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2006年1月12日 (木)

再びフゴツペ 古代文字と石偶に就て

小樽高商 西田彰三

(一)は欠
(マイクロフィルムにも残っていない)。

(二)

原始民族の宗教的発達の経路は動物神或は植物神の多神に始まつて次第に人形を帯びたる神形人視主義に進化したることは古代の美術や祭式によつて推知せらるゝところで始めは純粋の動物形を崇拝してゐるが次ぎには半人的性質を帯んで、オロチヨン族の木偶の如き神か動物の皮(熊の皮)をきた人間の像とまで進化したのである。フゴツペの人面石像は、なめくじが人間の像になつて崇拝の的となつてゐるものと思はれる。
猿は非常に蛇を嫌ふ人間の蛇を嫌ふのも猿と同様の進化を遂げたからだといはれてゐるただ何となし憎悪嫌悪の感を蛇を直視する瞬間に発するのである。この先天的観念は蝦夷族も同様であると思ふ、大和民族もこの蛇を嫌ふ観念が*に*を崇拝して神と信ずる観念となりこの動物神崇拝の観念が、神形人視主義に支配せられて蛞(なめくじ)を人間かし偶像化して崇拝するものと思はれるしかして「三すくみ」の思想は支那に発せるものと思はるるが是もあるひは大陸民族を介して蝦夷族に伝へられたものと推せらる。古代の民族が蛇を怖れたことは紀元前四八四四――二八年時代のヘロドドスの歴史にも窺はれる
ネウリ人はスキチア人と風俗を同じうしてゐる、彼等はダリウス王の遠征より一代ばかり前に国を離れなければならぬ禍に遇ふた、即ち彼等の国に沢山の蛇があらはれ、又砂漠の方からも蛇が沢山出て来たから人々何れも怖れて国を立ち退いたのであると
以上によつて観るに畚部遺跡の人面石偶並に古代土耳古文字的記号は単なる蝦夷族の芸術的の力作とのみ見ることが出来ぬそれは宗教的信仰よりなる芸術的なる芸術的力作であると断ずるをうるのである然らば畚部遺跡は何等の古墳的遺跡の意味をなさぬかといふにさにあらずフゴツペ遺跡の左の洞窟は居住の地をせるか又は墓地と見ることが出来るそれはこの辺には他にも人骨の掘出されたといふから必ずしもこの洞窟のみに限るまいが兎も角も今回発見のフゴツペ洞窟の左の部は人骨を掘り出してゐるそれが遺憾ながら遂に直接見ることが出来ぬ様になつたが元々、上顎骨と下顎骨のみであるといふから頭蓋骨を見る様に正しく蝦夷族と判定し得ぬが遺憾であるが下顎には四本の歯あり何れも深く根を顎骨に挿入し今日まで脱落せざるところにより見るに蝦夷族と認あらる余は*に頭骨のみより見出さぬといふにあり首を切つて埋めたものと推したるもその後頸骨が出てそれが扁平であったといふからいよ/\蝦夷族の骨格と認めるのである、然して頸骨は頭蓋に対して少しく離れてこれと或る角度をなして存在せりといふによりこの死体は屈葬せるものと思はるもので古蝦夷族埋葬の様式が窺はれるこれは蝦夷族は死者の再帰を防ぐ一首の迷信よりくるもので、蝦夷族はその家の主人死するときその家を焼き又家族の死に当たつても葬式の出棺は壁を破りて出し出棺後其の壁の破れたるを塞ぐので是等も死者の再帰を防ぐ呪禁と見るべきである、なほ骨と共に土器、壺の大形なるもの出たるは是又死者の再帰に対する儀式的のもので甕被葬とみたるべききはめて特種なる葬り方であるがすでに内地河内国府の蝦夷式墳墓の石器時代遺跡に発見せるところで大正七年十月松枝氏が国府に発見せる三体の中の一体は頭部に*紋土器をもつて覆はれてあつたと記載してゐる、又完全なるものでなく大なる破片で覆ふたと思はるるものもあるといふ。
今フゴツペ遺跡の土器壺破片を見るに弥生式でなく蝦夷指揮土器であること先に述べたる如きで更にその模様が曲線式のしかも現代蝦夷族の衣服器具等に見る模様と一致するものである。甕葬は更に乳児にも行はるるとのことであるので被の土器壺は乳児甕葬でないかと念のため前記の上顎骨下顎骨の発見者について尋ねたが全く成人の歯と顎骨であつたと申述べてゐるから勿論小児甕葬ではないのである、石器時代には小児を容れる位の甕はあつたが大人を容れる位の大きい壺がなかつたから大人にはこれを頭に被せることにおいて満足せねばならぬ次第である。次にその後の発掘によつて同骨格の出た腹部の辺りのところから楕円形の長経一尺厚さ二三寸あるこの辺には見られぬ扁平石が発見された、これは抱石葬に相当するやはり儀式的のものと思はれるこれ等も屈葬や甕被葬と同様死者に石を抱かしめて埋葬することは死者の屍に大いに禁抑を加へてその再帰を恐れこれを防止せんとする迷信より来る儀式的副葬品である。
(小樽新聞 昭和二年十二月四日)

