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2006年3月

2006年3月25日 (土)

玫瑰(はまなす)の花

まったく知らない新資料が売りに出ていたので、購入しました。

「玫瑰の花」(青木健作違星北斗永瀬英一南正胤含)前田夕暮矢代東村署名入 昭和6年 玫瑰会編 18,000円

値段が値段ですから、迷いましたが、購入しました。

結果は、短歌の掲載二首掲載されていただけでした。

うち、新発見の短歌が一首。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:11 [147]

『玫瑰(はまなす)の花』玫瑰会 昭和6年

 目次には「故違星北斗」とあります。

 
 土方した肩のいたみをさすりつゝまた寝なほした今朝の雨ふり

 名のしれぬ花も咲いてゐた月見草も雨の真昼に咲いてゐたコタン(村)

  アイヌ人にして稀に見る敏才北斗は不幸昭和三年に世を去つた(竹内)
 
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:17 [148]

※「土方」の歌が初見。
※竹内は竹内薫兵で、「玫瑰(はまなす)会」の代表。この本の編集人。玫瑰会は前田夕暮が指導している。
※「跋」によると、この「玫瑰の花 第六輯」は大正14年から昭和六年までの歌会で発表された短歌の中から選んだものだそうで、北斗は東京時代にこの「玫瑰(はまなす)会」の「歌会」に出席していたのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:32 [149]

木呂子敏彦氏所蔵の資料


「違星北斗の会」主宰、木呂子先生のご遺族の方から、先生が所蔵されていた資料のコピーを送っていただきました。
 ほんとうにありがたいです。
 感動の連続です。興奮がおさまりません。

 新発見の連続です。
管理人  ++.. 2006/03/25(土) 12:01 [146]

とりあえず、資料のリストです。

●「北斗についての早川通信」早川勝美
 早川勝美氏から谷口正氏への書簡、昭和41年5月13日。
 早川氏は北斗の調査をされていたようで、新事実多し。
 圧巻は北斗に関する、北斗より18才年上のお婆さんの聞き書き。

●「湯本喜作著『アイヌの歌人』について」古田謙二

 北斗と親交の厚かった教師・古田謙二が、湯本喜作の『アイヌの歌人』の正誤について書いて(聞き取り?)いる。
 いろんな謎がとけました。
 表題だけ書いておきます。
 「私と北斗」「瀧次郎という名」「西川光二郎の北遊の途次に知られ…」「北斗と女性」「フゴッペの洞窟」「西田教授は本気で相手にしていない」「北斗の家」「中里篤治のこと」「クリスチャン」「並木凡平」「北斗の日記」「知里真志保氏」「北斗の実父 イコンリキ」「西川光二郎氏」「余市のフゴッペ洞窟について」「イサシの山のとほくかすめる」「山岸院長は元軍医中将で」「奈良直弥先生」

●「北斗の歌に思ふ」白老 森竹竹市

 北海道新聞「卓上四季」の記者へ宛てた、森竹竹市の手紙。

●評伝(小説?)「放浪の歌人・違星北斗」武井静夫
 連載、掲載紙不詳だが、北海道の雑誌かとおもわれる。(二回分、生い立ちから、小学校まで。精細な調査に基づいて書かれている)

●小説「泣血」阿部 忍
 原稿用紙100枚以上の大作。
 北斗の少年時代から、東京時代、帰道後、死まで。昭和27年。フィクションなので、事実に合わない点は多い。
 梗概「駒沢文壇第2号」昭和26年6月18日
 其の一「駒沢文壇3号」昭和26年7月20日
 其の二「波 第2号」昭和26年12月1日
 其の三「波 第3号」昭和27年2月1日
 其の四「波 第5号」昭和27年4月1日

管理人  ++.. 2006/03/25(土) 14:16 [150]

私も楽しみにしています。
「もうこれ以上は分からないだろう」とあきらめてたようなことが分かることって時々あるんですよね。私も地元のアイヌ史を調べていますが、びっくりするようなことを知ることもあります。もうとっくに散逸しててもおかしくないような資料を遺族の方が大事に持っていてくれて感動するようなこともあります。

その新資料の中身がどのようなものなのか知るのが楽しみです。

poronup  ++.. 2006/03/25(土) 16:48 [151]

2006年3月24日 (金)

にひはり

 北斗の作品が掲載された雑誌の中で、全く一号も目にしていないのは「にひはり」だけです。

 どこかの図書館にあると思うんだけれど……探して確認せねばと思います。
 俳句誌ですが、意外なことに、余市時代、上京後まで、二年以上も掲載され続けた雑誌でもあります。

 きっと、現物を見てみれば、いままで知らないことが書いてあると思いますので、いつか確認してみたいと思っています。
 探してみよう。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 12:58 [143]

あった。

三康図書館、東京都港区芝、増上寺の裏……。

って、増上寺!
なんという偶然!?

