは思います。

 北斗は充分に理性的でも、科学的でもあったけれども、それでもまだ、我々が思う以上に「霊感」に動かされていたのだと思う。

 時代がそうだったのかもしれない。あの時代は、みんな「神がかっていた」ような、そんな気もする。
 だから、現代人の潔癖な「科学的」な物差しではかってはいけないのだとおもいます。

 別に僕自身がオカルトを信じるようになれというわけではなく、オカルトを信じる人々を、そうでない人と同じように信じるということ、それが肝要かと思います。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 23:08 [91]

藤本英夫先生


 藤本英夫先生がなくなられたということを、あらやさんのBBSではじめて知りました。

 ショックです。

 先日の北海道での調査の時、ウタリ協会の人に「藤本先生と会いますか?」と言われました。
 結局、スケジュールの都合がつかず、会えなかったのですが、藤本先生は「またの機会に」と、おっしゃってくれたそうです。
 次に行く時には、是非お会いしたいと思っていたのです。
 そして、いろいろお聞きしたかった。
 
 私は藤本先生の「金田一京助」を読んで、アイヌ文化に興味を持ったのでした。
 その後「知里真志保の生涯」を読み、そして「銀のしずく降る降る」を読みました。
 そんな先生と、次はお会いできそうだ、といろいろ質問したいことを考えていました。

 しかし……お亡くなりになってしまった。
 残念です。
 本当に、残念でなりません。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 01:34 [90]

山岸礼三の著書


 北斗の主治医で余市コタンの赤ひげ先生、山岸礼三の著書を入手。

「水郷余市の奇勝 神巖 蝋燭岩」玄津学人
 (発行・余市郷土研究会・昭和11年3月10日)

 余市のローソク岩についての伝承の研究。

 北斗のことについて何か書いてないかと思ったんですが……北斗はなし。
 ただ、梅太郎について若干記述がある程度。

 詳細は後日。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 00:47 [89]

2006年1月13日 (金)

自働道話

岡山県の金光図書館に「自働道話」が収蔵されているようです。
日帰りでは無理かなあ。

管理人  ++.. 2006/01/13(金) 07:54 [87]

日帰りで行ってきました。強行軍でしたが、非常に実りある調査でした。

詳細はまた。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 00:38 [88]

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2006年1月12日 (木)

再びフゴツペ 古代文字と石偶に就て

小樽高商 西田彰三

(一)は欠
(マイクロフィルムにも残っていない)。

(二)