管理人  ++.. 2006/01/12(木) 22:35 [85]

(三)

次にこの墳墓には見出されぬが*冠と同様の意義で石冠を副葬品として用ひるこれも死者の再帰を恐れて**する意味のもので石塊で冠形を造つたもので必ず頭部に安置してある。従来この石冠は何の目的に使用せるものか判断に苦しめるもので或は穀物を擦り潰すに用ひたるものなるべしとなし或は又宗教的用品なるべしとなし本道においても諸処に発見せられ室蘭忍路村土場等にありたるがその最も多数を掘出せるものは余市沢町の永全寺の住職東開氏が赤井川の蝦夷族墓地より百数個持来り供養のため寺の庭に並べたるものあり何れも石冠にてこれ又副葬品たるを証明するものである、内地の蝦夷式墳墓にも掘り出されたといふことである。
以上の埋葬様式副葬品並にその土器の模様等によつて該骨格は蝦夷族の埋葬墳墓と断定するのである勿論該所は初め居住であつたのでその証拠は土器を焼きまた火食せる焼跡の炭及煙跡を岩壁に認めるのでも知ることが出来るしかしてこの洞窟で土器を焼いた形式の明らかなるは同書から炭団大の粘土塊十個程出たことでこれは土器の製造に使用した残りと思はれる。
そこでフゴツペ遺跡は余が前回結論において最後に述べたる如く単に蝦夷人居住の遺跡である従つて石偶及岩壁の文字は彼等の芸術的力作とも見らるるが又土器及び骨片の存在する蝦夷式墳墓とも見らることを述べておいたが
今茲に述べたる骨格、石塊、土器、粘土、焚火跡の灰煙跡等より初め居住であつて後その墳墓となれることを認めるのである、しかしてこの墳墓に埋葬せられたる人物はその神殿道と思はる右側洞窟、岩壇の、呪禁的彫刻記号並に石偶の作者でないかと推せらるるのである。
永田氏北海道地名辞曰くフムコイヘ、はフンキオベの急呼にして守りをする義昔余市と忍路の境界を争い、番人を置き守りたる処なり故に名ありと、しかして余市も土城あり、フゴツペにも土城ある事この地名のよるところあるを知る元来フゴツペには一種の伝説がありこの小山を元金時山現在丸山と呼んでゐるがこの山が余市沖村のローソク岩と直線をなし昔両蝦夷は大いに戦つたといふことである、のみならず、吉川氏の研究によれば余市沖村のローソク岩の正面に【「★」の上に「―」】の一大文字を水銀式をもつて刻せりとのことであれば、この伝説あながち根拠のないものでもないフゴツペの【「土」の下に「入」、その左に「★」】と何等かの関係あるものと思はるゝので古昔この両蝦夷族の盛んに戦闘を交したるを推せらるゝのである。従つてこの遺跡が戦争に関係ある如く思はるゝも以上述べたる如きその後の調査研究によつて該遺跡の右が信仰的殿堂の遺跡で左が墳墓であると結論するのである。土器や石器を以て蝦夷族の遺跡と断定する推論を否定する一派の学者もある現在の多くの蝦夷族はこれ等の土器や石器は我等の祖先の造つたものでなくコロポクルなる人種の遺品であると信じてゐるこれに対して非コロポクル説なるものがある坪井博士並にモールス氏はコロポクル実在説で然もそのコロポクルは現に生存する、エスキモー族であると断定し石器時代の遺物と現存蝦夷族との比較数点を挙げて論結し石器時代の人民と蝦夷族とは関係のないものであると断定し蝦夷以外の人種のコロポクルの実在を信じてゐる。この点は現在蝦夷族の意見と一致してゐる。
