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2006年4月

2006年4月22日 (土)

阿部忍「泣血」


 阿部忍という先生が書いた違星北斗の小説「泣血」は、よくよく読んでみると、けっこうよく調べられて書かれていることがわかりました。当時の余市のことをよく知る人物、あるいはそういう人に取材した人物が書いたものでしょう。
 古田謙二の記述と重なる部分も多いので、古田からも取材しているのかもしれません。

管理人  ++.. 2006/04/22(土) 14:35 [184]

阿部忍という方は、おそらく駒大の先生で、体育や武道を専門にされていた方でしょう。

1920年生まれですから、1951年に「泣血」を書かれたのが31歳の頃。

駒大の図書館の蔵書に1950年に北方文芸から出した詩集があるようですから、北海道とも、文芸とも関係がありそうです。

「泣血」はもちろん小説ですが、随所に見逃せない記述があります。
 たとえば、昭和29年のNHKのラジオドラマ「灯りを掲げた人」の中に、北斗が平取のウタリに「イポカシ」(醜男の意、イボシとひっかけている)と言ってバカにされるシーンがあるのですが、同じエピソードが「泣血」にもあります。
 また、古田謙二の「『アイヌの歌人』について」には、大正13年の1月に、余市の修養会で北斗が大演説をぶつ場面が出てきますが、「泣血」にも同じエピソードがあります。

 昭和26年ですと、テキストが初版の『コタン』ぐらいしかなく、かなり、足で歩いて関係者に取材をして書いたものであるような気がします。

管理人  ++.. 2006/04/24(月) 11:00 [187]

> 阿部忍という方は、おそらく駒大の先生で、体育や武道を専門にされていた方でしょう。

 でも、ちがうかも知れないです。

 先日、ある方からコピーをいただいた文書によると、阿部忍氏は、昭和29年の時点で東京の世田谷区新町に住んでいたようです。
 阿部氏は「隊商」「駒澤文学(壇?)」に北斗関係の記事を発表したようで、またこれらとは別に(?)、ガリ版雑誌に北斗のことを連載したようです。 

管理人  ++.. 2006/05/01(月) 23:31 [188]

連休中は、ひたすら「泣血」のテキスト化作業。

(じつはまだ終わっていない)。

じっくり一字一字打ち込みながら、どこまでが事実に即しており、どこからが創作であるのかを見極める作業でもあります。

著作権は死後50年ですので、阿部忍氏の没年がわかりませんので、サイト上にアップは出来ませんが、そのうち概要を書きたいと思います。

現在、北斗の東京でのラブロマンスを入力中ですが、これがまあ、ちょっとキツイ。創作なのは間違いないのですが、しかしそれに類することはあったかもしれないとは思います。
管理人  ++.. 2006/05/08(月) 10:07 [189]

2006年4月20日 (木)

「北斗についての早川通信」早川勝美


 この手紙は、札幌市の早川勝美氏から勇払郡穂別町富内駅勤務の谷口正氏への手紙。昭和41年5月13日の消印。

 谷口正氏は、湯本喜作『アイヌの歌人』の執筆に際し資料を送るなどして協力した人物。この本によると、自ら『コタンの夜話』という著作があるそうです。

 以下、要点のみを書きます。

・早川氏は昨年(昭和40年)は3度余市を訪ねた。その際に違星家の人と会っている。
・違星家は早川氏が訪れるよりも以前に火事になり、北斗の遺した資料もすべて焼かれてしまった。
・北斗の甥にあたるM氏も北斗についてほとんど印象がなかった。記憶に残っていることも、日記に書かれているようなことのみ。
・たまたま、80過ぎのお婆さんで、トキさんという北斗のことをよく知る人がおられ、その人にいろいろ聞くことができた。
・トキさんは北斗より18歳年上で、U家の人。
(山本注:U家は北斗の祖父万次郎の実父イコンリキの家系。違星家はイソヲクの家系で、万次郎はU家からの婿養子)。
・トキさんは北斗が病気で床に伏しているときに、妹とともにかわるがわる看病をしたそうです。

管理人  ++.. 2006/04/20(木) 23:56 [178]

 では、以下からは早川氏のトキさんからの聞きとりです。要点を引用します。

 タケジロウは、頭の良い立派な男だった。イボシの家で顔は一番まずかったけれど、勉強はよく出来、暇さえあれば中里の息子(篤治のこと)と人を集めて何やら書いたり読んだりしていた。

 いやいや、私は北斗は男前だと思います。


管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:05 [179]

 いつのころか忘れたが、タケがまだ余市に居る頃だった。丁度鰊時で浜がにぎやかだつた頃だ。漁場に出稼ぎに来ていた樺太アイヌのメノコで、Sというきれいなおなご(女子)がいた。
 そのおなごがタケに惚れて、タケと一緒に暮らすようになった。いくらぐらい一緒にいたか忘れたが、そのうち女に赤ん坊が生まれ、その子にトモヨと名付けて可愛がっていた。もちろん籍なんて入れてなかったが、子供がうまれたので、入れるつもりだったが、子供を生んで二十日もたたないうちに、赤ん坊を連れてそのおなごは、余市から出ていった。


 北斗に妻(籍を入れていない)がいて、その人との間に娘がいた、という証言ですね。
(余市に行ったとき、こういうことがあったと地元の方からお聞きしていましたが、それが「娘」であるというのは初めて聞きました)。
 この娘の名前の「トモヨ」というのは、日記に出てくる名前です。
「今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ」という記述が昭和3年9月3日にあります。
 これまでこれが誰なのか謎でしたが、娘だったとしたら、あの日記の記述も、意味が大きく違ってきますね。
 一七日とは、初七日のことです。北斗は病床で離れて暮らす幼い娘の死を知ったということになります。
 

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:06 [180]

そのおなごは、タケが死んで三年たってから、一度イボシの家に来ていったが、その後は何の便りもないし、どこにどう生きているものか…。
 タケが余市から出ていったのは、その嫁が出ていってから、一カ月ぐらい後だった。それから暫く家に戻って来なかった。いつごろだろうかはっきりしないが、雪が解けはじめる頃だった。昔の面影なんぞまったくなく、大きな目だけギョロギョロさせて帰ってきた。わしが訳をたずねると、又肺病にかかったと笑っていた。 


 この女性と一緒に暮らした期間ですが、まだ特定できていません。日記の残っていない昭和2年かもしれませんし、大正13年以前かもしれません。
 女性が出て行ってから、北斗もしばらくいなくなったというので、その期間がもしかしたら東京時代をさすのかもしれませんが……今の段階では情報が少なくて、よくわかりません。

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:30 [181]

