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2006年2月

2006年2月26日 (日)

研究会

[返信] [引用]
ちょっと、東京にいってきます。
研究会に出てこようかと思っています。

違星北斗と連絡を取り合っていた辺泥和郎についてのお話が聞けるそうですので、たのしみです。
管理人  ++.. 2006/02/26(日) 23:25 [115]

上京ついでに土曜日、国会図書館に行ってみます。

あと、北斗がうろうろしていた大正末期の新宿のことについて、いろいろ当時の事を調べられればと思っています。

勤務地である東京府市場協会のことや、北斗の住居はどこなのか。何らかの記録に違星北斗滝次郎の名前は残っていないか。

新宿歴史博物館という施設があるので、そこにも行ってみようと思います。

時間があれば、再び国柱会に行って、北斗がどの講習会に参加したのかも調べてみたいです。

管理人  ++.. 2006/03/03(金) 11:20 [117] 

 で、行って参りました。

 私にとってはとても、花も実もある会でした。

 オンライン上でしか存知あげなかった、NさんやLさんとお会いできて感激しました。(Lさんには、調査もお手伝いいただきました)。
 発表者のUさんの発表も、ちょうど私が今考えている「修養」ということに深く関係していましたので、非常に勉強になりました。

 お世話になりました皆様、どうもありがとうございました。 
管理人  ++.. 2006/03/06(月) 14:14 [128]

2006年2月17日 (金)

北斗の食と東京

 2006年02月17日10:37

 砂糖湯を呑んで不図(ふと)思ふ東京の
  美好野のあの汁粉と粟餅

  甘党の私は今はたまに食ふ
  お菓子につけて思ふ東京

  支那蕎麦の立食をした東京の
  去年の今頃楽しかったね

 違星北斗の東京を偲ぶ歌は、なぜか食べ物の歌ばかりです。

 大正14年、23歳の違星北斗は、念願の上京を果たします。購読していた雑誌の主宰者である西川光次郎の紹介を得て、東京府市場協会の事務員としての職を得たのでした。
 上京した北斗は、すぐにアイヌ学者として高名だった金田一京助を尋ね、そこで知里幸恵のことを聞きます。この幸恵の著作「アイヌ神謡集」は北斗に絶大な影響を与え、北斗が生涯をかけて憧憬し、追い求めた「コタン」という言葉イメージは、この幸恵の遺作が与えたものであるといえると思います。
 金田一との出会いはまた、北斗にアイヌの父と慕われた英人宣教師ジョン・バチラーのことと、その養女でウタリのバチラー八重子の存在を教えます。
 また金田一の線から沖縄学の伊波普猷や中山太郎らの人文学者や、作家の山中峯太郎らを知り文化芸術に目覚め、おそらくバチラーの線からは、彼を資金援助していた社会運動家の後藤静香を知り、その教えは北斗の思想的な支柱の一つとなりました。
 あまり語られてはいませんが、その思想の遍歴の中では国家的な日蓮系の宗教家、田中智学(宮沢賢治や石原完爾などにも影響をあたえた)などにも傾倒してゆきます。
 一介のアイヌ青年はめくるめくように華やかな大正晩期の東京の中で、錚々たる文化人と交流をもつことになるのでした。

 和人に差別され、病と貧困の中で暮らした北海道での生活から一転して、東京での安定したサラリーマン生活は、夢のようなものだったでしょう。
 北斗は今で言う「セレブ」の人たちに可愛がられ、どんどん新しい思想を吸収し、知識を蓄積してゆきます。
 しかし、北斗は疑問を抱きます。
 アイヌであるがために和人に差別され続けた北海道時代。東京にいる今は、アイヌであるがために和人の文化人にちやほやされ、いいものを食べ、一人前の生活をしている。
 これは、同じ事ではないのか。
 自分がこうして浮かれているあいだにも、北海道のあちこちには苦しみつづけ、涙をしぼって生活しているウタリ(同族)がいるのだ。じぶんだけ東京でぬくぬくしているわけにはいかない。
 北斗は一年半の豊かな東京生活に見切りをつけ、民族復興の思いを胸に、北海道に帰ります。

 そこからは苦難の連続でした。なにせ、安定した東京での生活を蹴って、好きこのんで差別と貧困の中に舞い戻ってきたのですから。

 北海道の北斗が、東京を追想するとき、そこには豊かな生活がありました。
 汁粉、粟餅、お菓子、支那蕎麦。
 貧困の中、空腹にたえながらそれでも同族のために働く北斗がはるかな東京を思うとき、それが食べ物に彩られているのはそういう理由からなのかもしれません。

2006年02月17日10:50

・「美好野」というのは、正しくは「三好野」で、今で言う「甘味処」で、当時一大チェーン展開していたお店だそうです。
 北斗は同族を堕落させる「酒は害毒だ」と言っていまして、酒は飲みません。かわりに、大の甘党なんですね。他にもいろいろお菓子の記述が出てきます。

