山中峯太郎の評伝「夢いまだ成らず」を読了。 違星北斗と出会った頃の山中峯太郎は、まだ少年少女向けの読み物を多く手がける前で、非常に宗教的な時期だったようです。 山中峯太郎は陸軍大学校に入学したエリート軍人でしたが、朝日新聞の通信員という身分を得て中国に渡り、袁世凱(中華民国大総統、自ら皇帝になろうとして孫文を追放)への反抗運動に加わります。いわゆる「第二革命」ですが、これは袁世凱の圧倒的軍事力の前に失敗に終わります。続く「第三革命」においても、孫文のもとで活動します。 大正2年から4年。 その後日本に戻った峯太郎は朝日新聞記者として勤務するかたわらで、「山中未成」「大窪逸人」などのペンネームで小説を書き、二足のわらじを履くようになります。 大正6年、山中峯太郎は突然、逮捕されます。 「淡路丸偽電事件」と呼ばれているのですが、これは「客船淡路丸が沈没した」という嘘の情報を新聞社に流し、株式市場を混乱させたという罪です。 いわゆる「風評の流布」ってやつです。この当時、峯太郎は株をやっていました。事実はわかりませんが、中国へ資金を送るためだったのではないかともいわれてます。 峯太郎は懲役二年の刑を受けます。獄中において親や妻子らのことを思い、内省の日々を送ります。 大正8年、出獄した時には、すっかり改悛して宗教的な人物になっています。 峯太郎は、獄中において、「我れ、爾(なんじ)を救う」という啓示を受けたのでした。 この「我れ」とは、何者でもないものであり、キリストであり、阿弥陀如来でもあるような存在でした。かといって、キリスト教とか、真宗とか特定の宗教に帰依するのではなく、新たな宗教を創出するというわけでもありませんでした。
彼の宗教観は独自のもので、キリストの性格の中に仏の性格の権限を見る。そして絶対(純真)他力によって救われるとする。〈我れ〉は神であり仏だとすれば、〈爾(なんじ)〉は自分自身であり、その他力本願は、「我れ爾を救ふ」に体現される とのこと。 (あんまりよくわかりません)。
峯太郎は、出獄後は宗教的な著述を精力的に行うようになります。 このころ、天理教や一燈会の西田天花、『出家とその弟子』の倉田百三と接触し、一燈会に入ろうかどうか逡巡しています。 聖(内なる思い)と俗(生活のための売文への疑問)との迷いの中にあった、ということだと思います。
大正12年、関東大震災。未曾有の災厄を前に、がれきの中で峯太郎はあらたな啓示、「ある実在感」――ある「一人格」の実在を得、それを「如来」と名付けます。 それも、よくわかりませんが、迷いからの脱却、ということだと思います。
その後は、うってかわって峯太郎は精力的に執筆活動を打ち込みはじめます。宗教的なものから、娯楽的なもの、変名でスターの実録ものなども書いています。 北斗が峯太郎に会ったのは、大正14年~15年、峯太郎が「迷い」を吹っ切った頃のことです。
山中峯太郎の代名詞となった、「敵中横断三百里」や「亜細亜の曙」なんかの冒険ものは、昭和にはいってからの作品になります。、
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管理人 ++.. 2006/01/28(土) 19:34 [107] |
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