北斗の祖父万次郎が、明治の始めに連れてこられて勉強させられた芝増上寺にあるとは。

奇縁なのか……なんなのか。
しまった……何度か増上寺には行ってるけど……もう一度行かなければ。
そして、前回わからなかった、万次郎が学んだ清光寺の今も見てこよう。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 13:08 [144]

にひはりメモ

伊藤松宇
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-3.htm

「にひはり」は成田山仏教図書館にもある模様。

また、芥川龍之介の俳句も掲載されているようだ。
管理人  ++.. 2006/03/24(金) 13:22 [145]

にひはりは、神奈川近代文学館にもあり。

三康図書館は土日休みだから、ちょっと行けないので、こっちのほうがいいかも。
管理人  ++.. 2006/07/04(火) 21:20 [229]

2006年3月21日 (火)

違星北斗の東京・再び(その2)

3月12日

次の日、朝イチで新宿区中央図書館に向かいました。昨日、高田馬場で泊まったのは、この図書館に行きたかったからです。
 ここで、新宿区の戦前の地図を何種類か入手しました。新宿区は(新宿に限らないですが)、現在は戦前とは地名ががらっと変わってしまっていて、非常に味気ない地名になってしまっていたりします。
 新宿はもともとは「東京市」の外、東京府下の「郡部」で、まあ田舎だったのですが、関東大震災後、東京の町が郊外へ郊外へと拡がる過程で、西郊へのターミナルとして、爆発的に人口が増え、急激に発展していったという経緯があり、ちょうど、違星北斗がうろうろしていた大正の終わりごろはその過渡期であり、開発期の活気に溢れていたころだったようです。
 古い地図で見ると、北斗の勤めていた東京府市場協会は「四谷区三光町46番」は、花園神社と同じ区画の西側寄りのところにありました。

 
 新宿へ。
 日曜日の新宿はお父ちゃんやおばちゃんや、パンクやゴスロリやらヒップホップやらでごった返していましたが、その中を人波をかき分けて「花園神社」へと向かいました。
 花園神社はすぐ見つかりました。
 
 香ばしい「新宿ゴールデン街」の西側の道路から、階段を5メートルばかり登ると、狛犬が顔を出し、いきなり花園神社の境内、本殿の隣に出るのでした。
 おかしいな、市場協会があった46番地の辺も、今は神社になってしまっているのです。宮司さんに聞いてみると、昭和40年代に、本殿の位置が変わったのこと。では、そこにあったのだろうか、と思ったのですが、ちょっと待てよ。
 今登ってきた階段の隣、つまりゴールデン街より高くなっている「花園神社の地下」は、現在は鉄道の高架下のような感じになっていて、伊勢丹の倉庫とか、清水建設かなんかの事務所なんかが入っているのですが、これって、昔からそうなんだろうか? もしかしたら、ここに、同じような感じで、80年前に「東京府市場協会」が入っていたんじゃないだろうか、と思い始めました。


現在の花園神社界隈【横から見た図】
 西<>東

  もと新宿市場    /本\ 花園神社  _
  ゴールデン街  _|殿|______H_ 
 _ロロロロロロ__ロロ
            ↑ここに伊勢丹などの事務所・倉庫がある 

 
 まあ、とりあえず、違星北斗は80年前に確かにここに訪れたんだ、と思うことにして、次に行くことにしました。
 

 昼下がり。四谷へ。
 四谷にある「新宿歴史博物館」へ。
 昨日研究会でご一緒した四谷在住のLさんと合流しました。

 この博物館で知りたいのは2点。
 一点は先の「新宿区市場協会」の場所。
 そして、もう一点は、四谷見附の「牛鍋屋」について。

 違星北斗は1年半の東京暮らしのあと、その恵まれた環境をなげうち、北海道に戻って同族のために働くことを決意して、大正15年の7月、東京をあとにします。 
 この帰道の直前、四谷の三河屋という牛鍋屋で、北斗の送別会が開かれました。
 その牛鍋の三河屋が、四谷見附のどのへんにあったのかが知りたい。
 どうでもいいことなんですが、それが気になって、調べてみたいのでした。

 博物館へ行く道すがら、道行くご老人を捕まえては、いろいろ聞いてみましたが、なにせ80年も前のことですから、なかなかご存じでないようでした。お一人、憶えてらっしゃる方がいらっしゃいましたが、わかったのは道路のどっち側にあったかということだけでした。
 
