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2006年3月 5日 (日)

東京での調査2 医文学

「医文学」について。

 せっかく国会図書館に来たので、これまで現物を見たことがなかった「医文学」をさがしてみました。
 ありました。北斗が掲載された大正15年9月号。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 02:45 [122]


アイヌの一青年から   藻城生

 アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝ
なつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくも
あるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。


 謹んで申し上げます
 私しは一年と五ケ月を、東京に暮しました、誠に幸福でありました、これもみんな皆様の御同情と御祈の賜と感謝してゐます、私しは今度突然北海道に帰ることになりました、折角かげとなりひなたとなつて御鞭撻下さった皆様の御期待に叛くやうでありますが、どうぞ御許し下さいまして相不変御愛導をお願申します。申し上るまでもありませんが人類の奇蹟の如く、日本は二千五百八十六年の古より光は流れ輝いてゐます、建国の理想も着々として実現し、吾が北海道も二十世紀の文明を茲に移し、アイヌは統一され、そして文化に浴し日本化して行く。それはたとへ建国の二千五年(ママ)後で少く遅かったにしても、「彌や栄ゆる皇国」として皆様とこの光栄をともにいたしますことを悦びます。
 乍然この国に生れこの光栄を有してゐても過渡期にあるアイヌ同族(ウタリ)は、果して楽観すべき境遇にあるでせうか? 昔の面影もどこへやら精神は萎縮する民族自身は(或は他からも)卑下する誇るべき何物をも持ってゐないそしてあの冷たい統計を凝視る至る処に聴くアイヌと云ふ言葉それは亡び行く者」「無智無気力の代名詞の感があります、本当に残念なこと、お恥しいことであります、これも単に同族の不名誉であるばかりでなく我大日本の恥辱であることを思ふと真に大和民族に対し面目次第もないことであります、自然淘汰や運命と云ふ大きな力であるからどうすることも出来ませんが只だ古俗の研究はとうてい不可能也とされてゐる今日、誰かアイヌの中から己が自身を研究する者が出なければならないのであります。
 今の民族の弱さを悲しむ時は恩恵的や同情的ことにどうして愉快を感ぜられやう。
 アイヌを恥て外形的シャモになる者……又は逃げ隠れる者は祖先を侮辱する者である
 私共は閑却されてゐた古習俗の中よりアイヌの誇を掘り出さねばなりません 。今にアイヌは強き者の名となるの日を期してよい日本人の手本となることに努力せねばなりません。
不取敢・今の最も大なる問題は「老人の死亡と古俗の消滅と密接な関係がある」から年寄の多い中に研究の歩を進めなければなりません。
 私しは伝説や瞑想の世界に憧憬てアイヌの私し共は最善を尽して出来るだけ大勢に調和することであります、それにはアイヌからすべての人材を送り出し、民族的にも国家的にも大いに貢献し幸福を増進せねばなりません。その為に昔のアイヌ、所謂、純粋が無くなるから無くなっても一向差しつかへないのであります、吾々は同化して行く事が大切の中の最も大切なものであると存じます、かふして同化はアイヌの存在も見分が付かなくなるであらう、それで何の不都合もない、けれど、過去の事実を永遠に葬てはいけない。
吾ら祖先の持ってゐた、元始思想、其の説話、美しき瞑想、その祈り等、自分のもの己が誇を永い間わすれられてゐた、とこしへに消去らうとしたのを、金田一京助先生の手に依而危くも救はれた、私し共は衷心から感謝するものであります、十年の後には純然たるコタンに参ります、喜び勇んで参ります。
 それにしても何等の経験も予備知識もない貧弱な自分を省るとき心細さを感ぜずには居られません、けれども私は信じます。
 東京の幸福より尊く。金もうけより愉快なことであります、そしてこれが私の唯一の使命であることを
 どうぞ皆様
 私しはかふして東京を去ります宜敷く御教導の程偏に御願申し上げる次第であります。
  大正十五年六月三十日                                  違星瀧次郎



※下線部、原文では傍点
※この文は「藻城生」こと長尾折三(医文学編集者)。
同じ号の編集後記「編輯落葉籠」にも北斗に関する言及があります。
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:06 [123]