これに対して非コロポクル説を主張せらるゝのは小金井氏河野氏シーボールト氏等であって、河野氏は道史に正徳二年択捉島に漂流せる舟子大隅国浜の市村一船頭次郎左衛門の記事蝦夷島叢話に同島の土人は穴居せるを記述し宝暦十三年十勝場所の西部に漂着せる名古屋の船頭吉十郎等の漂流船書上に十勝の蝦夷が穴居し上を木の皮などにてかこひゐたる旨述べてゐる、即ち現在蝦夷族が竪穴は蝦夷祖先の遺跡でないと否定する論拠はこの正徳、宝暦の両漂流記によりて、蝦夷島の東北部、十勝、釧路、根室、千島等の土人が多く穴居であつたことを物語るによつて否定せらるゝものである。次に尤も有力なる非コロポクル説の証明となつたものは、北千島土人の居住が穴居であつてしかもその竪穴の中に笥がハンノキで石の鏃のついてをつたのを発見し又、石鏃の製造もなしつゝあるのを見出したことであるこれは明治三十年頃占守の守備に当つてゐた郡司大尉からの報告であつて同三十二年鳥居氏親しく北千島に出張調査して北千島の土人は堅(ママ)穴に居住するのみならず骨*(ぞう)、骨鈷、骨斧、骨刀を使用し土器石器を製造使用することを知つたのである。これに依つて従来蝦夷族の伝説にあるコロポクルなるものはやほ(ママ)り蝦夷族自身の先住系の人種であることが知れた次第で多分今日の蝦夷族は銅器鉄器の恩沢を受け陶器の輸入等もあつて全く石器、土器の使用を忘却したものと思わはれる、特に前述の通り十勝蝦夷の穴居の報告あれば二百五十年前頃までは十勝に穴居蝦夷のありしを証明するものであり従ってその竪穴から見いださるゝ石器土器はやはり蝦夷族の使用せるものと断ずるを得るのである。元来石器の多くはその使用の目的からして戦争とか、魚捕とか魚獣の調製とかの点でその形状等略(ほぼ)一致するものであり比較的変化の少いものであるが、土器に至つては使用の目的以外に民族の趣味が加はるもので土器の形とか模様とかにそれが発達して民族真理が発揮せらるるものである。この点で原日本民族の土器なる弥生式は主として形に意匠が加へられ、蝦夷式土器は
模様に主として意匠が加へられたものである。即ちフゴツペ墳墓の中より出たる土器壺はその模様の意匠は全く蝦夷式と現代蝦夷族の衣服、木器等に施されたる模様と同一系統に属するもので、うたがひもなく蝦夷族の索引なることを証するものである。

(小樽新聞 昭和二年十一月五日)

管理人  ++.. 2006/01/13(金) 07:05 [86]

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