 Lさんと合流して、博物館へ。
 とりあえず中に入り、学芸員さんに話して、閲覧室に入れて頂き、戦前の四谷や新宿の、商店の種類や名前なんかが入った詳細な住宅地図を見せていただきました。
 牛鍋屋の「三河屋」は一生懸命さがしたのですが、ありませんでした。
 しかし、いろいろ判明したことがありました。
 まず、四谷にも「東京府市場協会」の支部があることがわかりました。だから、唐突に四谷で送別会をしたというわけではないんですね。
 あと、新宿(四谷区三光町)の「東京府市場協会」について。市場協会の文字は見つかりませんでしたが、「新宿市場」が花園神社の西隣、ちょうど今の「新宿ゴールデン街」の場所にすっぽり収まるかたちでありました。
 なるほど。もし、市場協会の事務所が花園神社の地下にあったとしたら、これはこれですっきりとするのかもしれません。
 Lさんには、私がへどもどしていると、色々フォローしてくださいました。ありがとうございます。
 L様、調査にご協力いただき、またいろんなお話をお聞かせ頂いて、どうもありがとうございました。
 

 とりあえず、今回の調査で、北斗の東京での居場所の一部がなんとなくわかってきました。少しずつ、東京での北斗の姿がおぼろげながら、脳裏に浮かんでくるような感覚がありました。
 21世紀の色めく、めくるめくような週末の歓楽街を歩きながら、ただ一人、大正末期の新宿を、北斗をおいかけてあるいているような気がしました。
 
 当時の新宿もまた、北斗には刺激的な町だったことでしょう。一年半の東京での日々の中には、誘惑もあったでしょうし、時には誘惑に負けたこともあったかもしれない。
 ズルズルと惰性に堕ちていったこともあるかもしれないし、愛に溺れてその志を忘れた時もあったかもしれない。

 北斗の東京には、大きな空白の時期があります。記録が残っていないのは、北斗が残さなかったのか、誰かが意図的に残さなかったからでしょう。
 それは「アイヌの先覚者」「アイヌの彗星的歌人」「若くして逝ったアイヌの偉人」といった、真面目で潔癖でストイックな違星北斗のイメージに「ふさわしくない」からかもしれない。そういうイメージは、意図的に「編集」され、遺されていない可能性がある。
 しかし、もしかしたら、ヘッセの「シッダルタ」や、安吾の「堕落論」のように(安吾はちょっと違うか)、北斗は堕ちるところまで堕ちたんじゃないか(もちろん、周りから見て堕落したということじゃなく、彼がそう思っただけかもしれないですが)という気もしてきました。
 東京での日々を振り返る文章を読むと、そんな気もしてきます。もしかしたら、だからこそ、堕ちたぶんだけ、北斗は高いところを目指せたのかも知れない。
 あくまで、これは私の妄想なのですが。
 
 戦前の地図を片手に新宿の雑踏を歩いていると、そのようなことを考えずにはいれませんでした。
 
 この調査にご協力頂いた方、お世話になった方々に、感謝いたします。



管理人  ++.. 2006/03/21(火) 12:07 [139]

違星北斗の東京・再び(その1)

 
3月11日
 前日の夜、深夜バスで大阪から東京へ。
 「北方文化言語研究会」に出席するついでに、研究しているアイヌの歌人・違星北斗の調査をしてきました。

 土曜日の朝、生まれて始めて、「国立国会図書館」へ。
 国立国会図書館とは、基本的には戦後に発行された本は全部収まっている、日本の図書館の親玉みたいなものですね。
 
 あらかじめ、ネット上で調べておいたのですが、どうもここにしかないらしい、違星北斗が東京時代(大正末期)に勤めていた「東京府市場協会」の発行物があるんですね。

 ご存じのとおり、戦前は東京は「都」じゃなくて「府」でした。「市場協会」というのは、「米騒動」の反省から、国や自治体が、価格の高騰を防いだり供給を安定させたりといった、市場のコントロールをする必要があって「公設市場」というのができたのですが、それを統括していたのが、「市場協会」だったわけです。
 違星北斗は、そこに事務員として雇われ、月給40円(決して悪くない金額だそうです)をもらっていたのでした。
  
 その書物の奥付の「発行者」を見れば、北斗の勤務地がわかるので、前から国会図書館に行ったら見てやろうと思っていたのでした。

 で、国会図書館ですが、普通の図書館のように、利用者が直接本棚を回って探すことはできません。なにせ、蔵書がものすごく膨大ですから。申請して、探してもらうんですね。
 以前「国会図書館で調べ者をするのは一日仕事だ」というのを聞いていたので、半分ビビリながら行ったのですが、予想に反して実に快適でした。
 以前は何時間も待たされたそうなんですが、コンピュータ化により、たいていの場合は20分以内で見つけてくれるようになったそうです。
 パソコンで申請して、図書カウンターの前で待ってると、本が到着した利用者の番号が、大きな画面に映し出されるという仕組みです。

