北斗と禁酒
2006年03月18日11:01
大正15年、東京での恵まれた生活をなげうって、北海道へと舞い戻った違星北斗は、アイヌの同族のために活動を始めます。和人によって「滅び行く民族」という烙印を押されていたアイヌのイメージを一掃しようと、「俺はアイヌだ、アイヌはここにいるぞ」という叫びをあげたのでした。
彼は「アイヌの手によるアイヌ研究」を志して、また全道各地のアイヌコタンをめぐって、バラバラだった同族の自覚を促し、団結を呼びかけて、コタンからコタンを結ぶネットワークを構築しようとしました。
ところが、北斗のその熱い思いを裏切るように、その真摯な瞳に飛び込んできたのは、同族の悲惨な現実でした。
貧困、病苦、差別、諦め。
悪循環の構図でした。そして、その循環を加速させていたのが彼が「悪魔」とさえ呼んだ「酒」でした。
違星北斗が「酒」について歌った歌をあげてみます。
(仮名遣いは現代仮名遣いに、漢字の表記も若干改めてあります)。
酒ゆえか無智ゆえかは知らねども
見せ物のアイヌ連れて行かれる
限りなき その寂寥をせめてもの
悲惨な酒に まぎらそうとする
いとせめて酒に親しむ同族に
この上とても酒呑ませたい
現実の苦と引き替えに魂を削る
たからに似ても酒は悪魔だ!
ああアイヌはやっぱり恥しい民族だ
酒にうつつをぬかす其の態
泥酔のアイヌを見れば我ながら
義憤も消えて憎しみの湧く
山中のどんな淋しいコタンにも
酒の空瓶 たんと見出した
北斗は、山中のコタンに、あるいは海辺のコタンに、あるいは故郷のコタンに、行く先々に、酒に溺れ、身を持ち崩す同族の姿を見ました。まさにそれは同族の心と体を蝕む「悪魔」だと考えていました。
この「禁酒」への北斗の考え方は、すでに上京前に、恩師の奈良直弥先生のもとで結成した「茶話笑学会」のモットーの中にもあります。
この「茶話笑学会」は、大正期から戦前のいわゆる「青年団」運動の流れの中にあるものと考えられます。
この青年団の運動は、北海道に限らず、全国の村や町の地域コミュニティの中で、青年たち(男子だけでなく、女子もありました)を団結させ、修養させるという全国的なムーブメントで、青年団の指導には多くの場合、教育者や退役軍人など地元の名士があたったようです。
青年団の活動はたとえば、「夜学校」のように夜集まって勉強会を開いたりして、青年たちの意識を高めてゆきました。
貧困から抜け出すための「生活向上」のため「勤勉」し「貯蓄」を奨励し、知性や人格を磨き、そのベクトルは「よりよい人間、お国のためにお役に立てる人間になる」と言う方向に向いていました。その修養思想の中で、重要な要素が「禁酒」だったのです。
大正時代とは、都会ではモダンな消費文化が花開いた時代だという反面、地方の青年たちにはストイックで右傾化の進んだ時代だったと言えるかもしれません。
つまりは違星北斗は東京で、そういう時代の最先端の思想を吸収して北海道に帰ってきたのでした。
違星北斗は思想の遍歴をした人で、地元の余市の青年団にはじまり、その影響から修養雑誌「自働道話」の西川光次郎、そのつてで東京に出て、社会運動団体「希望社」の後藤静香に傾倒する一方で、国粋的日蓮主義の田中智学の「国柱会」に入信もしていました。また、北海道に戻って「アイヌの父」と呼ばれた英国人宣教師ジョン・バチラーや、その養女のバチラー八重子の影響も受けました。奈良は北斗の恩師、田中智学は元日蓮宗の僧侶ですが、それ以外の人はキリスト教の洗礼をうけています。
これらの人々が持っている思想は、一様にストイックで、「国家のためによい人間になるため修養しよう」というものであり、それが帰道後の北斗の「右傾的」とも読める発言のもとになっています。
全国の津々浦々にあった青年団はもともとは、「若者組」と呼ばれるような、江戸時代からの農村漁村の互助的なコミュニティーであったわけですが、それが国家の思想支配の末端としての修養勉強会となったのが、この時代でした。
「修養」は、苦しい日常を改善する「生活向上」のための手段として、若者の心をつかみ、じわじわと「お国のために」勤勉で従順で国民を作りだし、やがて未曾有の大戦争へと繋がっていくための準備が整っていったのでした。
話がそれましたが、この「禁酒」というのは、単に酒をやめるということだけでなく、そういった軍国主義の時代へと向かうための、意外に重要なキーワードでもあったのです。
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