原始民族の宗教的発達の経路は動物神或は植物神の多神に始まつて次第に人形を帯びたる神形人視主義に進化したることは古代の美術や祭式によつて推知せらるゝところで始めは純粋の動物形を崇拝してゐるが次ぎには半人的性質を帯んで、オロチヨン族の木偶の如き神か動物の皮(熊の皮)をきた人間の像とまで進化したのである。フゴツペの人面石像は、なめくじが人間の像になつて崇拝の的となつてゐるものと思はれる。
猿は非常に蛇を嫌ふ人間の蛇を嫌ふのも猿と同様の進化を遂げたからだといはれてゐるただ何となし憎悪嫌悪の感を蛇を直視する瞬間に発するのである。この先天的観念は蝦夷族も同様であると思ふ、大和民族もこの蛇を嫌ふ観念が*に*を崇拝して神と信ずる観念となりこの動物神崇拝の観念が、神形人視主義に支配せられて蛞(なめくじ)を人間かし偶像化して崇拝するものと思はれるしかして「三すくみ」の思想は支那に発せるものと思はるるが是もあるひは大陸民族を介して蝦夷族に伝へられたものと推せらる。古代の民族が蛇を怖れたことは紀元前四八四四――二八年時代のヘロドドスの歴史にも窺はれる
ネウリ人はスキチア人と風俗を同じうしてゐる、彼等はダリウス王の遠征より一代ばかり前に国を離れなければならぬ禍に遇ふた、即ち彼等の国に沢山の蛇があらはれ、又砂漠の方からも蛇が沢山出て来たから人々何れも怖れて国を立ち退いたのであると
以上によつて観るに畚部遺跡の人面石偶並に古代土耳古文字的記号は単なる蝦夷族の芸術的の力作とのみ見ることが出来ぬそれは宗教的信仰よりなる芸術的なる芸術的力作であると断ずるをうるのである然らば畚部遺跡は何等の古墳的遺跡の意味をなさぬかといふにさにあらずフゴツペ遺跡の左の洞窟は居住の地をせるか又は墓地と見ることが出来るそれはこの辺には他にも人骨の掘出されたといふから必ずしもこの洞窟のみに限るまいが兎も角も今回発見のフゴツペ洞窟の左の部は人骨を掘り出してゐるそれが遺憾ながら遂に直接見ることが出来ぬ様になつたが元々、上顎骨と下顎骨のみであるといふから頭蓋骨を見る様に正しく蝦夷族と判定し得ぬが遺憾であるが下顎には四本の歯あり何れも深く根を顎骨に挿入し今日まで脱落せざるところにより見るに蝦夷族と認あらる余は*に頭骨のみより見出さぬといふにあり首を切つて埋めたものと推したるもその後頸骨が出てそれが扁平であったといふからいよ/\蝦夷族の骨格と認めるのである、然して頸骨は頭蓋に対して少しく離れてこれと或る角度をなして存在せりといふによりこの死体は屈葬せるものと思はるもので古蝦夷族埋葬の様式が窺はれるこれは蝦夷族は死者の再帰を防ぐ一首の迷信よりくるもので、蝦夷族はその家の主人死するときその家を焼き又家族の死に当たつても葬式の出棺は壁を破りて出し出棺後其の壁の破れたるを塞ぐので是等も死者の再帰を防ぐ呪禁と見るべきである、なほ骨と共に土器、壺の大形なるもの出たるは是又死者の再帰に対する儀式的のもので甕被葬とみたるべききはめて特種なる葬り方であるがすでに内地河内国府の蝦夷式墳墓の石器時代遺跡に発見せるところで大正七年十月松枝氏が国府に発見せる三体の中の一体は頭部に*紋土器をもつて覆はれてあつたと記載してゐる、又完全なるものでなく大なる破片で覆ふたと思はるるものもあるといふ。
今フゴツペ遺跡の土器壺破片を見るに弥生式でなく蝦夷指揮土器であること先に述べたる如きで更にその模様が曲線式のしかも現代蝦夷族の衣服器具等に見る模様と一致するものである。甕葬は更に乳児にも行はるるとのことであるので被の土器壺は乳児甕葬でないかと念のため前記の上顎骨下顎骨の発見者について尋ねたが全く成人の歯と顎骨であつたと申述べてゐるから勿論小児甕葬ではないのである、石器時代には小児を容れる位の甕はあつたが大人を容れる位の大きい壺がなかつたから大人にはこれを頭に被せることにおいて満足せねばならぬ次第である。次にその後の発掘によつて同骨格の出た腹部の辺りのところから楕円形の長経一尺厚さ二三寸あるこの辺には見られぬ扁平石が発見された、これは抱石葬に相当するやはり儀式的のものと思はれるこれ等も屈葬や甕被葬と同様死者に石を抱かしめて埋葬することは死者の屍に大いに禁抑を加へてその再帰を恐れこれを防止せんとする迷信より来る儀式的副葬品である。
(小樽新聞 昭和二年十二月四日)

管理人  ++.. 2006/01/12(木) 22:35 [85]

(三)