 本が届いたので、わくわくしながら奥付を見ると、発行元の東京府市場協会は「四谷区三光町」となっていました。

 四谷?
 北斗の勤務地は新宿だと思っていたのですが……意外でした。
 
 その後、何点か北斗に関する書物を調べていると、どこからともなく、私を呼ぶ声が。
 顔を上げると、大学でお世話になっているT先生がいらっしゃるではないですか。ビックリ!
 先生も調べものをされているようで、雑誌を抱えておられました。
 
 調べものを終えて、早稲田へ。
 今回のメインエベントである、「北方言語文化研究会」が早稲田大学で開かれるのでした。
 私は素人研究者で、こういう研究会に出たこともなかったのですが、いつもアイヌ関係の情報をメールしてくださるNさんから声をかけていただいたのでした。
 Nさんは、今回のテーマ「戦前の言論活動に表れたアイヌ民族の自立と協同」を見て、「これは違星北斗のことを研究しているに違いない」と私にメールくださったのですが、実は違星北斗ではなかったとあとでわかりました。しかし、当たらずとも遠からずというテーマだったので、上京して出席することにしました。
 出て見て、やっぱり正解でした。
 発表されたU先生のお話されたことは、ちょうど私がいま考えている「修養」ということにリンクすることでした。
 修養っていうのは、戦前なんかによくいわれた自己向上のキーワードで、戦前の若者たちの多くは、学問して偉くなり、生活を改善しよう、人格を鍛えてよい人間になろう、社会に役に立つ(お国のためになる)人間になろうというような向上心を持っていたようで、そのために地域で青年団が結成されて勉強会をしたり、夜学に通ったり、通信教材で勉強したりしていて、違星北斗もそのような「修養」によって、新たな世界へ飛び出した若者の一人でした。
 発表者のU先生に違星北斗について質問されましたが、しどろもどろになって、何を言っているかわからなくなってしまいました。
 
 研究会のあと、近くのお店でお話をしました。私も何冊か本を読んだことがある田村すず子先生のお話を伺えたのは本当に感激しました。さらに二次会でお話しました。
 オンラインでは何度もお見かけしたことのある伝説の女性Lさんとお会い出来たのもビックリでした。

 その夜は、高田馬場のネットカフェに泊まりました。いくつかの新データを整理して、ホームページのBBSに書き込み、懸案の北斗の勤務先「四谷区三光町」を調べていると、ちょうど先程までいっしょだったYさんからメールが入りました。「四谷区三光町は、今の新宿区新宿五丁目にあたり、ちょうど花園神社の界隈である」とのことでした。
 なるほど。やはり新宿でよかったんだ、と思い、明日、その現場に行ってみようと思いました。

 そのネットカフェがとにかく狭くて、仕切もなくて、全然落ち着けなかったので、結局、その夜はあまり眠れませんでした。
 やっぱり、新宿まで出て、前に泊まった個室のところにすればよかった、と思いました。

2006年3月18日 (土)

北斗と禁酒

2006年03月18日11:01

 大正15年、東京での恵まれた生活をなげうって、北海道へと舞い戻った違星北斗は、アイヌの同族のために活動を始めます。和人によって「滅び行く民族」という烙印を押されていたアイヌのイメージを一掃しようと、「俺はアイヌだ、アイヌはここにいるぞ」という叫びをあげたのでした。
 彼は「アイヌの手によるアイヌ研究」を志して、また全道各地のアイヌコタンをめぐって、バラバラだった同族の自覚を促し、団結を呼びかけて、コタンからコタンを結ぶネットワークを構築しようとしました。

 ところが、北斗のその熱い思いを裏切るように、その真摯な瞳に飛び込んできたのは、同族の悲惨な現実でした。
 貧困、病苦、差別、諦め。
 悪循環の構図でした。そして、その循環を加速させていたのが彼が「悪魔」とさえ呼んだ「酒」でした。

 違星北斗が「酒」について歌った歌をあげてみます。
(仮名遣いは現代仮名遣いに、漢字の表記も若干改めてあります)。

  酒ゆえか無智ゆえかは知らねども 
  見せ物のアイヌ連れて行かれる

  限りなき その寂寥をせめてもの
  悲惨な酒に まぎらそうとする

  いとせめて酒に親しむ同族に
  この上とても酒呑ませたい

  現実の苦と引き替えに魂を削る
  たからに似ても酒は悪魔だ!