編輯落葉籠

(前略)
△北海道日高国沙流郡平取村のアイヌ族違星北斗氏から左のやうな短歌を寄せられた。

 沙流川のせゝらぎつゝむあつ霰夏なほ寒し平取コタン。

 今朝などは涼しどころか寒いなり自炊の味噌汁あつくして吸ふ

 お手紙を出さねばならぬと気にしつゝ豆の畑で草取してゐる。

 たち悪くなれとの事が今の世に生きよと云ふ事に似てゐる

 卑屈にもならされてゐると哀なるあきらめに似た楽を持つ人々

 東京から手紙が来るとあの頃が思出すなりなつかしさよ。

 酒故か無智故かはしらねども見せ物のアイヌ連れて行かるゝ。

 利用されるアイヌもあり利用するシャモもあるなり哀れ世の中

 本号に掲載の違星氏の書面と此歌を読む我読者諸君は果して如何の感があらうか。一視同仁の意義は吾等は努めて之れを実現せねばならぬ。(後略)

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:17 [124]

 草風館版「コタン」は、遺稿集ということもあり、違星北斗以外の人の文は載せられないのかもわかりませんが、このように、他人の文章の中で北斗の文を引用しているような場合でも、草風館版「コタン」では、前後の文脈を無視して、北斗の文のみを載せています。
 解題として若干のフォローがありますが、結果として、分かりにくくなっているところがあるのは否めないように思います。

 このカットされているところから、新事実がわかりました。
 長尾折三に北斗を紹介したのは「松宮春一郎」とあります。
 これは知りませんでした。
 この松宮春一郎は、小説家の山中峯太郎に北斗を紹介した人物でもあります。

 この本は、かうして書いた

『世界聖典全集』を出版した松宮春一郎さんの名刺を持って、顔の黒い精悍な感じのする青年が、私をたづねて来た。松宮さんの名刺に、「アイヌの秀才青年ヰボシ君を紹介します。よろしくお話し下さい。」と、書かれてゐた。

 ヰボシ君と私は、その後、かなり親しくなった。アイヌ民族の事情について、さまざまな話をヰボシ君が聞かせてくれた。その話を材料にして私は「民族」を書いた。しかし出版すると発売禁止になった。今度それを書き改め、前には書けなかつたことを、思ふとほりに書きたしたので、名まへも改めたのである。

 (山中峯太郎『コタンの娘』「前書き」)


 松宮は金田一や中山太郎といった「東京アイヌ学会」の人々と関係があるのでしょう。

管理人  ++.. 2006/03/05(日) 03:25 [125]

同じく「医文学」大正15年10月号より


△北海道のアイヌ違星北斗氏から葉書来る。北海道全道を盛に旅行して居るそうだ。二風谷村から投函されたものだ。書中俳句二つ。

  川止めになつてコタン(村)に永居かな
  またしても熊の話しやキビ果入る
管理人  ++.. 2006/03/05(日) 07:49 [126]


ずっと前からですが、この、「キビ果入る」の意味がわかりません。
 どういうことでしょう。

 「キビ果」が「入る」のか、「キビ」が「果(は)」て「入る」のか、それとも誤植なのか……。

 わかりませんね。

管理人  ++.. 2006/03/07(火) 10:41 [134]



ちなみに、この文章のちょっと前の文章は、長尾折三のところに宮武外骨が遊びに来たというお話です。

ついに……宮武外骨まであらわれたか!

「トモダチのトモダチは皆トモダチだ」の法則でいうと、違星北斗のトモダチは凄い人ばっかりだなあ。

 中也も賢治も啄木も、石原完爾も孫文も皆トモダチです。

管理人  ++.. 2006/03/08(水) 10:58 [136]

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コメント

キビ果入る、は、「キビ」に「果(み)」が入る、という意味と考えるのが適切かと考えられます。キビが実をつけ始めるころ、という意味でとると立派に季語になっています。

ありがとうございます。

なるほど!
確かに、最近見た北斗ノートの中でも、「果」を
「み」と読ませていました。

「またしても熊の話しや」と「キビ果入る」
が、前後のつながらないような気もしています。
どうでしょうか。

もしかして、キビというのは「トウキビ」、トウモロコシのことでしょうか?

だとすれば、このエピソードを思い出します。

《谷口氏は二風谷の酋長故二谷国松さんから、初めて北斗のことを聞いたのである。

 それは、何時だったか忘れたが、とうきびのおいしい季節であった。
 一人のアイヌ青年が訪ねて来た。
 彼は違星滝次郎と名乗り、自分はアイヌの研究は同族の手でやらねばならぬとの信念で研究する傍ら、アイヌ民族の解放運動に情熱をそそぎ、全道のコタン部落をくまなく歩き、同志を求めていると自己紹介した。
 彼はしばらく平取のバチェラー園で働いていたが、惜しいことに平取を去り、郷里の余市で短かい生涯を終えたので、秋の一夜を、とうきびを囓りながら語りあかしたのが最後となった。
 彼は、また違星北斗と名乗り歌を作っていた。》

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