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2006年6月

2006年6月26日 (月)

金光図書館

おひさしぶりです。

 違星北斗に久々に新資料。

 岡山県の金光町にある金光図書館(金光教という宗教の図書館です)にいってきました。

 以前一度いって「自働道話」という昭和初期の雑誌を通読してきたのですが、今回は「子供の道話」という雑誌を通読してきました。
 北斗が世話になった西川光次郎という思想家が出していた雑誌です。

 ありました。
 ありましたよ、北斗の未発見資料がザクザクと。

 もう、興奮して、悶絶して、大変な状態でページをめくっていました。

 その1、西川宛の北斗の手紙が何通も掲載されていました。新事実、多数。そこに、新発見の短歌も4首あります。

 これまでの年表が書き変わってしまう内容です。

 その2、新発見の北斗の手による童話が何編も。
 同時に、これまで出典不明だった北斗の童話も、この「子供の道話」が初出だというのがわかりました。

 その3、北斗の恩師奈良先生の原稿も掲載されておりまして、これは北斗の勧めによって書かれたもの。いわば、北斗プロデユースです。

 その他、細かい発見がたくさん、たくさん。

 じょじょにBBSにて整理していきます。
  

管理人  ++.. 2006/06/26(月) 10:46 [211]

子供の道話

 参照した号 大正14年1月号(創刊号)~昭和5年12月号(抜けあり)

 とりあえず、一覧。
 詳細は、それぞれの作品についてやります。

(1)大正15年9月号

「北海道から」 違星北斗
 第一信 (「……昨日バチラー八重子様の家に着きました……」)

 第二信 (「……昨日白老村に参りました……」)

       短歌5首(うち4首、新発見)

       ホロベツのはまのはまなし咲き匂ひ
        イサンの山(向に突出してゐる岬の)の遠くかすめる

       アイヌ小屋あちこちに並びゐて
        屋根草青く海の風吹く

       白老の土人学校訪ぬれば
        かあい子供がニコ/\してる

       奈良先生が土人学校ひらきてより
        二十三年の今もなほある

       コタンに来てアイヌの事をきゝたれば
        はにかみながらメノコ答へり、


 第三信 (「……目下生活の為労働して……」「その余暇は雨の日と雖も部落訪問をいたし多忙……)
 
 白老小学校より (白老小学校山本儀三郎先生よりの礼状)

(2)大正15年10月

 アイヌのお噺(ウェベェレ)(第一信)
 「半分白く半分黒いおばけ」
 (バチラー八重子伝承)文責 北斗

(3)昭和2年1月(記載上は「大正16年」)

 ●アイヌのお噺(ウエベケレ)(第二信)
 「世界の創造とねづみ」
 (清川猪七翁談・文責 北斗)

 ●(短歌5首)   北斗

  雪よ飛べ風よ刺せナニ北海の
   健児の胆(きも)を練るはこの秋。

  人間の誇はいかで枯(か)るべき
   今ぞアイヌのこの声をきけ。

  アイヌとして生きて死なんとコタン吟
   アイヌ■(ゑ)をかくうれしき淋しさ。

  歓楽も悲哀もなくて只単に
   生きんが為にうよめける群れ

  悪いもの降(くだ)りましたネーと挨拶する
   北海道の雪の朝がた。

(4)昭和2年2月
(北斗のものではなく、長知内の奈良農夫也先生が北斗にすすめられて寄稿)

  「北海秘話 魂藻物語」沙流山人(奈良農夫也)

  (其の一)沙流川情景
  (其の二)Shisam,uwepekere KOMOM TUCHI
シサム。コモト゜チ

       胡盲媼 テコロタロ伝
       農童守 沙流山人和訳

(5)昭和2年6月

●「違星北斗様より

お手紙いたゞきまして、うれしく拝見いたしました。「子供の道話」は早速、私共の少年部に二たわけにして、廻覧さしてゐます。大そう成績がよいやうですから、これを永続さしたいと念願してます。

 伝説のベンケイナツボの磯のへに
    かもめないてた なつかしい かな
               (北海道 余市)」

●「郷土の伝説 死んでからの魂の生活  北斗生」

※これは、遺稿『コタン』に掲載されたもの。
 出典が不明だったが、「子供の道話」であることがわかった。
 文章に多少の差異あり。「(昭和二年四月二十八日)」の記載あり。

(6)昭和2年7月

「烏(パシクル)と翁(イカシ)」

※これは、「小樽新聞昭和3年2月27日」にも掲載され、草風館版に収録されている。多少の差異がある。

(7)昭和2年8月

「北海道の熊と熊とりの話」

※これは、「北海道人」昭和3年1月号に「熊と熊取の話」として掲載されている。多少の差異が認められる。

(8)昭和4年1月号

北斗ではないが「アイヌの恩人、ジョン・バチラー」という記事あり。

(9)その他

※北斗の掲載が集中している昭和2年だが、4月号と6月号は無かったため、確認できていない。もしかしたら、北斗の作品が掲載されていたかもしれない。

※本来の目的である「師表に立つバチラー博士」は確認できず。

 

管理人  ++.. 2006/06/26(月) 18:19 [213] 