  ああアイヌはやっぱり恥しい民族だ
  酒にうつつをぬかす其の態

  泥酔のアイヌを見れば我ながら
  義憤も消えて憎しみの湧く

  山中のどんな淋しいコタンにも
  酒の空瓶 たんと見出した


 北斗は、山中のコタンに、あるいは海辺のコタンに、あるいは故郷のコタンに、行く先々に、酒に溺れ、身を持ち崩す同族の姿を見ました。まさにそれは同族の心と体を蝕む「悪魔」だと考えていました。

 この「禁酒」への北斗の考え方は、すでに上京前に、恩師の奈良直弥先生のもとで結成した「茶話笑学会」のモットーの中にもあります。
 この「茶話笑学会」は、大正期から戦前のいわゆる「青年団」運動の流れの中にあるものと考えられます。
 この青年団の運動は、北海道に限らず、全国の村や町の地域コミュニティの中で、青年たち(男子だけでなく、女子もありました)を団結させ、修養させるという全国的なムーブメントで、青年団の指導には多くの場合、教育者や退役軍人など地元の名士があたったようです。
 青年団の活動はたとえば、「夜学校」のように夜集まって勉強会を開いたりして、青年たちの意識を高めてゆきました。
 貧困から抜け出すための「生活向上」のため「勤勉」し「貯蓄」を奨励し、知性や人格を磨き、そのベクトルは「よりよい人間、お国のためにお役に立てる人間になる」と言う方向に向いていました。その修養思想の中で、重要な要素が「禁酒」だったのです。

 大正時代とは、都会ではモダンな消費文化が花開いた時代だという反面、地方の青年たちにはストイックで右傾化の進んだ時代だったと言えるかもしれません。
 つまりは違星北斗は東京で、そういう時代の最先端の思想を吸収して北海道に帰ってきたのでした。

 違星北斗は思想の遍歴をした人で、地元の余市の青年団にはじまり、その影響から修養雑誌「自働道話」の西川光次郎、そのつてで東京に出て、社会運動団体「希望社」の後藤静香に傾倒する一方で、国粋的日蓮主義の田中智学の「国柱会」に入信もしていました。また、北海道に戻って「アイヌの父」と呼ばれた英国人宣教師ジョン・バチラーや、その養女のバチラー八重子の影響も受けました。奈良は北斗の恩師、田中智学は元日蓮宗の僧侶ですが、それ以外の人はキリスト教の洗礼をうけています。
 これらの人々が持っている思想は、一様にストイックで、「国家のためによい人間になるため修養しよう」というものであり、それが帰道後の北斗の「右傾的」とも読める発言のもとになっています。
 全国の津々浦々にあった青年団はもともとは、「若者組」と呼ばれるような、江戸時代からの農村漁村の互助的なコミュニティーであったわけですが、それが国家の思想支配の末端としての修養勉強会となったのが、この時代でした。
 「修養」は、苦しい日常を改善する「生活向上」のための手段として、若者の心をつかみ、じわじわと「お国のために」勤勉で従順で国民を作りだし、やがて未曾有の大戦争へと繋がっていくための準備が整っていったのでした。

 話がそれましたが、この「禁酒」というのは、単に酒をやめるということだけでなく、そういった軍国主義の時代へと向かうための、意外に重要なキーワードでもあったのです。

2006年3月12日 (日)

立命館


 京都の立命館大学まで、「自動道話」「子供の道話」を見に行きました。
 すでに「金光図書館」で確認していたのですが、抜けがあったので、それをフォローするためです。

 あらかじめ蔵書を検索して、「自働道話」大正14年、大正15年、「子供の道話」大正14年があるということで行ったのだけど……

 あまり、いい結果ではありませんでした。
 WEB上で確認したとき「大正14年」「大正15年」という文字を見て、
「やった、一年分が合本であるんだ!」と思って行ったのですが、行ってみると、それぞれ1ヶ月分、一冊ずつしかなくて、それも金光で確認したものでした。

 「子供の道話」は見てないものでしたが、見たかった大正15年8月号はありませんでした。

 いずれにしても、もう一度金光図書館に行かなければいけないようです。

管理人  ++.. 2006/03/12(日) 01:54 [137]

2006年3月 6日 (月)

東京での調査3 三河屋

3月5日、新宿歴史博物館へ。

 学芸員の方に東京府市場協会の場所と、北斗の送別会が行われた「四谷の三河屋」について、聞きました。

>  そういえば「自働道話」大正十五年八月号に
>
>  △アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。
>

 歴史博物館に至る道のりの途中、この「四谷の三河屋」について、四谷で聞き取り調査してみました。
 これは牛鍋のお店で、東京でも有数の名店だったそうです。
 通りがかりのご老人や、古そうなお店の方にお聞きしたのですが、半分以上は「知らない」とのこと。
 80年も前のことだから、そりゃそうでしょうね。
 一人、80過ぎぐらいのご老人が「あったあった、通りの右側にあった」とおっしゃってくださいました。
 通りというのは、四谷見附の交差点のある、新宿通りのことです。

 この三河屋の場所、四谷見附の新宿通りの、右側にあったということですが、詳しい場所は結局わかりませんでした。
 
 ただ、歴史博物館でお見せいただいた地図によると、「東京府市場協会」の四谷の支部(?)がこの界隈にあったんですね。現在の四谷1丁目の、23番地です。

http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&ZM=11&CI=R&OMAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&SMAP=E139.43.51.0N35.41.2.3&SP=1&MS=1&KN=0&CTG=&CT=&CW=&s1=%A2%A9160%2D0004%20%20%C5%EC%B5%FE%C5%D4%BF%B7%BD%C9%B6%E8%BB%CD%C3%AB%A3%B1%2D%A3%B2%A3%B3