それから三、四カ月ぐらいしてだったか、血を吐くようになったのは、家の者にも嫌がられ、他の者からは肺病たかりといって、何度床に戻って泣いたことか。

 これは昭和3年の発病かもしれないですね。このまま寝付いてしまったような感じです。


 わしは、一日も早く良くなってほしいものだから、山からよく山ねぎを取ってきて、茄でてよくタケに喰わしたもんだった。タケの妹のハルヨもよく看病した。血を吐くタケの背を何度もさすってやっていた。家の者は皆タケには冷たかった。妹のハルヨも肺病で死んだが、ハルヨもタケに似てか頭がよかった。
 タケは、大きな部屋に独りで寝ていた。寝ながらでもなにか一所懸命本を読んでいた。


 妹のハルヨ……聞いたことがない名前です。いままで知っていた妹の名前とはちがいます。実妹ではなく義妹かと思ったのですが、「タケに似てか頭がよかった」とありますので、実妹なのでしょうね。
管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:39 [182]

 それからしばらくした雪の降る寒い日だった。わしが炉に火を入れようとした時だった。タケが死んだといって梅(北斗の兄梅太郎のこと)がいってきた。わしは夢中で冷たいのも知らないで、ハダシのままタケの家に行った。一つも口を聞かなかった。
 それから間もなく、タケと仲良しだった中里の息子が死んだのは。ほんとうに頭の良いものばかり、皆先に行ってしまって、余市のアイヌもタケらの時代で終わりじゃ。

 
 この証言も生々しいですね。
 北斗は雪の降る寒い朝に死んでいったんですね。

管理人  ++.. 2006/04/21(金) 04:47 [183]

2006年4月17日 (月)

「放浪の歌人・違星北斗」より


 武井静夫「放浪の歌人・違星北斗」より、オヤッと思ったところを抜き出してみます。
 この作品は、基本的には小説風の評伝といった感じですが、わりと精確なデータに基づいているような気がしますので、資料的にも価値があると思います。
 しかし、残念ながら掲載紙が不明で、入手したものは第二回までしかありません。
 北斗の誕生前より、小学校時代までしかありません。

 北斗違星滝次郎がいつ生れたかは、定かではない。明治三十四年の、多分暮れもおしせまってからのことであったろう。

 また、滝次郎と同じ頃、中里徳太郎の子供も生まれたとあります。

 万次郎は、この孫に滝次郎という名をつけることにし、生れた月を明治三十五年一月一日とした。徳太郎もそれに合わせて、子供の生れた日を一月一日にすることにした。名前は元三とした。

 また、北斗の兄弟姉妹についても、除籍簿をもとに詳しく書いてあります。

 万次郎は、伊古武礼喜の子供として、嘉永五年(一八五二)九月十一日に、後志国余市郡川村番外地に生れている。伊古武礼喜は、イコンリキに当てた漢字名である。川村は余市町大字大川町と改称される。妻のテイは、同じ川村の伊曽於久(イソオク)の娘で、嘉永六年九月六日に生れている。万次郎より一つ年下である。二人の間に、長女テル(明治一九・一一・六生)と、二女のキワ(同二九・一二・一四生)とが生れている。
この籍に養男として、甚作が入る。文久二年(一八六二)十二月十五日に生れているから、十歳しか年が違っていない。
この甚作が、やはり同じ川村から、妻のハル(明治四・九生)を迎え、明治二十五年一月八目に、長男の梅太郎を生んだ。翌二十六年二月五日、二男が生れているが、三月九日に死去、ついで二十七年五月十目に、長女ヨネが生れている。二女ハナは、二十九年八月十六日に生れて、三十二年十一月二十三日に死亡する。この二十九年は、万次郎の二女キワの生れた年である。
滝次郎は、養子甚作三男として、明治三十五年一月一日に生れたことになっている。この日、中里徳太郎の家では、長男の元三が生れている。ついで甚作の家では、四男竹蔵(九日で死亡)、三女ツ子、五男松雄(四カ月で死亡)と生れる。六男竹雄とはふた子である。


 これによると、イコンリキの子である万次郎は、イソオク(違星家)の娘ていの「婿養子」になるようですね。
 北斗の父・甚作は婿養子ではなく、男児がなかったために中里家からもらった養子になります。
 一説には梅太郎はハルのつれ子で、甚作とは血のつながりはないという話があり、それが原因で梅太郎と北斗は仲がよくなかったという話を聞きましたが、確証はありません。
 いずれにせよ、戸籍上は『コタン』の八人兄弟は正しいようです。
 ただ、甚作とハルの間にはこの他にも養子がいたようではあります。

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 00:33 [171]

 出生届けを出したのは、

ようやく一月九目になって、出生届を持ち役場に出かけた。

 とあり、届けたのが一月九日だということです。
 北斗と同じ一月一日生まれとして届けられた中里元三は、

 中里元三は、三月二十四日に、母のサワとともに、戸籍に入れられた。しかし、その翌月の四月十五日に死亡した。わずか数か月の生命であった。

 とあります。
 
 また、「違星」姓について、

 違星はイボシなのかエボシなのか、はっきりしていない。このいきさつからいうとイボシでいいはずであるし、滝次郎自身も「我が家名」で、イボシと読み慣わされるようになったといっている。しかし、本人はエボシと言っていたらしく、古田冬草は「違星北斗のこと」(昭和二八・三『よいち』)において、わざわざエボシとかなをふっている。

 これは、イボシでいいのでしょう。ただ、北斗自身の発音がよくなかったのだと思います。
 この古田の記事は、探してみたいと思います。
 『よいち』(昭和二十八年)は道立図書館にあるようですので、また調べてみます。

 

管理人  ++.. 2006/04/17(月) 01:03 [172]


 この「放浪の歌人・違星北斗」は、だいたい次のような内容になっています。

第1回
●北斗誕生前夜。祖父違星万次郎と、若き中里徳太郎。徳太郎の結婚。
●徳太郎の父・徳蔵の死(和人によるリンチ:金田一の「あいぬの話」より)、その後、徳太郎の小学校入りに万次郎が尽力したというエピソード。
●違星甚作・ハルの子として滝次郎誕生。同じ頃、中里元三誕生。ともに1月1日生まれとして戸籍にいれる。
●違星甚作とハルの子どもの誕生と死を除籍簿より紹介。
●徳太郎の子、元三の死。

第2回
●万次郎の回想。余市場所の歴史。
●万次郎の少年時代、東京留学。
●違星家の家名とエカシシロシ
●滝次郎の幼少期
●滝次郎の小学校時代
●奈良直弥先生
●滝次郎の小学校時代の成績と病気、母の死

 と、まあこんな感じです。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:00 [173]

