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2006年1月13日 (金)

自働道話

岡山県の金光図書館に「自働道話」が収蔵されているようです。
日帰りでは無理かなあ。

管理人  ++.. 2006/01/13(金) 07:54 [87]

日帰りで行ってきました。強行軍でしたが、非常に実りある調査でした。

詳細はまた。

管理人  ++.. 2006/01/16(月) 00:38 [88]
自働道話 
●大正十二年九月号
 新読者として「東京府市場協会(六十部宛)(京橋区)」という記述あり。

●大正十二年十一月号

 ・大阪の額田真一が新読者を紹介している。
  熱心な読者だったのだろう。
(のちに北斗と同時に市場協会に雇われ、親友となる人物)。
 
 ・西川の講演日誌に「東京府市場協会」が登場。
  8/25 小石川音羽護国寺境内、豊山大学講堂
  8/26 新宿北裏町花園会館
  8/27 麻布区榎坂町黒田邸前常盤木クラブ
  8/28 芝増上寺境内源光
  8/29 浅草本願寺境内徳本院
  において、その付近の売店の人々のために講演。
 
 西川に影響を受けた市場協会の高見沢清が、人々に広めようとしているのだろう。
 その後、西川は毎月一回、市場協会の人々に講演をするようになる。

●大正十三年一月号

 関西巡講記

 十一月十九日、西川は額田真一とともに河内の観心寺へ。 

●大正十三年二月号
 
 新読者として「奈良直弥(北海道)」。

●大正十三年五月号

 新たな読者を紹介した人として、「奈良直弥氏(北海道余市)」の名がある。

 時期的に北斗が自働道話を読み始めた時期(大正十三年春)と一致するので、この新読者が北斗である可能性は高い。

●大正十三年九月号

 「終身読者」として額田真一の名前あり。
 その後も額田は、配本を手伝ったり、読者を紹介したりと、すごい献身ぶりです。
 
●大正十三年十二月

 新読者として「星製薬株式会社(廿五部宛)」とある。
 星新一のお父さんの会社ですね。関係ないけど。

●大正十四年一月
 
 手紙の中より「高見沢清様より」

  どうも高見沢氏が病気をして、それを西川光次郎が見舞ったお礼らしい。

●大正十四年三月

 西川文子「校正を終えて」

 これは、「コタン」にもありますが、じつは略されている部分にいろんな情報が含まれていました。


 「校正を終へて」


 幸に額田さんと違星さんとが事務を大変に手伝って下さったので助かりました。二人とも本当に感心な青年です、違星さんはアイヌの方ですが、絵も文筆も俳句なども上手な珍らしい人で、北海道の余市から阿佐ヶ谷まで来るのに牛乳一合買ふたきりで弁当は一度も買はずに来たほどの人です。(神保院にて文子。十八日)


 と、ここまではすでに知っている情報です。
 が、その前の行にこういう文があります。

 十七日から廿日まで千葉県群馬県へ夫は講演に行き、家も無人なので、私は水道橋と阿佐ヶ谷とを毎日あき/\するほど往復しています。

 とあります。
 この「往復」はどういうことかというと、三男が猩紅熱で神保院に入院していたのですね。
 子供は入院している、夫は講演に入っていて不在。
 そこで違星と額田が事務を手伝った、となるわけで、だからこそ「神保院にて」ということなんですね。

 

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 01:29 [97]

●大正十四年五月

 高尾登山の記事で、「くさのかぜ」で略されていた情報がありますので、また入力しようかと思っています。

 五月には「三峰山に登りたい」とあるのですが、七月号が欠でしたので確認できませんでした。
 もしかしたら、三峰山にも北斗は登っているかもしれません。
 
●大正十四年六月号
 
 関西巡講。西川の故郷淡路や私の故郷明石などを旅しており興味深いです。

 四月十九日、西川は大本教の出口氏(おそらく出口なおではなく、王仁三郎の方だと思う)と会っている。

●大正十四年六月号

 手紙の中からに新渡戸稲造登場。
「過日在京中は行き違ひてお目にかゝらず、残念至極、自働道話も近来大発展の由、うれしく承知致し候、今後とも御活動の程願はしく存候。本日スヰズ通過。」

 新読者として「出口王仁三郎氏(京都府)」。

●大正十四年八月

 新読者として「中里介山氏紹介」の人物あり。
 高尾登山の記事で、「くさのかぜ」で(略)されていた部分を確認。

●大正十五年二月号

 手紙の中から「奈良直弥様より」年始の挨拶。

●昭和二年五月号

 手紙の中から「額田真一様より」

 弟の上京のために、大阪に帰省を促されて十日間の休暇。

●昭和二年八月号

 北海道巡講記(全文)また打ち込みます。

●昭和三年二月号

 額田真一が結婚した。

●昭和四年二月号

 年賀ハガキより。
『報徳会、希望社、使命社、自働道話社の出版物の、もつと、ゆきわたります様、祈ります。』

 これに見るように、後藤静香の「希望社」と西川光次郎の「自働道話社」は、似たもの、同じような種のものと見られていたようです。
 報徳会、使命社などは初耳。また調べておきます。
  
 

管理人  ++.. 2006/01/17(火) 02:02 [98]

自働道話を見ていたら、何度か西田天香という名前が、出てきました。

西田天香って見たことあるな、誰だっただろう、と思いながらも思い出せないでいましたが、山中峯太郎の評伝をめくっていると、唐突に出てきていました。

西田天香とは、「一燈園」の代表ですね。山中峯太郎が私淑していた人の一人だったと思います。

 希望社と同様に、その非常に流行った修養団体、教化団体で、仏教系でした。

 あと、確か、郡司正勝さんが違星北斗と「コタン」について書いた「思い出の一冊」という文章の中で、希望社と一燈園を取り違えて書いていたのでした。

 山中峯太郎だけじゃなく、西川光次郎と西田天香とも関係があったんですね。

管理人  ++.. 2006/01/19(木) 12:34 [99]


 一燈園は仏教系というよりも、なんだろう。
 宗教ではないんですね。

 いわゆる、コミューンのような共同生活の団体でしょうか。
 一燈園自体は現在もありますね。


 

管理人  ++.. 2006/01/20(金) 12:05 [103]

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