今の東貨健保会館のある場所です。
北斗は四谷もウロウロしていたんでしょうね。

管理人  ++.. 2006/03/06(月) 15:26 [130] 

四谷三河屋情報
『蘭亭ぽん多』のホームページ
 http://www.tcn-catv.ne.jp/~rantei/syokubunka.htm
黒田清輝日記(黒田清輝記念館)
【1915.12.14】    http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1915/dy9151214x.html
【1918.01.26】
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1918/dy9180126x.html
日めくり漢字歳時記
http://www.migikata.net/kanji_saijiki/200412/a/a_20041229.html
白鳥省吾関連年別データベース
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~y-sato/mtdata13.htm

三河屋にはカフェも洋風酒場もあったんですね。

管理人  ++.. 2006/03/06(月) 16:26 [131]

今和次郎の『新版 大東京案内』(ちくま文庫)の「味覚の東京」に

 日本独特の牛鍋は、また東京自慢の一つで、銀座の「松喜」。四谷の「三河屋」。よし町の「今清」に神田の「今文」。

とありますね。

また仲田定之助の『明治商売往来』(ちくま文庫)の「牛鍋屋」の項には

 東京一の牛屋と世評が高かったのは四谷見附の三河屋だったが、地理的に遠かったのでわたしは一、二度しかいったことがない。とあります。
 
やはり有名な牛鍋屋だったんですね。

管理人  ++.. 2006/03/07(火) 00:37 [133]

2006年3月 5日 (日)

東京での調査2 医文学

「医文学」について。

 せっかく国会図書館に来たので、これまで現物を見たことがなかった「医文学」をさがしてみました。
 ありました。北斗が掲載された大正15年9月号。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 02:45 [122]


アイヌの一青年から   藻城生

 アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝ
なつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくも
あるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。


 謹んで申し上げます
 私しは一年と五ケ月を、東京に暮しました、誠に幸福でありました、これもみんな皆様の御同情と御祈の賜と感謝してゐます、私しは今度突然北海道に帰ることになりました、折角かげとなりひなたとなつて御鞭撻下さった皆様の御期待に叛くやうでありますが、どうぞ御許し下さいまして相不変御愛導をお願申します。申し上るまでもありませんが人類の奇蹟の如く、日本は二千五百八十六年の古より光は流れ輝いてゐます、建国の理想も着々として実現し、吾が北海道も二十世紀の文明を茲に移し、アイヌは統一され、そして文化に浴し日本化して行く。それはたとへ建国の二千五年(ママ)後で少く遅かったにしても、「彌や栄ゆる皇国」として皆様とこの光栄をともにいたしますことを悦びます。
 乍然この国に生れこの光栄を有してゐても過渡期にあるアイヌ同族(ウタリ)は、果して楽観すべき境遇にあるでせうか? 昔の面影もどこへやら精神は萎縮する民族自身は(或は他からも)卑下する誇るべき何物をも持ってゐないそしてあの冷たい統計を凝視る至る処に聴くアイヌと云ふ言葉それは亡び行く者」「無智無気力の代名詞の感があります、本当に残念なこと、お恥しいことであります、これも単に同族の不名誉であるばかりでなく我大日本の恥辱であることを思ふと真に大和民族に対し面目次第もないことであります、自然淘汰や運命と云ふ大きな力であるからどうすることも出来ませんが只だ古俗の研究はとうてい不可能也とされてゐる今日、誰かアイヌの中から己が自身を研究する者が出なければならないのであります。
 今の民族の弱さを悲しむ時は恩恵的や同情的ことにどうして愉快を感ぜられやう。
 アイヌを恥て外形的シャモになる者……又は逃げ隠れる者は祖先を侮辱する者である
 私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません 。今にアイヌは強き者の名となるの日を期してよい日本人の手本となることに努力せねばなりません。
不取敢・今の最も大なる問題は「老人の死亡と古俗の消滅と密接な関係がある」から年寄の多い中に研究の歩を進めなければなりません。
 私しは伝説や瞑想の世界に憧憬てアイヌの私し共は最善を尽して出来るだけ大勢に調和することであります、それにはアイヌからすべての人材を送り出し、民族的にも国家的にも大いに貢献し幸福を増進せねばなりません。その為に昔のアイヌ、所謂、純粋が無くなるから無くなっても一向差しつかへないのであります、吾々は同化して行く事が大切の中の最も大切なものであると存じます、かふして同化はアイヌの存在も見分が付かなくなるであらう、それで何の不都合もない、けれど、過去の事実を永遠に葬てはいけない。
吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの己が誇を永い間わすれられてゐた、とこしへに消去らうとしたのを、金田一京助先生の手に依而危くも救はれた、私し共は衷心から感謝するものであります、十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。
 それにしても何等の経験も予備知識もない貧弱な自分を省るとき心細さを感ぜずには居られません、けれども私は信じます。
 東京の幸福より尊く。金もうけより愉快なことであります、そしてこれが私の唯一の使命であることを
 どうぞ皆様
 私しはかふして東京を去ります宜敷く御教導の程偏に御願申し上げる次第であります。
  大正十五年六月三十日                                  違星瀧次郎