明治四十一年四月一日、滝次郎は、余市大川尋常高等小学校に入学した。
前日、新しく洗いなおしてもらった着物に着かえると、胸がわくわくした。わらぐつも新しくなっていた。教科書はふろしきにつつんで、背中にしょった。
学校へは万次郎が連れていった。父の甚作は出稼ぎが多いせいもあって、公的な会合には、いつも万次郎が出た。保護者にも万次郎がなった。万次郎は弁もたったし、読み書きにも通じていた。
担任の先生は、奈良直弥といった。小柄でやさしそうな人だった。滝次郎は、毎日の学校が楽しかった。勉強もよくわかったし、先生もたえずはげましてくれた。


 このあたりは、どこまで信用していいもんかわかりませんね。
 例えば、公的な会合にはいつも万次郎が出たのか? 奈良先生は小柄だったのか? これを書いた武井氏はどこまで調べて書いたのかわかりませんので……。

  

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:12 [174]

たとえば、次のようなエピソードも同様です。

クラスの中にも、意地悪な子がいた。体操の時間、徒競走の練習でころんでビリになると、おどり上って、「アイヌ!アイヌ!」と手拍子ではやした。それに五、六人が和した。
その騒ぎを聞きつけて、とんできた奈良先生は、いきなりその子をひきずり出して、なぐった。ふだんはおとなしい先生のはげしい怒りに、生徒はとまどってぼんやりしていた。
「友達の不幸を笑うやつがあるか」
先生はそう言っただけで、アイヌとも、滝次郎とも言わなかった。その目には涙がうかんでいた。
その子は、滝次郎のところへ寄ってくると
「許せな」
と、きまり悪げに言った。滝次郎は、そんな先生のはからいが気にいった。


 まったくのフィクションなのか、それともある程度事実を反映しているのか。

管理人  ++.. 2006/04/19(水) 23:20 [176] 

滝次郎の成績に関する記述です。

一年生のときの欠席は、二日しかない。成績も、算術と操行とが乙だけで、あとの科目はすべて甲である。
万次郎は、この成績をことのほか喜んだ。和人に負けなかったからではない。はるかにとび抜けた成績をとったこの孫の能力が、同族の未来をどうかえてくれるかに、期待したからである。
二年生になると、大病を病んだ。医者にかかるにも、金がなかった。病気欠席は、ついに五十七日におよぶ。それにもかかわらず、成績の中で下っているのは、体操の乙だけ、操行は甲に上って、甲の科目は五つにたっている。
注目すべきは、操行の甲である。品行方正で利はつな少年の面影を、そこにかいまみることができるのである。(中略)
四年生からは、事故による欠席が目立ちはじめる。事故とは、理由のわからない欠席ということである。この年十七日を数えた欠席は、五年生になって、なんと四十一白にも達している。成績はすべてが乙、これがあの滝次郎であったかと、疑いたくなるほどの変りようである。
この年、もう一つの悲しいできごとが重なる。母ハルの死である。
大正元年十一月十一目、ハルは四十一歳であっけなく死んだ。
(中略)
六年生になると、この事故による欠席は、二十三日にへる。この年、算数が甲に上っている。すくなくなった欠席日数が二十三目である。それだけ休んで、算術が甲なのである。そのことが、滝次郎の小学校時代を象徴する。この成績と欠席との奥に、やりきれない無念の表情が、今もありありとうかんでくるような気がする。大正三年三月、滝次郎は、尋常科を卒業した。


 このように細かい数字や評価について書かれていますので、おそらく実際に北斗の成績を調査したのだと思います。
 もう一つ貴重な情報は、大正元年11月11日という、母ハルの亡くなった日が記されていることです。

管理人  ++.. 2006/04/20(木) 07:53 [177]

2006年4月13日 (木)

朝泣きの日

2006年04月13日11:01
 電車で朝日新聞を読んでいたら、「アイヌ文化再興へ」という記事がありました。
 二風谷のFMピパウシのことと、二風谷フォーラムのこと、それと白老の「イオル構想」の事などが載っており、囲み記事で萱野茂さんのお話がありました。

 この、萱野さんのお話の中で紹介されたウウェペケレ(昔話)が、非常に印象的でした。ネット上にアップされてたらリンクできるかと思ったのですが、みつかりませんでしたので、ちょっと長いですが引用します。

《(前略)
 私が書いたウウェペケレの本から、言葉の力で戦争を止めたエカシ(おじいさん)の話を紹介します。
 その昔、ポロシリ岳(日高山脈)をはさんで、十勝アイヌと沙流アイヌの間でいさかいが起きそうになりました。
 この時、二風谷のアイヌで、雄弁で知られるピクムというおじいさんが、若者の背におぶわれて山を越え、谷を越え、毒を塗った弓矢を持ちいきり立つ男たちの間に割って入りました。
「ポロシリ岳をはさんだ沙流川と十勝川。お前たちは二つの乳房で育った兄弟だ。どうしていさかいをするのか」
と語ると、若者たちは言葉の正しさを知り、仲直りしました。
「人間の言葉ほど強い武器はない」。猛毒の矢よりも、どんな鋭利な刃よりも、力がある。人の話をよく聞き、立派な人になりなさいという教えです。》(朝日新聞平成18年4月13日)

 この話を読んでいて、いろんなことを思い出しました。
 夏に萱野さんにお会いして、違星北斗の研究をしていると言うと、がんばりなさいと言ってくださったこと。
 「文学は世界を変えると信じなさい」という、小川国夫先生に言われた言葉ともリンクしました。

 気がつけば、電車の中で涙を流しながら何度も読み返していました。

 最後に《言葉は民族の象徴、魂です。伝え続ける限り、脈々と輝き続けます。今の子どもが大人になった時、「おれは萱野茂からアイヌ語を学んだんだ」と胸を張ってくれたら、いい仕事をしたなと、うれしくなります。》という言葉に、心を洗われるような気がしました。
 
 お話に出てきたピクムというエカシ。
 そのお話をされた萱野茂先生。
 そこから思い出した小川国夫先生。

 近鉄電車の中で手の甲で涙をぬぐいながら、このような老人になりたいものだと思いました。  

2006年4月11日 (火)

「湯本喜作『アイヌの歌人』について」古田謙二

 これは、北斗に俳句の手ほどきをし、北斗の遺稿の整理をしたといわれる、古田謙二が、昭和29年に発行された湯本喜作の著書『アイヌの歌人』について、正誤を記したもの。
 この湯本の『アイヌの歌人』は、バチラー八重子、森竹竹市とともに北斗を取り上げているのですが、いかにも素人の仕事といった感が強く、いろいろとつっこみどころも多い。しかしまた、北斗研究の嚆矢でもあるので、功罪相半ばといったところでしょうか。
 以下、古田の文章を引きながら、解説していきます。