次にこの墳墓には見出されぬが*冠と同様の意義で石冠を副葬品として用ひるこれも死者の再帰を恐れて**する意味のもので石塊で冠形を造つたもので必ず頭部に安置してある。従来この石冠は何の目的に使用せるものか判断に苦しめるもので或は穀物を擦り潰すに用ひたるものなるべしとなし或は又宗教的用品なるべしとなし本道においても諸処に発見せられ室蘭忍路村土場等にありたるがその最も多数を掘出せるものは余市沢町の永全寺の住職東開氏が赤井川の蝦夷族墓地より百数個持来り供養のため寺の庭に並べたるものあり何れも石冠にてこれ又副葬品たるを証明するものである、内地の蝦夷式墳墓にも掘り出されたといふことである。
以上の埋葬様式副葬品並にその土器の模様等によつて該骨格は蝦夷族の埋葬墳墓と断定するのである勿論該所は初め居住であつたのでその証拠は土器を焼きまた火食せる焼跡の炭及煙跡を岩壁に認めるのでも知ることが出来るしかしてこの洞窟で土器を焼いた形式の明らかなるは同書から炭団大の粘土塊十個程出たことでこれは土器の製造に使用した残りと思はれる。
そこでフゴツペ遺跡は余が前回結論において最後に述べたる如く単に蝦夷人居住の遺跡である従つて石偶及岩壁の文字は彼等の芸術的力作とも見らるるが又土器及び骨片の存在する蝦夷式墳墓とも見らることを述べておいたが
今茲に述べたる骨格、石塊、土器、粘土、焚火跡の灰煙跡等より初め居住であつて後その墳墓となれることを認めるのである、しかしてこの墳墓に埋葬せられたる人物はその神殿道と思はる右側洞窟、岩壇の、呪禁的彫刻記号並に石偶の作者でないかと推せらるるのである。
永田氏北海道地名辞曰くフムコイヘ、はフンキオベの急呼にして守りをする義昔余市と忍路の境界を争い、番人を置き守りたる処なり故に名ありと、しかして余市も土城あり、フゴツペにも土城ある事この地名のよるところあるを知る元来フゴツペには一種の伝説がありこの小山を元金時山現在丸山と呼んでゐるがこの山が余市沖村のローソク岩と直線をなし昔両蝦夷は大いに戦つたといふことである、のみならず、吉川氏の研究によれば余市沖村のローソク岩の正面に【「★」の上に「―」】の一大文字を水銀式をもつて刻せりとのことであれば、この伝説あながち根拠のないものでもないフゴツペの【「土」の下に「入」、その左に「★」】と何等かの関係あるものと思はるゝので古昔この両蝦夷族の盛んに戦闘を交したるを推せらるゝのである。従つてこの遺跡が戦争に関係ある如く思はるゝも以上述べたる如きその後の調査研究によつて該遺跡の右が信仰的殿堂の遺跡で左が墳墓であると結論するのである。土器や石器を以て蝦夷族の遺跡と断定する推論を否定する一派の学者もある現在の多くの蝦夷族はこれ等の土器や石器は我等の祖先の造つたものでなくコロポクルなる人種の遺品であると信じてゐるこれに対して非コロポクル説なるものがある坪井博士並にモールス氏はコロポクル実在説で然もそのコロポクルは現に生存する、エスキモー族であると断定し石器時代の遺物と現存蝦夷族との比較数点を挙げて論結し石器時代の人民と蝦夷族とは関係のないものであると断定し蝦夷以外の人種のコロポクルの実在を信じてゐる。この点は現在蝦夷族の意見と一致してゐる。
これに対して非コロポクル説を主張せらるゝのは小金井氏河野氏シーボールト氏等であって、河野氏は道史に正徳二年択捉島に漂流せる舟子大隅国浜の市村一船頭次郎左衛門の記事蝦夷島叢話に同島の土人は穴居せるを記述し宝暦十三年十勝場所の西部に漂着せる名古屋の船頭吉十郎等の漂流船書上に十勝の蝦夷が穴居し上を木の皮などにてかこひゐたる旨述べてゐる、即ち現在蝦夷族が竪穴は蝦夷祖先の遺跡でないと否定する論拠はこの正徳、宝暦の両漂流記によりて、蝦夷島の東北部、十勝、釧路、根室、千島等の土人が多く穴居であつたことを物語るによつて否定せらるゝものである。次に尤も有力なる非コロポクル説の証明となつたものは、北千島土人の居住が穴居であつてしかもその竪穴の中に笥がハンノキで石の鏃のついてをつたのを発見し又、石鏃の製造もなしつゝあるのを見出したことであるこれは明治三十年頃占守の守備に当つてゐた郡司大尉からの報告であつて同三十二年鳥居氏親しく北千島に出張調査して北千島の土人は堅(ママ)穴に居住するのみならず骨*(ぞう)、骨鈷、骨斧、骨刀を使用し土器石器を製造使用することを知つたのである。これに依つて従来蝦夷族の伝説にあるコロポクルなるものはやほ(ママ)り蝦夷族自身の先住系の人種であることが知れた次第で多分今日の蝦夷族は銅器鉄器の恩沢を受け陶器の輸入等もあつて全く石器、土器の使用を忘却したものと思わはれる、特に前述の通り十勝蝦夷の穴居の報告あれば二百五十年前頃までは十勝に穴居蝦夷のありしを証明するものであり従ってその竪穴から見いださるゝ石器土器はやはり蝦夷族の使用せるものと断ずるを得るのである。元来石器の多くはその使用の目的からして戦争とか、魚捕とか魚獣の調製とかの点でその形状等略(ほぼ)一致するものであり比較的変化の少いものであるが、土器に至つては使用の目的以外に民族の趣味が加はるもので土器の形とか模様とかにそれが発達して民族真理が発揮せらるるものである。この点で原日本民族の土器なる弥生式は主として形に意匠が加へられ、蝦夷式土器は
模様に主として意匠が加へられたものである。即ちフゴツペ墳墓の中より出たる土器壺はその模様の意匠は全く蝦夷式と現代蝦夷族の衣服、木器等に施されたる模様と同一系統に属するもので、うたがひもなく蝦夷族の索引なることを証するものである。