※下線部、原文では傍点
※この文は「藻城生」こと長尾折三(医文学編集者)。
同じ号の編集後記「編輯落葉籠」にも北斗に関する言及があります。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:06 [123]


編輯落葉籠

(前略)
△北海道日高国沙流郡平取村のアイヌ族違星北斗氏から左のやうな短歌を寄せられた。

 沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰夏なほ寒し平取コタン。

 今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ

 お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ豆の畑で草取してゐる。

 たち悪くなれとの事が今の世に生きよと云ふ事に似てゐる

 卑屈にもならされてゐると哀なるあきらめに似た楽を持つ人々

 東京から手紙が来るとあの頃が思出すなりなつかしさよ。

 酒故か無智故かはしらねども見せ物のアイヌ連れて行かるゝ。

 利用されるアイヌもあり利用するシャモもあるなり哀れ世の中

 本号に掲載の違星氏の書面と此歌を読む我読者諸君は果して如何の感があらうか。一視同仁の意義は吾等は努めて之れを実現せねばならぬ。(後略)

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:17 [124]

 草風館版「コタン」は、遺稿集ということもあり、違星北斗以外の人の文は載せられないのかもわかりませんが、このように、他人の文章の中で北斗の文を引用しているような場合でも、草風館版「コタン」では、前後の文脈を無視して、北斗の文のみを載せています。
 解題として若干のフォローがありますが、結果として、分かりにくくなっているところがあるのは否めないように思います。

 このカットされているところから、新事実がわかりました。
 長尾折三に北斗を紹介したのは「松宮春一郎」とあります。
 これは知りませんでした。
 この松宮春一郎は、小説家の山中峯太郎に北斗を紹介した人物でもあります。

 この本は、かうして書いた

『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。

 ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。

 (山中峯太郎『コタンの娘』「前書き」)


 松宮は金田一や中山太郎といった「東京アイヌ学会」の人々と関係があるのでしょう。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:25 [125]

同じく「医文学」大正15年10月号より


△北海道のアイヌ違星北斗氏から葉書来る。北海道全道を盛に旅行して居るそうだ。二風谷村から投函されたものだ。書中俳句二つ。

  川止めになつてコタン(村)に永居かな
  またしても熊の話しやキビ果入る
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 07:49 [126]


ずっと前からですが、この、「キビ果入る」の意味がわかりません。
 どういうことでしょう。

 「キビ果」が「入る」のか、「キビ」が「果(は)」て「入る」のか、それとも誤植なのか……。

 わかりませんね。

管理人  ++.. 2006/03/07(火) 10:41 [134]



ちなみに、この文章のちょっと前の文章は、長尾折三のところに宮武外骨が遊びに来たというお話です。

ついに……宮武外骨まであらわれたか!

「トモダチのトモダチは皆トモダチだ」の法則でいうと、違星北斗のトモダチは凄い人ばっかりだなあ。

 中也も賢治も啄木も、石原完爾も孫文も皆トモダチです。

管理人  ++.. 2006/03/08(水) 10:58 [136]

東京での調査4 その他

・ 岩崎吉勝「望」大正7年・希望社
 
  特筆すべきことはなし。
  
・ 並木凡平
  「路傍の花」昭和3年
  「赤土の丘」昭和8年
  
 特になし。

 ただ……

 「赤土の丘」に

  新生の力をこめて除夜の鐘
  なるまた一つなる


 という歌(昭和3年)がありますが、これは北斗の

 俺のつくこの鐘の音に新年が生れて来るか精一っぱいつく
 新生の願は叶へと渾身の力を除夜の鐘にうちこむ
(自働道話昭和三年二月)




 と、よく似ているような気がします。
 まあ、といっても、全く同時期に読まれたものですし、どちらかが盗作というようなことではなく、「新生」という言葉が共通しているだけだといえば、それだけかもしれないですが。
  

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 02:42 [121]