「私と北斗」
私が余市の余市小学校に赴任したのは大正十一年のこと。その頃は北斗を知らなかった。受持の生徒の中にアイヌの児童がおり、それ等を通してアイヌの生活は知っており、また同情も持っていた。


 古田謙二は北斗が青年になってから出会ったわけですね。北斗よりちょっと年上なだけです。

 大正十三年一月、余市小学校の裁縫室を会場として、「青年合同宿泊講習会」というのが、北海道庁主催で開催された。道庁の役人、中等学校の先生等を講師として、いわゆる精神修養を行なうためである。
三日目の最後の日、その夜は講習の感想発表会である。約四十名位の青年が一堂に集まって感想発表となり、中々熱心であった。その終わり頃に壇にたったのが、違星瀧次郎という青年であった。


 大正13年。東京に出る前ですね。
 以下、その演説の内容です。

 「皆さん、私はアイヌの青年であります…」冒頭のこの一言が皆の注目をひいた。それから違星は大体次の様な話を、満場の注目をあびつつしたのである。「世の中でアイヌ人は蔑視されております。学校ではアイヌの児童をのけ者にします。世間ではアイヌ人を酷使します。すべてアイヌ人は人間並みに扱われておりません。憲法の下に日本人は平等であるべきに、これはどうした事でしょうか。
その原因の半分はアイヌ人自身にあると思います。アイヌの子供は学校で成績はよくありません。乱暴です。嫌われるのも致し方ありません。又、世間ではアイヌの人を酷使し、馬鹿にしますが、酒を飲んで酔いしれているアイヌ人を見ると、他人を責めることも出来かねます。たしかにアイヌ自身に蔑視される原因はあると思います。然し、和人の方々にもその原因はないでしょうか。学校にあがると、我々をアイヌ、アイヌと馬鹿にする。社会に出ると同じ仕事をし乍ら別扱いをして低賃金しかくれない。こうした境遇におき乍ら、アイヌ人が素直になれの、おとなしくしていろのと、いつでも無理であります。
一体アイヌ人は劣等民族ではありません。アーリヤン民族の一派だといわれておりますが、欧州のアーリアン民族の優秀なことは歴史がよくこれを証明しております。
アイヌが現在のような状態におかれているのは、実は人為的にそのようにしているのであって、結局は愛の欠乏がひきおこした悲劇であります。」
かくて和人の愛の心を呼び起こす絶叫をして約二十分程で壇を下りたが、満場粛然として声がなく壇を下りた時は、拍手がしばし止まらなかった。私はしっかりした青年がいるものだとの印象をうけ、この時から違星北斗に注目したのである
 私は、以前からアイヌ児童の家庭訪問はよくやった。しかし違星を知ってからは一層熱心にアイヌのためにつくしてやろうと思うようになった。



 これが、古田謙二がはじめて北斗を見た瞬間ですね。
 この「演説」を見ると、やはり北斗は演説が上手かったのでしょう。上京後に名だたる名士たちの前で、臆することなく演説できたのは、こういうことに馴れており、アイヌの美徳とされる、「雄弁さ」と「度胸」を持ち合わせていたからなんですね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [152]

 北斗は余市のアイヌの青年を集めて茶話笑楽会という会を作った。お茶を飲みながら、笑い楽しみ乍ら話をする会というので、その間にアイヌ青年の自覚をうながしてゆきたいというのが目的であった。そしてその会の顧問に私は推されたのである。
笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。


 「茶話笑会」は、遺稿の「コタン」では「茶話笑会」になっているんですが、それ以外の数種類の文書では「笑楽会」になっています。どっちなんでしょうね?
 「笑楽会」が行われた中里篤(徳)太郎の家は、大きかったんですね。2階建てで、その上2階だけでも4間もあったわけですね。
 あとに出てくる北斗の家も、何部屋もあるような、ちゃんとした家だった。
 以前入手した地図によると、この中里と違星の二軒の家だけが、余市コタンの入口に離れてあり、他のウタリの家よりも大きな家に描かれていました。
 
 昭和二年であったか三年であったか忘れてしまったが杜会主義者の朝鮮人朴烈と日本人の文子とが獄中で恋愛し、裁判で朴烈文子事件として騒がれたあの事だと思う…ある秋の笑楽会の風景がハッキリと眼前に浮かんでくるのである。その時は、秋が深かつたか、すでに冬になっていたか、とにかく樺太出稼の運中が皆帰っていて、樺太で虐待された話を盛んにしていた。
次から次へとアイヌ青年がテーブルをたたいて論じた。その時北斗は、「我々アイヌの中には優れた者はいないかもしれない。しかし、一人の朴烈文子も出していないのである。」とて、国に忠誠なる旨を述べて満場の拍手をよんだ。
中里篤治は、その時は青い顔をしてすでに肺を病んでいるのか元気がなかった。


 「朴烈写真事件」は大正15年年ですね。
 古田のいうようにこの出来事が昭和2,3年のものだとしたら、大正13年に発足した茶話笑楽会が、このころまで、ちゃんと活動していたということですね。
 昭和2年夏に発行の同人誌「コタン」に「同人が樺太に出稼ぎに行っていて留守」というような記述がありましたから、この風景は彼らが帰ってきた昭和2年の秋か冬のものかもしれませんね。
 それに、昭和3年の秋や冬では、北斗は闘病生活にはいって床に伏していいますから、やはり昭和2年以前でしょう。大正15(昭和元)年は、秋冬はまだ北斗の本拠地が日高の平取にありますし、やはり、これは昭和2年の出来事だと思います。
 この頃の北斗たちの思想は、大きく右に傾いていますね。「茶話誌」のキーワードが、「よき日本人に」でした。
 中里篤治は、北斗よりも先に結核にかかりますが、けっかとしては北斗よりわずかに長生きします。
 樺太で出稼ぎをしてきた友人「惣次郎君」との友情を歌った短歌がありましたが、あれもこの頃かもしれませんね。

管理人  ++.. 2006/04/11(火) 04:52 [153] 

 私は、昭和五年六月に留萌高等女学校教諭に転任したが、北斗の遺稿を集め希望杜にたのんで遺稿集を出版できるようにしてやったのは北斗を後世に伝える資料を残すことになり、よいことをしたと思う。

 古田がコタンの編集に手を貸したのは、留萌に移る直前ということですね。

 古田はKという北斗の甥(姉の子)の担任でした。Kは、母(北斗の姉)を亡くし、父もいなかったので、梅太郎に養われていたのですが、古田はKを可愛がり、また不憫に思って、Kを空知郡栗山町の実家の書籍文具店の小僧として紹介しています。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:15 [154] 