(小樽新聞 昭和二年十一月五日)

管理人  ++.. 2006/01/13(金) 07:05 [86]

2006年1月 8日 (日)

アイヌ・ラックルの傳説



「日記」の昭和3年、

十二月十日 月曜日

 夕方古田先生がお出になって一時間半ばかり居て下すったので、金田一先生への代筆もして頂く。浦川君へ『アイヌ・ラックルの伝説』をも送って下さった。

の『アイヌ・ラックルの伝説』は、

Kotanbbs_30874500764 大正13年、金田一京助著、世界文庫刊行会発行のものでしょうね。
 世界文庫は確か、北斗に山中峯太郎を紹介した松宮春一郎も関係していたような。
 このへんの「世界文庫」とか、「博文館」の人たちのつながりをもう少し調べないといけませんね。

管理人  ++.. 2006/01/08(日) 23:12 [83]

2006年1月 5日 (木)

句碑について

[返信] [引用]
資料を整理していたら、こんな新聞記事が出て来ました。ウタリ協会でコピーさせて貰った記事です。

北斗の句碑が建立

 アイヌ歌人 余市のモイレ山頂

【余市】本道歌壇に特異な一を占める余市生まれのアイヌ歌人、違星北斗の句碑が完成、同町のシンボルであるシリパ山をはるかに見渡すモイレ山頂に建てられた。句碑は余市にふさわしい内容で「雪浅き鰊の浦や雪五尺」。この石碑を揮毫(きごう)もした俳人でもある沢口町教育長は「郷土が生んだこの偉大な歌人を多くの人に知らせたい」と感慨深げだった。
 歌人、違星北斗は本名を滝次郎といい、明治三十四年同町で生まれた。少年時代は鰊漁で日雇い、造材人夫、鉱夫など苦労を重ね、大正十四年上京、金田一京助の知遇を得るが、翌年ウタリの生活苦を知っていながら、自分一人が安楽な生活をしておられないと帰道、日高二風谷のバチェラー園の日雇いになり、さらに売薬行商までするが、昭和四年、二十九歳で病死した。しかし、そのきびしい生活の中から短歌や俳句を作り、人間解放の切実な叫びを託した。
 この短いが、真しな人生を生き抜いた歌人の存在を郷土余市に示そうというのが句碑の建立計画となったわけで、数多い作品の中から余市にちなんだ俳句で「春浅き鰊の浦や雪五尺」が選ばれた。石碑は沢口教育長の寄贈、建立作業は町教委職員が労力奉仕と地元町民が力を合わせて、今月一日にモイレ山頂に句碑が建った。
 句碑は一メートル四方の小さなものだが、句碑の背後にはニシン漁で栄えた余市の海岸とシリパ山がくっきり。最適の場所に建てられたこの句碑は町民だけでなく、広く道内外に北斗の存在を伝えることになる。

(北海タイムス昭和52年11月4日(金))

※上の記事では「バチェラー園」が二風谷にあることになっているが、もちろんこれは平取町の誤り。死亡年齢も27歳で、数えが29歳。また「売薬行商までするが」というように書かれているが、むしろ北斗は道内コタン巡礼の手段として売薬行商をあえて選んだのである。
 現在、この句碑はあることはあるが、そこに何の注釈もなく、北斗の名も刻まれていないため、とても北斗の存在を伝えるという役目を果たしてはいない。

管理人  ++.. 2006/01/05(木) 01:17 [82]

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