東京での調査1 東京府市場協会

午前中、国会図書館で調べ物

 
 1. 現代配給組織鉤玄 / 高見沢清. -- 東京府市場協会, 昭和3


 これは、国会図書館にある唯一の「東京府市場協会」発行の書物です。この市場協会とは、東京時代の北斗の勤務先ですね。

 内容は、市場協会の高見沢氏(北斗の身元引受人といってもいいでしょう)の書いた、流通の組織化についての理論。むづかしくてとても理解できませんが、この市場協会のような組織は、「米騒動」をきっかけとして生まれたようです。府なり市なりが介入する「公設市場」を設けることにより、物価の高騰を防ぐのが目的だったとおぼろげに理解しています。
(こんどもっとちゃんと調べておきます)。

 で、私にとって重要なのはその中身ではなく、その「奥付」です。
 北斗の勤務地を特定すること。

 高見沢清の住所は
 「東京府豊多摩郡淀橋町字角筈316番地」
 で、これは前から知っていたのですが、
 財団法人 東京府市場協会は
 「東京市四谷区三光町46番地」
 だそうです。
 
 ここが、違星北斗の、勤務先だということでしょう。

 そういえば「自働道話」大正十五年八月号に

 △アイヌ族の青年違星北斗君が、アイヌ族の根本的研究を思ひ立ち、市場協会を辞して、北海道に帰へらるゝことになったので、六月末日、一夕、違星君を招き、高田、額田、佐々木、高山の諸君と共に、四谷の三河屋で会食いたしました。

 とありましたね。四谷はホームグラウンドだったわけです。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 00:20 [119]

 …と思ったら、「三光町」は今の新宿5丁目なんですね。
 やっぱり「新宿」か。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 00:41 [120]


北斗がいた「東京府市場協会」ですが、番地の上では花園神社の裏あたりなのですが、戦前の地図では、隣接する地域、今の「新宿ゴールデン街」のところにあったりしています。

ゴールデン街の歴史を調べると、なにか出てくるかもしれないですね。


管理人  ++.. 2006/03/06(月) 12:58 [127] 


 これについては、研究会でお会いしたYさんに、早々にメールでご教示いただきました。

以下、Yさんのメールから:

>三光町の件、さっそく調べてみたところ、下記でHITしました
>http://www.geocities.jp/pccwm336/sub12.html
>(この中の花園神社の説明のところ)

>新宿東口から伊勢丹に向かい、北に2本ほど通りを越えると
>花園神社があります。
>あそこが廃仏毀釈前は三光院という寺院と同居していて、
>あたり一体が三光町だったそうです
>現在の新宿5丁目の一部にあたるようです

 なるほど。
 北斗の勤務先の市場協会のあったのは、46番地になるのですが、花園神社と同じ区画に入っているので、神社の裏、もしくは「一部」になってしまいます。
 戦前の地図では道路を挟んだところ、52番地に(現在の新宿ゴールデン街の一帯)に「新宿市場」があります。しかし、46番地の市場協会の事務所はそこではないと思います。
 現在、花園神社の西側の地下はコンクリートの建物で盛り上げられていて事務所のようになっています。ゴールデン街とは5メートルぐらいの高低差があるんです(表現難しい)。


現在の花園神社界隈【横から見た図】
 西<>東

  もと新宿市場    /本\ 花園神社  _
  ゴールデン街  _|殿|______H_ 
 _ロロロロロロ__ロロ
            ↑ここに伊勢丹などの事務所・倉庫がある 

 この、花園神社の地下の事務所の部分がもしかしたら、市場協会のあった46番なのかもしれないと思ったのですが、このような高度な建築が当時可能だったのかとも思います。
 花園神社の方にお聞きしたところ、神社の本殿は昭和40年代に神社の中で移動したということですから、本殿がのっかっていなかったとしたら、もしかしたら大正末にもこういうような建築が可能だったのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/03/06(月) 14:19 [129]



 ゴールデン街の由来は戦後の「闇市」なんですね。

 なるほど、かつて新宿市場だったところに闇市が立つというのはよくわかる気がします。
 
 ゴールデン街の公式HPには、何もないすすきの原だったようなことが書かれていますが、それはどうなんだろう。
 戦前のすくなくとも昭和12年ごろの地図には都電の車庫と花園神社に挟まれた形で新宿市場があるわけで……ススキの原になったとしたら、戦争で焼け野原になったあとかもしれないですね。
管理人  ++.. 2006/03/07(火) 10:46 [135]

続きを読む "東京での調査1 東京府市場協会" »

2006年3月 2日 (木)

岩崎吉勝/高見沢清

 
岩崎吉勝の著書
イワサキ ユウカ【岩崎有香(吉勝)】『望』1920/希望社/218p/15cm

国会図書館にあり。


管理人  ++.. 2006/03/02(木) 23:26 [116]

高見沢清

 国会図書館に

1. 現代配給組織鉤玄 / 高見沢清. -- 東京府市場協会, 昭和3

 があり。


 これの奥付を見れば、東京府市場協会の場所がわかりますね。

 


管理人  ++.. 2006/03/03(金) 11:22 [118]

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