瀧次郎という名

北斗の姓名は違星瀧次郎といい、北斗は号である。然し、瀧次郎というのは、実は誤まってこうなったので
「竹次郎」というのが親のつけた本当の名前であった。
彼の長兄は「梅太郎」といい、それで彼が生まれた時、親は「松竹梅」から来たものか、「竹次郎」と名づけた。ただ役場にとどけ出る手続きが面倒なので、これを代書人に依頼したのだが、その時口頭で「タケジロウ」といったものらしい。その時の発音が代書人の耳には「タケジロウ」でなくて「タキジロウ」と聞こえたのである。そこで「ああよろしい」というわけだ。早速竹次郎が瀧次郎と変って届け出られてしまった。かくて、瀧次郎は終生の彼の名前となってしまったのである。
事実、彼の両親をはじめ、アイヌの仲間たちは、皆彼を北斗とも瀧次郎ともよばず「タケ」とよんでいた。私は何回となく「タケ タケ」と話しかけているアイヌを見たものだ。
このことは、私は北斗自身の口からも聞いているので、間違いないことである。
もっとも、北斗が少し世に知られ「北斗」という号の方がわかりやすくなってからは、アイヌも和人と話をする時に「北斗」というよび方をよくしていた。しかし、これは和人と話をする時のことで、アイヌ同志のときは、やはり「タケ」とよんでいた。


 やはり、そうでしたか。
 北斗の名前は「タケジロウ」で通用していたんですね。
 「自動道話」の初期の署名は「竹二郎」ですし、金田一の「違星青年」も「竹次郎」になっているものがあったと思います。
 やっぱり発音の問題だったんですね。
管理人  ++.. 2006/04/11(火) 05:24 [155] 

西川光二郎氏の北遊の途次に知られ…
P・十四-四行目

 西川光二郎氏はもと社会主義者で、当局におそれられた人だが、このころは既に儒教主義の社会運動家に転向しており、「自働道話」という月刊雑誌(今のタブロイド版の半裁で、たしか八頁位でなかったかと記憶している)を発行していた。


 西川光次郎(光二郎)については、『アイヌの歌人』での扱いはひどすぎます。ある程度の知識人なら、西川光次郎が幸徳秋水とともに平民社にあり、日本に社会主義を紹介した、もっとも最初の人たちの一人で、多くの書物を訳している人であることは知っていたのではないかと思いますので、つまりは、湯本喜作氏はそういう知識を持ち合わせていない、よく言えば普通の人だったのでしょう。
 史上最大の大逆事件(冤罪)である幸徳事件で生き残り、獄中で転向し、精神修養を説くようになります。
 ちなみに自働道話は「八頁」は少なすぎます。30頁位で、3ミリぐらいの厚さはあります。

 彼、北斗の短歌の半分位は、この雑誌に掲載されたものである。それというのは、奈良直弥先生がこの西川氏に私淑しており、奈良先生のすすめと御世話で、同誌上に掲載されたものである。私もその実物をみせられておぼえている。西川氏は北遊の途次、奈良氏の招聘で余市へも立寄られ、そこで北斗とははじめて逢った。
北斗の上京は、北斗自身の考えによるか、奈良氏のすすめによりものか、今は忘れてしまったが、その何れにしても、奈良氏のすすめにあづかって力があったことは確かである。


 やはり、奈良先生が北斗を紹介し、上京の段取りもしたということで間違いないようですね。
 こうしてみてみると、古田と北斗が出会った大正13年は思想的には激動の頃ですね。茶話笑学会結成、自働道話の購読、西川光次郎との出会い。
 
 上京中の北斗は高見沢氏は勿論であるが、多くの人から可愛がられ、彼も喜んで働いたようだ。金田一先生を訪ねたのは、この期間中のことであるか、金田一先生から石川啄木のことをよく聞いたと、私に度々語って聞かせてくれた。
話の内容はもう忘れてしまったが、啄木の常規を逸したような行動をじっと耐えて、これを友人として暖かく遇していた金田一氏の人間的善さを讃えていたし、また天才肌の啄木にも同情の眼を注いでいた。
その後の北斗の短歌が啄木調と思えるところがあるのは、意識的であつて、彼は「啄木の短歌は率直で好きだ」とくりかえし言っていた。


 北斗が、啄木について言及しているとは。
 全く、今まで出てこなかった証言です。

 後世、北斗は「アイヌの啄木」と呼ばれるようになりました。
 私はそれを聞いてどうもしっくりしない気がしないでもなかったのですが、北斗がそれを聞いたら、むしろ結構喜んだのかもしれませんね。
 よく考えたら当然かもしれませんが、金田一から啄木の話を聞いたことも、歌人違星北斗の誕生に一役買っているのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 04:49 [156] 

北斗と女性

日高の二風谷における北斗のことは直接は知らない。しかし、二風谷を初めて訪れ、酋長の宅でアイヌ民族向上について談じこんだ事実は、北海道のある雑誌にのった誰かの北斗に関する記事で見た記憶がある。
―その家の娘が北斗に恋をしたが、北斗はこれを受入れず二風谷を去った―というようにその記事に書かれてあったようにも記憶している。事実かどうか話があまり巧みにいっているので、作り話ではないかと思う。


 この二風谷の話が載っている「北海道のある雑誌」は、もしかしたら、『アイヌの歌人』の中で、湯本氏が孫引きしている、「コタンの夜話」(谷口正)のことかもしれません。

 一体、北斗は異性に関することはほとんど語らなかったが、只一回私に語ったことがある。それは美唄で出している短歌雑誌(「しづく」と言ったかと思う)の一投稿女性が、彼に猛烈に恋をし、熱烈な手紙をよこしたという。北斗はこれに対し返事を出した方がよいものかどうか迷っているといい、「アイヌに恋をするということは容易に出来るものではないが、これは真面目なようだ。しかし…」といって、微苦笑をしたものである。
その後話がないところをみると、このことはそれっきり発展しなかったらしい。私が知っている唯一の女性に関する話である。


 北斗と異性について。
 「志づく」の愛読者ですか。当時から熱烈な北斗のファンがいたんですね。
 まあ、あれだけ目立って、異彩を放っていると、そういう話もあるでしょう。
 それに対して北斗は「微苦笑」。北斗らしいですね。

 古田謙二は他には聞いたことがない、と言っていますが、余市に行ったときに、いろいろと重要な話を聞き、資料も入手しました。
 また、今回入手した資料の中にも、北斗の恋愛の話がありました。
 そのうち発表できると思います。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:06 [157]