・支那蕎麦というのは、今で言うラーメンですね。当時から立ち食いのラーメンなんてものがあったのですね。
 関係ないですけど、阿佐ヶ谷の「ぴのちお」という中華料理店をたまり場にしていた詩人の中原中也は、北斗とは同じ時期、非常に近いところをうろうろしていて、永井叔という共通の知人がいたりなんかもしますが、残念ながら直接の接点はないようです。
 北斗と同様に、田中智学の「国柱会」に出入りしていた宮沢賢治とは、これもまたニアミスっぽいです。
 宮沢賢治が田中智学の国柱会に投稿していましたので、お互いの作品を知っていた可能性はありますが。

2006年2月 6日 (月)

道話

 けれども私はバチラー博士のあの偉大な御態度に接する時に無限の教訓が味はゝれます。私はだまってしまひます。去年の八月号だったと思ます。道話に出てた「師表に立ツ人バ博士」は本当でした。(『自働道話』昭和2年8月号)

 「師表に立ツ人バ博士」という記事がないか調べましたが、『自働道話』の大正15年8月号には北斗がいうような記述はありませんでした。
この「道話」とは、もしかしたら自働道話社と同じく西川光次郎と妻の文子が出していた「子供の道話」の8月号なのかもしれない。

 子供の道話を調べてみると、やはり「金光図書館」にあるということなので、また余裕があるときに見に行こうと思います。

 それから、金光図書館の「自働道話」に欠があったので、調べてみたら、立命館の図書館に大正14年、15年のものがあるようですので、これもまた調べにいこうと考えています。

管理人  ++.. 2006/02/06(月) 11:52 [114]

2006年2月 3日 (金)

違星北斗について


2006年02月03日0:20

  滅び行くアイヌの為(た)めに起(た)つアイヌ
  違星北斗の瞳輝く

           
          違星北斗『コタン』(昭和5年)より


 アイヌの歌人・違星(いぼし)北斗は1901年、北海道の余市生まれ。歌人というよりも、アイヌの自覚を促すべく活動した人といったほうがよいかもしれません。
 北斗が青春を過ごした頃、彼の同族の多くは和人による差別と貧困の中にありました。社会的にも「滅び行くアイヌ」というような言説が、知識人の間でもまかり通っていました。

 北斗はアイヌをとりまくそのような状況を悲しみ、自らの生涯をアイヌ民族のために捧げることを誓います。
 彼はまず各々が自覚することが大切だと考え、北海道のあちこちのアイヌコタンを歩いて、同族たちに語りかけ、意識向上に努めると同時に、小樽新聞などにアイヌの叫びとでもいうべき短歌を次々と発表しました。
 じょじょに賛同者が現れ、歌人としても注目されつつあったのですが、彼はその放浪の旅の最中、喀血して倒れ、27歳で志半ばでこの世を去ります。

 上の短歌は、彼がアイヌの地位向上のために生涯を捧げる覚悟をしたときのものです。

2006年02月05日02:39

  アイヌと云ふ新しくよい概念を
  内地の人に与へたく思ふ


       違星北斗『コタン』(昭和5年)より


 「アイヌ」という言葉はいうまでもなくアイヌ語で「人間」という意味です。それも、よい人間、立派な人間というよい意味で使われていました。
 ところが、違星北斗が育った時代には、和人の口からその言葉が発せられる時、そこには侮蔑的な響きをともなうことが少なくありませんでした。彼自身も幼少期からその言葉に苦しめられてきていました。若き日の彼は、そのような差別的待遇に押しやった和人への憎悪に凝り固まり、とにかく和人に復讐するために学問の必要性を強く感じたのでした。

 ある時、違星北斗は一人の和人の教師に次のようなことを言われます。

「我々は、アイヌとは云いたくはない言葉ではあるが、ある場合はアイヌと云った方が大そう便利な場合がある。また云わねばならぬ事もある。その際、アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしくひびくか」
(「淋しい元気」)

 この教師の心遣いの言葉を聞いて、北斗は衝撃をうけます。
 それまで、和人のことを血も涙もない、非情な、憎むべき存在であると思いこもうとしていた北斗は、この教師のたった一言で、世界のすべてが変わりました。
 和人を恨んでばかりいても始まらない、今はとにかくアイヌ自身が変わっていかなければいけない。そう考えた北斗は自ら修養に努めました。
 そして、もともと立派な人間を表す言葉である「アイヌ」が、当時の和人には同族を侮蔑するための言葉のように使われている。北斗は、この「アイヌ」という言葉に元来込められている民族の誇りを、取り戻さねばならない、そしてその新たしくよい意味を「内地の人」(和人)にも伝えなければならないと考えたのでした。

 上の短歌には、北斗のそのような決意が込められていると私は考えています。

管理人  ++.. 2006/03/21(火) 12:17 [140]

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