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萱野茂先生がお亡くなりになりました。 違星北斗と萱野先生には、あまりつながりがないのかと思っていましたが、実際にはつながりがあるような気がします。
まず、萱野先生は大正15年6月15日生まれ。 北斗が平取に来たのは大正15年7月。
もしかしたら……これは妄想ですけど、生まれたばかりの赤ちゃんであった萱野先生を、違星北斗が見かけたり、あるいはその手に抱いたりということがあったかもしれないですね。
あと、二風谷小学校の北斗の歌碑について、地元に反対する意見があり、10年以上も完成せずに途中で放置されていたのを、萱野先生が力添えして実現に至ったのでした。
一度だけ、お目にかかったことがあります。昨年の沙流川のチプサンケの日でした。違星北斗のことを研究しているというと「がんばりなさい」と言ってくださいました。
願わくば、萱野先生が北斗のことをどう思っていたのか、お聞きしたかったです。
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管理人 ++.. 2006/05/27(土) 23:54 [194] |
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違星北斗の歌碑について、萱野先生は「さりゅうがわ」という文章を『妻は借りもの』に書いてらっしゃいます。 電話で北斗の歌碑の文面が「沙流川」だったか、「沙流川は」だったかと聞かれて、「沙流川は」だと答えて電話を切ったのですが、気になって雨の中で見に行ったら「は」はなくて、昔は「さりゅうがわ」と呼んでいたから、これで語呂は会う、しかし電話で間違いを教えてしまったが、番号を聞かなかったので、間違いを訂正することができない、というような内容でした。
このエピソードなんですが、実は去年、歌碑を見たときに「あれ」と思いました。 確かに「沙流川は」とは書いていないのですが、「沙流川」のあとに小さく「ハ」と彫ってあるような気がしたのです。 (草風館の『コタン』にも歌碑の文面は「沙流川ハ」とありますし、北斗もずっと「さるがわ」と読んでいますから、そちらが正しいのではないでしょうか)。
一応、写真をアップしておきます。
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管理人 ++.. 2006/05/28(日) 00:01 [195] |
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