「フゴッペの洞窟」云云
P・三十二-十三行目

 フゴッペの洞窟は、鉄道線路工事中発見されたもので、私の余市校在職中の出来事ある。この洞窟の壁の文字様のものは、その当時新聞で話題となり、小樽高商の西田教授は、小樽の手宮古代文字と同じく、古代文字として、新聞に書いた。それを小樽新聞で北斗が反諭したもので、遺稿集「コタン」に全文がのせてある。
そのころ、北斗は原稿を私に見せてくれた。私は文中のカナちがい(アイヌの人々は、発音が悪くてカナちがいをする者が多い)の幾つかを訂正してやったものである。


 ここにも「発音」の話が出て来ましたね。
 地域は違いますが、二風谷の萱野茂さんの本にも、萱野さんのお婆さんが、たしか「しげる」が発音できなくて、ずっと「しめる」と呼んでいた、という話がありました。
 北斗の周囲では、「い」段音と、「え」段音の発音が聞き取りにくいところがあるようです。例えば、北斗の名前にしても、「いぼし」と「えぼし」、「たきじろう」と「たけじろう」といった具合です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 05:15 [158] 

西田教授は本気で相手にしていない。

反ばく文を新聞に投稿した後、北斗は小樽市に出かけ、西田教授の家を訪問している。ところが、教授はどう思ったのか居留守を使って北斗に会おうとしなかった。それでしかたなく帰ってきた。

北斗はその後、このことを私に話をして、「西田先生は自信がなくて私に会いたくなかったのだろうか。それともシャモの優越感からアイヌごとき者に会うのはイヤだ、その気持から避けたのだろうか」等といつて笑っていた。
 本書には「町民にしこりを残しているだけに、彼の晩年は一層さびしいものがあったろう」と書かれているが、そんなことは全くない。しこりを残す等というのは、全然、当時を知らない人のいうことである世人は、この論争(論争といつても一、二回きりのもので、論争というほどのものではないが)をただ書いただけのものである。第一、アイヌのイカシシロシといったところで、誰でもわからないことであるから。要するに当時は、ただ、「アイヌが面白い説をはいているなあ」といった程度のものであった。


 北斗は、西田教授と会って、話そうとしたんですね。 しかし、なぜだか会ってくれなかった。

『アイヌの歌人』では、北斗がフゴッペの壁画はアイヌの手によるものではない、にせものではないか」と言ったので、史跡指定が遅れ、町民にしこりをのこし、余市に帰りにくくなった、というような記述があるのですが、それはデタラメだったようですね。  
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:12 [159] 


北斗の家   P・三十三-一行目

本書に、「家は大川町にあり、あばら屋である」と書かれているが、あばら屋ではない。古くなり造作はよくなかったが、余市の労働者程度の家としては普通のものである。

中里 篤治のこと P・三十四-四行目

当時の余市におけるアイヌのなかで大物が二人いた(酋長格というところ)。中里篤太郎(篤治の父親)と違星梅太郎一北斗の兄)とである。特に中里篤太郎はアイヌの代表的人物で、体も大きく、仲仲気骨もありしっかりしていた。話もわかっていて、アイヌのことは何でも中里に行けといった町役場の調子である。
実はアイヌ街(大川町の一隅)の入口にあり、立派な建物である。篤治はその息子だが、私の知つた当時は、肺結核が進んでおり、青い顔をして、ゴホンゴホンと咳をしていた。親とちがいキャシャな体で声も柔らかく、到底北斗のような気概はなかった。

 大正末の地図によると、北斗の家は、中里徳太郎の家の隣、コタンの入口あたりに並んで建っていたようです。「酋長格」の実力者であった中里と違星の家は、コタンの中の他の家よりも大きな家でした。
 この家ですが、あとで「早川通信」の時にも書きますが、早川氏の訪れた昭和40年より以前に火事で焼けてしまったようで、資料も何もかも燃えてしまったそうです。
 あばらやというのは、その後の違星家なのかもしれません。もしかしたら、私が余市で訪ねた青い家なのかもしれませんね。

 この頃は中里篤治は、北斗よりも症状がひどかったようですね。北斗の死後数ヶ月で、篤治もまた他界します。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:30 [160]

(同人誌『コタン』の中里篤治の短歌)
アイヌ行く隔離病舎だ電話など
いらぬといった町会議員

という歌は知らなかったが、当時こういう話題は北斗から聞いていて、私も覚えている。
それは、中里篤太郎は「町会議員の馬鹿野郎ども避病院はアイヌのいくところだから、電話なんか要らないとぬかしやがつた。電話のいる、いらぬはとにかくとして、アイヌの行くところとは何だ。アイヌを馬鹿にしやがる。そんな町会議員は、皆病気にかかって避病院にやってしまえ!」と、どなりちらしていたということである。
ある町会議員が、町議会の席で避病院に電話を引く話の出たとき、「避病院はアイヌなんかも入院するし、電話なんか要らないだろうといったという話が流れてきて、それを聞いた篤太郎の憤慨である。もちろん避病院は一般の人の入院するところで、アイヌばかりが入院するわけではないが、当時は非常に建物が痛んでいて、粗末な建物であることを、アイヌにかこつけるのを、篤太郎は「シヤモの野郎、生意気だ」と憤慨したのである。


 なるほど。この病院の短歌にはこういう裏話があったんですね。
 中里徳太郎は本当に豪傑のようです。金田一の残した「あいぬの話」に、幼い頃自ら学校に入れてくれと役所に頼み込んだ話があります。
 今回入手した武井静夫の「放浪の歌人・違星北斗」には、北斗誕生前夜の余市コタンの二人の傑物、違星万次郎(北斗の祖父)と、中里徳太郎の姿が描かれています。(小説風に書かれていますので、すべてが本当だとはいえないですが、よく調べて書かれている印象です)。この中では、余市コタンの指導者としてはまずは万次郎があり、そして徳太郎がそれに倣ったような感じで描かれています。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:41 [161] [引用]

クリスチャン  P・三十四-四行目

篤治がクリスチャンだったとは初耳である。(私自身がクリスチャンで、十五歳の年から現在まで五十年間教会に通つているが)余市の教会で一度も篤治の姿をみたことがない。ジョン・バチェラー氏は余市方面には伝導に来ていなかったので、その影響もない筈。
篤治がクリスチャンだったとしても、それは微温的なものでなかったろうか。むしろクリスチャンを表明しない方がよいのであるまいか。

篤治の短歌というのを私は知らない。又短歌を作るということも殆ど知らなかった。ここにのっている四首というのもはじめて見たくらいである。篤治は短歌を作ったかもしれないが、世間的には全く話にのらなかったし、自身も熱心ではなかった筈である。


