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2006年3月21日 (火)

違星北斗の東京・再び(その2)

3月12日

次の日、朝イチで新宿区中央図書館に向かいました。昨日、高田馬場で泊まったのは、この図書館に行きたかったからです。
 ここで、新宿区の戦前の地図を何種類か入手しました。新宿区は(新宿に限らないですが)、現在は戦前とは地名ががらっと変わってしまっていて、非常に味気ない地名になってしまっていたりします。
 新宿はもともとは「東京市」の外、東京府下の「郡部」で、まあ田舎だったのですが、関東大震災後、東京の町が郊外へ郊外へと拡がる過程で、西郊へのターミナルとして、爆発的に人口が増え、急激に発展していったという経緯があり、ちょうど、違星北斗がうろうろしていた大正の終わりごろはその過渡期であり、開発期の活気に溢れていたころだったようです。
 古い地図で見ると、北斗の勤めていた東京府市場協会は「四谷区三光町46番」は、花園神社と同じ区画の西側寄りのところにありました。

 
 新宿へ。
 日曜日の新宿はお父ちゃんやおばちゃんや、パンクやゴスロリやらヒップホップやらでごった返していましたが、その中を人波をかき分けて「花園神社」へと向かいました。
 花園神社はすぐ見つかりました。
 
 香ばしい「新宿ゴールデン街」の西側の道路から、階段を5メートルばかり登ると、狛犬が顔を出し、いきなり花園神社の境内、本殿の隣に出るのでした。
 おかしいな、市場協会があった46番地の辺も、今は神社になってしまっているのです。宮司さんに聞いてみると、昭和40年代に、本殿の位置が変わったのこと。では、そこにあったのだろうか、と思ったのですが、ちょっと待てよ。
 今登ってきた階段の隣、つまりゴールデン街より高くなっている「花園神社の地下」は、現在は鉄道の高架下のような感じになっていて、伊勢丹の倉庫とか、清水建設かなんかの事務所なんかが入っているのですが、これって、昔からそうなんだろうか? もしかしたら、ここに、同じような感じで、80年前に「東京府市場協会」が入っていたんじゃないだろうか、と思い始めました。


現在の花園神社界隈【横から見た図】
 西<>東

  もと新宿市場    /本\ 花園神社  _
  ゴールデン街  _|殿|______H_ 
 _ロロロロロロ__ロロ
            ↑ここに伊勢丹などの事務所・倉庫がある 

 
 まあ、とりあえず、違星北斗は80年前に確かにここに訪れたんだ、と思うことにして、次に行くことにしました。
 

 昼下がり。四谷へ。
 四谷にある「新宿歴史博物館」へ。
 昨日研究会でご一緒した四谷在住のLさんと合流しました。

 この博物館で知りたいのは2点。
 一点は先の「新宿区市場協会」の場所。
 そして、もう一点は、四谷見附の「牛鍋屋」について。

 違星北斗は1年半の東京暮らしのあと、その恵まれた環境をなげうち、北海道に戻って同族のために働くことを決意して、大正15年の7月、東京をあとにします。 
 この帰道の直前、四谷の三河屋という牛鍋屋で、北斗の送別会が開かれました。
 その牛鍋の三河屋が、四谷見附のどのへんにあったのかが知りたい。
 どうでもいいことなんですが、それが気になって、調べてみたいのでした。

 博物館へ行く道すがら、道行くご老人を捕まえては、いろいろ聞いてみましたが、なにせ80年も前のことですから、なかなかご存じでないようでした。お一人、憶えてらっしゃる方がいらっしゃいましたが、わかったのは道路のどっち側にあったかということだけでした。
 
 Lさんと合流して、博物館へ。
 とりあえず中に入り、学芸員さんに話して、閲覧室に入れて頂き、戦前の四谷や新宿の、商店の種類や名前なんかが入った詳細な住宅地図を見せていただきました。
 牛鍋屋の「三河屋」は一生懸命さがしたのですが、ありませんでした。
 しかし、いろいろ判明したことがありました。
 まず、四谷にも「東京府市場協会」の支部があることがわかりました。だから、唐突に四谷で送別会をしたというわけではないんですね。
 あと、新宿(四谷区三光町)の「東京府市場協会」について。市場協会の文字は見つかりませんでしたが、「新宿市場」が花園神社の西隣、ちょうど今の「新宿ゴールデン街」の場所にすっぽり収まるかたちでありました。
 なるほど。もし、市場協会の事務所が花園神社の地下にあったとしたら、これはこれですっきりとするのかもしれません。
 Lさんには、私がへどもどしていると、色々フォローしてくださいました。ありがとうございます。
 L様、調査にご協力いただき、またいろんなお話をお聞かせ頂いて、どうもありがとうございました。
 

 とりあえず、今回の調査で、北斗の東京での居場所の一部がなんとなくわかってきました。少しずつ、東京での北斗の姿がおぼろげながら、脳裏に浮かんでくるような感覚がありました。
 21世紀の色めく、めくるめくような週末の歓楽街を歩きながら、ただ一人、大正末期の新宿を、北斗をおいかけてあるいているような気がしました。
 
 当時の新宿もまた、北斗には刺激的な町だったことでしょう。一年半の東京での日々の中には、誘惑もあったでしょうし、時には誘惑に負けたこともあったかもしれない。
 ズルズルと惰性に堕ちていったこともあるかもしれないし、愛に溺れてその志を忘れた時もあったかもしれない。

 北斗の東京には、大きな空白の時期があります。記録が残っていないのは、北斗が残さなかったのか、誰かが意図的に残さなかったからでしょう。
 それは「アイヌの先覚者」「アイヌの彗星的歌人」「若くして逝ったアイヌの偉人」といった、真面目で潔癖でストイックな違星北斗のイメージに「ふさわしくない」からかもしれない。そういうイメージは、意図的に「編集」され、遺されていない可能性がある。
 しかし、もしかしたら、ヘッセの「シッダルタ」や、安吾の「堕落論」のように(安吾はちょっと違うか)、北斗は堕ちるところまで堕ちたんじゃないか(もちろん、周りから見て堕落したということじゃなく、彼がそう思っただけかもしれないですが)という気もしてきました。
 東京での日々を振り返る文章を読むと、そんな気もしてきます。もしかしたら、だからこそ、堕ちたぶんだけ、北斗は高いところを目指せたのかも知れない。
 あくまで、これは私の妄想なのですが。
 
 戦前の地図を片手に新宿の雑踏を歩いていると、そのようなことを考えずにはいれませんでした。
 
 この調査にご協力頂いた方、お世話になった方々に、感謝いたします。



管理人  ++.. 2006/03/21(火) 12:07 [139]

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