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2006年2月17日 (金)

北斗の食と東京

 2006年02月17日10:37

 砂糖湯を呑んで不図(ふと)思ふ東京の
  美好野のあの汁粉と粟餅

  甘党の私は今はたまに食ふ
  お菓子につけて思ふ東京

  支那蕎麦の立食をした東京の
  去年の今頃楽しかったね

 違星北斗の東京を偲ぶ歌は、なぜか食べ物の歌ばかりです。

 大正14年、23歳の違星北斗は、念願の上京を果たします。購読していた雑誌の主宰者である西川光次郎の紹介を得て、東京府市場協会の事務員としての職を得たのでした。
 上京した北斗は、すぐにアイヌ学者として高名だった金田一京助を尋ね、そこで知里幸恵のことを聞きます。この幸恵の著作「アイヌ神謡集」は北斗に絶大な影響を与え、北斗が生涯をかけて憧憬し、追い求めた「コタン」という言葉イメージは、この幸恵の遺作が与えたものであるといえると思います。
 金田一との出会いはまた、北斗にアイヌの父と慕われた英人宣教師ジョン・バチラーのことと、その養女でウタリのバチラー八重子の存在を教えます。
 また金田一の線から沖縄学の伊波普猷や中山太郎らの人文学者や、作家の山中峯太郎らを知り文化芸術に目覚め、おそらくバチラーの線からは、彼を資金援助していた社会運動家の後藤静香を知り、その教えは北斗の思想的な支柱の一つとなりました。
 あまり語られてはいませんが、その思想の遍歴の中では国家的な日蓮系の宗教家、田中智学(宮沢賢治や石原完爾などにも影響をあたえた)などにも傾倒してゆきます。
 一介のアイヌ青年はめくるめくように華やかな大正晩期の東京の中で、錚々たる文化人と交流をもつことになるのでした。

 和人に差別され、病と貧困の中で暮らした北海道での生活から一転して、東京での安定したサラリーマン生活は、夢のようなものだったでしょう。
 北斗は今で言う「セレブ」の人たちに可愛がられ、どんどん新しい思想を吸収し、知識を蓄積してゆきます。
 しかし、北斗は疑問を抱きます。
 アイヌであるがために和人に差別され続けた北海道時代。東京にいる今は、アイヌであるがために和人の文化人にちやほやされ、いいものを食べ、一人前の生活をしている。
 これは、同じ事ではないのか。
 自分がこうして浮かれているあいだにも、北海道のあちこちには苦しみつづけ、涙をしぼって生活しているウタリ(同族)がいるのだ。じぶんだけ東京でぬくぬくしているわけにはいかない。
 北斗は一年半の豊かな東京生活に見切りをつけ、民族復興の思いを胸に、北海道に帰ります。

 そこからは苦難の連続でした。なにせ、安定した東京での生活を蹴って、好きこのんで差別と貧困の中に舞い戻ってきたのですから。

 北海道の北斗が、東京を追想するとき、そこには豊かな生活がありました。
 汁粉、粟餅、お菓子、支那蕎麦。
 貧困の中、空腹にたえながらそれでも同族のために働く北斗がはるかな東京を思うとき、それが食べ物に彩られているのはそういう理由からなのかもしれません。

2006年02月17日10:50

・「美好野」というのは、正しくは「三好野」で、今で言う「甘味処」で、当時一大チェーン展開していたお店だそうです。
 北斗は同族を堕落させる「酒は害毒だ」と言っていまして、酒は飲みません。かわりに、大の甘党なんですね。他にもいろいろお菓子の記述が出てきます。

・支那蕎麦というのは、今で言うラーメンですね。当時から立ち食いのラーメンなんてものがあったのですね。
 関係ないですけど、阿佐ヶ谷の「ぴのちお」という中華料理店をたまり場にしていた詩人の中原中也は、北斗とは同じ時期、非常に近いところをうろうろしていて、永井叔という共通の知人がいたりなんかもしますが、残念ながら直接の接点はないようです。
 北斗と同様に、田中智学の「国柱会」に出入りしていた宮沢賢治とは、これもまたニアミスっぽいです。
 宮沢賢治が田中智学の国柱会に投稿していましたので、お互いの作品を知っていた可能性はありますが。

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