 そうですか。中里篤治は正式なクリスチャンではなかった、ということなんでしょうか……?
 書くものはキリスト教の影響を受けているような感じでしたが……。
 ただ……古田謙二はバチラーの伝道の影響はなかったと言いますが、実はバチラー八重子に中里篤治、徳太郎を偲ぶ短歌があります。

端然と ちからづよくぞ 語られし
君今はゐず ゐろり空しも
                逝きし中里徳太郎氏

ただ一人 父のかたみと 残されし
君また逝きぬ うら若くして
                逝きし中里篤治氏

 大正15年以降、北斗はバチラー父娘と関係があったわけですから、まったく影響がないというのは考えられませんね。北斗を通じて影響を受けたのかもしれません。
管理人  ++.. 2006/04/15(土) 10:52 [162] 

北斗の日記  P・三十七-十一行目

北斗の死んだ二日後、まだ消毒薬の匂いのプンプンしている寝室に入り、枕元においてあったボストンバックの中から遺稿になるとおぼしきものを引き出した。その時日記も二冊あった。


 これは生々しいエピソードですね。
 「ボストンバッグ」というのは、この古田の実体験だったんですね。
 日記は2冊ですか。大正15年と、昭和3年でしょうか。

 私が出版の世話してやった遺稿集「コタン」の巻末を見て下さい。あとがきが書いてあります。(後藤静香氏が執筆)。あのように、遺稿集はその後希望杜から出すことになり、その編輯役を引き受けたのが某氏(この名前失念、後書きにかいてある筈です)
この某氏とは、北斗の上京時代知り合いになった仲だと思うが、もう記憶がうすれてしまった-です。私は、あまり原稿はいじらず、原稿になるとおぼしき書類を整理し、それに本や日誌もそえて送ってやりました。

 
 某氏とは、岩崎吉勝か宗近真澄でしょうね。

 
 フゴッペの古代文字に関し、西田彰三教授に反論した新聞記事の切抜きが、私の切抜帳に貼ってあったので、これを切りとって送ってやった。

また茶話笑楽会誌―という北斗自身ガリ版を切った余市アイヌが出していた雑誌四冊を送ってやりました。この雑誌の一部は、コタンに写真になって(アイヌの顔が)のっている筈です。


 なるほど。コタンに載っているアイヌの顔のイラストは、茶話誌に載っていたものなんですね。

 その第三号には、私のガリ版を切ったところも入っております。北斗は、この第三号を余市小学校にやって来て、学校の謄写版を借りて、私と一緒に印刷したものです。

 そうですか。学校でガリを切ったんですね。
 茶話誌は実物が見つかっていないので、見てみたいものですね。

 その某氏が、日記の抜き書をやり、笑楽会誌も抜書きし、本にまとめたわけです。費用は希望杜が出しました。

 出版後、原稿、日誌、笑楽会誌等、一切返戻してよこしませんでした。私もそのままにしておきました。

今日遺稿資料を探すとすれば、希望社の関係者を探し出し、その人から某氏(コタンの後書きでわかる筈)の現住所を訊いて、その人に資料の行方を聞いてみるより方法はありません。
日記は、二冊のほかまだ沢山あるのか知りませんが、私の記憶しているのはそれだけです。他はおそらく無いか、あっても現在わかりますまい。


 長らく疑問だった、遺稿については、そういうことだったんですね。
 古田が「わかりますまい」と言っている相手、この遺稿を探している人は、おそらくこの木呂子敏彦氏なんだと思います。
 先の火事の件もあり、北斗の未発見の遺稿はほぼ絶望的だということなんでしょうね。
 残念です。

管理人  ++.. 2006/04/15(土) 11:15 [163]

北斗の実父 イコンリキ P・四十二-九行目
 
 私は北斗の家で、炉端であたっている北斗の父をよくしっている。おとなしい人だった。頭の耳の上の部分に大きな傷跡が残っていた。「これは何の傷ですか」と聞いたら「オヤジにやられたのさ」と笑っていた。オヤジというのは親爺…即ち熊のことである。
 北斗の父は熊取りの名人で、若い時熊取りに行き、遂に熊との格闘になって、その時熊にひっかかれたのがこの傷跡だというのです。しかし、私が知った時は、おとなしい老爺におさまっていた。


「北斗の実父イコンリキ」は間違い。父は違星甚作、アイヌ名はセネツクル。「アイヌの歌人」の間違いですが、古田も訂正していないところを見ると、古田も北斗の父の名は知らないのかもしれんません。
 この北斗の父と熊との格闘は「熊の話」に詳しく書かれています。
 イコンリキは祖父万次郎の実父(北斗の曾祖父)です。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:19 [164] 

西川光二郎氏 P・四十六-五行目

 西川光二郎について、幸徳秋水事件の生き残りの人、雑文書き…程度の記事は余りにも淋しいと思う。もっと調査して書いてほしい。たしかに幸徳の一味であり、社会主義者であったが後に、儒教主義の社会運動家に転向した人と聞いており、私も今はこの程度より書けないが、この人はもっとその道の人には知られており、書かねばならぬことがあると思う。調査してほしい。


 これは先に出たとおりですね。この「儒教主義の社会運動家」という記述には、なるほど、と納得しました。
管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:27 [165] 

余市のフゴッペ洞窟について 
P・四十六-九行目

 フゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったため、昭和二十八年まで文化財保護指定が遅れ…云々。こんなことは全くない。


 湯本喜作は「北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由の一つ。このフゴッペ洞窟について、北斗の反対論があったために昭和二十八年まで文化財保護指定がおくれ、町の人達にあるしこりを残していた」と書いているのですが、それに対しての古田の反駁ですね。
 そもそも。北斗の「フゴッペの遺跡」と「フゴッペ洞窟」は微妙にちがうものです。前者は昭和二年に発見されたもので、鉄道工事によって露出した壁画、後者は昭和二十五年に海水浴に来ていた中学生が発見した洞窟の中の壁画のことです。

 第一、小樽新聞に北斗が投書し、それが新聞に載ったのに対し、世論は殆ど騒がなかった。「そんな意見もあるのかなあ…」と、新聞を読んだ識者は思ったろうが、それからどういう説もなかった。それはそのままに終わってしまった。
 北斗が故郷余市に帰りたがらなかった理由に一つに、このフゴッペ洞窟の反対論があったため…等とはとんでもない話である。これは全くの誤解である。
 第一、フゴッペの洞窟はずいぶん世の中に知られたと言われているが、北斗の新聞記事は、世間で問題にされなかったのである。北斗を知り、アイヌに関心を持っている者には相当問題になる記事だが、一般としては、そのまま見すごされてしまった。
 だから、北斗の伝記の中では重要な事だが、世の中の間題としては、微々たるものであつたというべきである。


