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2006年2月 3日 (金)

違星北斗について


2006年02月03日0:20

  滅び行くアイヌの為(た)めに起(た)つアイヌ
  違星北斗の瞳輝く

           
          違星北斗『コタン』(昭和5年)より


 アイヌの歌人・違星(いぼし)北斗は1901年、北海道の余市生まれ。歌人というよりも、アイヌの自覚を促すべく活動した人といったほうがよいかもしれません。
 北斗が青春を過ごした頃、彼の同族の多くは和人による差別と貧困の中にありました。社会的にも「滅び行くアイヌ」というような言説が、知識人の間でもまかり通っていました。

 北斗はアイヌをとりまくそのような状況を悲しみ、自らの生涯をアイヌ民族のために捧げることを誓います。
 彼はまず各々が自覚することが大切だと考え、北海道のあちこちのアイヌコタンを歩いて、同族たちに語りかけ、意識向上に努めると同時に、小樽新聞などにアイヌの叫びとでもいうべき短歌を次々と発表しました。
 じょじょに賛同者が現れ、歌人としても注目されつつあったのですが、彼はその放浪の旅の最中、喀血して倒れ、27歳で志半ばでこの世を去ります。

 上の短歌は、彼がアイヌの地位向上のために生涯を捧げる覚悟をしたときのものです。

2006年02月05日02:39

  アイヌと云ふ新しくよい概念を
  内地の人に与へたく思ふ


       違星北斗『コタン』(昭和5年)より


 「アイヌ」という言葉はいうまでもなくアイヌ語で「人間」という意味です。それも、よい人間、立派な人間というよい意味で使われていました。
 ところが、違星北斗が育った時代には、和人の口からその言葉が発せられる時、そこには侮蔑的な響きをともなうことが少なくありませんでした。彼自身も幼少期からその言葉に苦しめられてきていました。若き日の彼は、そのような差別的待遇に押しやった和人への憎悪に凝り固まり、とにかく和人に復讐するために学問の必要性を強く感じたのでした。

 ある時、違星北斗は一人の和人の教師に次のようなことを言われます。

「我々は、アイヌとは云いたくはない言葉ではあるが、ある場合はアイヌと云った方が大そう便利な場合がある。また云わねばならぬ事もある。その際、アイヌと云った方がよいかそれとも土人と云った方が君達にやさしくひびくか」
(「淋しい元気」)

 この教師の心遣いの言葉を聞いて、北斗は衝撃をうけます。
 それまで、和人のことを血も涙もない、非情な、憎むべき存在であると思いこもうとしていた北斗は、この教師のたった一言で、世界のすべてが変わりました。
 和人を恨んでばかりいても始まらない、今はとにかくアイヌ自身が変わっていかなければいけない。そう考えた北斗は自ら修養に努めました。
 そして、もともと立派な人間を表す言葉である「アイヌ」が、当時の和人には同族を侮蔑するための言葉のように使われている。北斗は、この「アイヌ」という言葉に元来込められている民族の誇りを、取り戻さねばならない、そしてその新たしくよい意味を「内地の人」(和人)にも伝えなければならないと考えたのでした。

 上の短歌には、北斗のそのような決意が込められていると私は考えています。

管理人  ++.. 2006/03/21(火) 12:17 [140]

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