 なるほど。この新聞記事の影響力は地元でもあまりなかったと。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 21:48 [166]

北斗が余市に帰りたがらなかったかどうかは、私は知らないが、―若しそれが真実とせば、次の理由によるものと思われる。

 北斗は兄梅太郎の家に居た。母はすでになく、梅太郎の妻(もちろんメノコ)の世話になるが、心苦しく思っていたものと思われる。(そんなことを、ちよっと私にもらしていたこともあったようだ)それで帰りたがらなかったのかも知れない。
このころ、余市のアイヌは、土地にあまり漁もないので、樺太や利尻、礼文方面に出稼ぎによく出かけた。そしてようやく生計をたてていた。
しかるに、北斗は出稼ぎなどせず、アイヌ民族の向上だの何のだのと言って、あまり働いて銭をもうける仕事もしないので、兄嫁に好い顔をされなかったのかもしれない。それで、なお帰りたがらなかったという話が出たのかもしれない。しかし、これは私の想像である。
梅太郎の妻(北斗の兄嫁)はよい人であった。北斗が死んだ時、私の家に教えに来てくれたのは、彼女であって「タケがとうとう死んで…。ほんとに先生にはお世話になったね」と、涙をこぼして言った姿が今も眼に浮かびます。


 北斗は梅太郎のところに厄介になっていたわけですが、上の古田の記述以外にも、北斗自身、兄の家に厄介になっていることを気にしているような気がします。
 母親が死んでから、北斗も家には居づらかったのかもしれません。
(余市にいったとき、そういうことを聞きました。金田一の「違星青年」にも「病骨を母なき故郷の兄の家へ横たへる身となった」とあり、兄夫婦の家は、北斗にとってはあまり居心地のいいところではなかったのでしょうね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:18 [167]

イサシの山のとほくかすめる P・五十-二行目

これは「イサンの山の」の誤植ではなかろうか、北斗は江差には行ったことがない筈である。これは函館方面の恵山(エサン)の誤りと思う。恵山だと、室蘭方面にゆけば噴火湾の向こうに恵山が見えるが、江差は遠くて全然見えない。もしそうとすれば記事が全部変ってくる。


 この「イサシ」は確実に誤植ですね。

「山岸院長は元軍医中将で」 P・五十五-五行目

私の記憶によると、軍医大佐だと思います。将官ではなかった筈です。


 『余市文教発達史』には「陸軍二等軍医正(中佐)」とありますね。いずれにしても将官ではなかったみたいですね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 22:33 [168] 

奈良直弥先生 P・八十二-三行目

今、達者であれば百歳位にでもなっていようか。北斗たちは、余市の黒川分教場(大川小学校の分校で奈良先生一人で教えており、単級学校であった)にあがった。
奈良先生は、非常に明るい人で、お酒が好き、俳句が好き、書道の達人-私がはじめて氏を知ったころは、白髭をながくあごにのばしていた。


 北斗の入った学校は、大川小学校の分校の「黒川分教場」ということですが……『コタン』にはただ「尋常小学校」とだけあり、『余市文教発達史』には「余市尋常高等小学校」、『放浪の歌人・違星北斗』(武井静夫)では「余市大川尋常高等小学校」、『泣血』(阿部忍)には「大川尋常小学校」とあります。その他文書によってちがいますが……たぶん、「大川尋常小学校」が正しいんでしょうね。

 当時、アイヌは義務教育が一般の六年制に対し、四年制であった。

 ちなみに、北斗は、母親のすすめで、和人の行く六年制の小学校に行っています。

 この先生は、ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで「奈良先生、奈良先生」と愛されていた。
 北海道がまだ、北海遺庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である。
 氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
 昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。


 なるほど。型破りな先生だったんですね。

 私は独身時代に、大正十五年秋から昭和二年の春頃まで、奈良先生の家に二階に下宿したことがあった。
丁度、その時のことである。略歴には「大正十五年十一月北海道に帰る」とあるが、北斗が東京から帰って来た頃のことである。
道でバッタリ北斗と逢った。
「やあ、どうした」
「今、東京から帰って来たたところで、奈良先生をお訪ねするところです」
「それは丁度よい。私は奈良先生の家に下宿しているので、話をしていき給え…」
と、いうわけで、同行して帰宅。奈良先生に、東京から帰ってきた挨拶をした後、二階の私の部屋にやつてきて、それから長時間の話しあいをしました。
東京の話、例によって「アイヌに対する和人の優越感に対する慣慨…」とうとう夜中の一時、二時頃になってしまい、私のところに泊まってしまいました。


 ここでは、北斗は東京に帰ってきてすぐというふうになっていますが、北斗が東京から帰ってきたのは大正十五年の七月です。北斗は登別で知里幸恵の生家を訪ねたあと、そのまま平取へと向かっています。
 それに、帰道直後であれば、古田はまだ奈良の家に住んでいないことになりますから、この話は、大正十五年八月~九月の、平取からの一時帰郷をさしているのかもしれません。

 その時の話題は、皆忘れてしまったが、唯一、覚えているのは、西田幾太郎の「善の研究」という本の話をしたことです。「善の研究」を当時私は購読。その第三章に宗教のところがあります。私はキリスト教なので、西田幾太郎のように神を理解することができなかったのです。
即ち、「神は宇宙の上に超越している」と理解したいのですが、「善の研究」には「宇宙の中の働き、そのものの中に神の存在を見る」ようにと説かれているのです。
そのことを、長時間話しあいをしたのですが、北斗は「私も善の研究のように神を理解したい」といい、私は「超越してある神」をとり、遂に意見が一致しませんでした。
ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。


 この記述は、本当に貴重ですね。
 北斗のその時点での「神」に関する考え方がわかります。北斗が西田幾太郎の「善の研究」を読んでいたとは……。私も読んでいないのでなんとも言えませんが、当時旧制高校生の必読書というような話を聞いたことがあります。かなりの知性がないと読めない本だと思いますが、小学校しか出ていない北斗がそれを読み、古田のような学校の先生と論議していたと思うと、あらためて北斗の知性はすばらしいものだと思いますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:35 [169]

> ほんとうにあれから、もう四十年もたってしまいました。

 この通りだとすると、この古田謙二の言葉は、昭和四十年ごろのものだということになりますね。

管理人  ++.. 2006/04/16(日) 23:40 [170] 

>笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。

ここに出てくる「四間」というのは、今の今まで「四間(ま)」で「四部屋」だと思っていたのですが、これって、単に長さの「4間(けん)」なのかもしれませんね。
 
 googleで調べると「四間 = 7.27272727 メートル」……確かに広いかも。
 そんな気がしてきました。

管理人  ++.. 2006/05/08(月) 23:16 [190]

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