子供の道話 
大正15年9月

北海道から
           違星北斗


  第一信
色々お世話様になりました厚く御礼申上げます
昨日バチラー八重子様の家に着きました、この村は三百戸ばかりの小さな村です、「アイヌは三十戸ばかりもありませうと思はれましたが漁家と農家と二三戸の商店とです。
平和な村と申しますより淋しい程静な村です
汽車の音が、たまにするだけで海の浪の音が今日はきこえませんが、昨日はゴー/\/\とそこひゞきのあるすごい浪音でした、野には名の知れぬ草花が雲雀のお家となつてゐます、近々中平取方面へ参りたいと思ますそれにしても当家を根拠にしてと存ます、いづれまたお便りします。

管理人  ++.. 2006/06/29(木) 10:32 [214] 

 「子供の道話」は「自働道話」の子供版で、いわゆる修養のおはなし、ためになる偉人伝とか、感動のお話などがいっぱい載っている雑誌です。編集は西川文子。西川光次郎の奥さんです。
「童話」ではなく「道話」という言葉の中にはそういう悪く言えば「説教」的な所がありますね。

 この手紙には、非常に興味深い記述があります。
 これまでくわしく分かっていなかった、北海道に帰ってすぐの行動がわかるのです。

 これによると、北斗は、北海道に戻った直後、「バチラー八重子様の家」に身を寄せているのです。
 しかし、これはよく知られている、平取のバチラー園ではありません。

 海に近い小さな村。
 手元に資料がないのでわかりませんが、これは有珠の八重子の教会ではないでしょうか。
(あるいは、ホロベツ(登別)にも聖公会の教会があって、八重子がいたのかもしれませんが……バチラー八重子の資料をあたってみます)。

 いずれにせよ、北斗は大正15年7月5日に東京を発っています。7月7日にはホロベツにその「思想の腰をおろ」した、といっているので、この7月7日から10日頃に書いた手紙だと思われます。

管理人  ++.. 2006/06/29(木) 10:43 [215] 

  第二信
謹啓
色々お世話様になりまして誠にお有り難う御座いました、この附近をぐる/\視察して近々中に日高国平取方面に参りたいと存じてゐますので遂い失礼してゐました、昨日白老村に参りました、こゝには二十三年前に奈良如翁先生が土人学校を初めて開校された当時の校長であつたと聞かされたゐたなつかしい学校がこゝにあるのです先づこの学校に立寄り今の校長先生にお会いたしました、奈良先生以来五代目の山本儀三郎先生はきはめて立派な性格の持主です、この人格者にして初めて土人教育も成功するもの也と思ました、この学校に来る前にも虻田方面の臼村にも居たそうで とに角 土人教育二十年余も続けて来たお方です、私しは全アイヌ族にかはりて厚く御礼申し上げました、アイヌの教育の実際も初めてみました、そして先生が児童の頭脳から通して将来の観察は私し共の本当にうれしい報告でありました、
(中断)

管理人  ++.. 2006/06/29(木) 10:53 [216]

長い上に段落が分かれていないので、とりあえず中断します。

 北斗は、「第一信」のあと、「この附近をぐる/\視察」して、「昨日白老村に参りました」と言っています。
 そう、帰道直後に、白老にも行っていたのです。
 白老では「土人学校」を訪ねています。この学校の初代校長が「奈良」先生、北斗が小学校時代に余市で教えを受けた先生なんですね。
 北斗はこの学校で山本儀三郎先生に会い、いろいろと話をします。
「私しは全アイヌ族にかはりて厚く御礼申し上げました」というところなど、北斗らしくていいですね。全アイヌを背負って立ってしまうあたり。
 山本儀三郎先生は、アイヌの児童の「頭脳」から、彼らの「将来」への「観察」をのべ、北斗はそれを「うれしい報告」だと受けとっています。

 北斗はこの山本先生を、そののち昭和三年に白老に来た時にも訪ねていますが、その際は留守で、会えずに残念がっています。

管理人  ++.. 2006/06/29(木) 11:02 [217] 

(続き)

子供になにかお話しをして下さいと先生よりの御注文なので一寸と困りました、その時すぐ子供の道話を思ひ出しました、あひにくその時は持って行く事を忘れて残念なことをいたしました、こんどはこの道話を一つ教科書にして子供の為になる様なことを宣伝したいと考へてゐます、まだ/\楽観すべきではありませんけれど然し大部私し共の喜ぶべきものがありますこんどあの土人学校のなにか参考になるらしい様なものをお送りしたいと存ます、私しは今アイヌの児童に美しい心を植へて行くには先づ己が一番近い趣味から入れたいと存じます、アイヌの道話的お話しは沢山あります、この間も面白いのをきゝました、まだ原稿には綴りませんがこれなども発表される機会があつてそれを更に逆輸入的にアイヌの方に宣伝したらきつと皆がよろこんでくれはしまいかと存ます、(中断)

管理人  ++.. 2006/06/29(木) 11:15 [218] 

>  これによると、北斗は、北海道に戻った直後、「バチラー八重子様の家」に身を寄せているのです。
>  しかし、これはよく知られている、平取のバチラー園ではありません。
>
>  海に近い小さな村。
>  手元に資料がないのでわかりませんが、これは有珠の八重子の教会ではないでしょうか。
> (あるいは、ホロベツ(登別)にも聖公会の教会があって、八重子がいたのかもしれませんが……バチラー八重子の資料をあたってみます)。

 「バチラー八重子の生涯」によれば、大正15年ごろ、バチラー八重子は幌別教会にいたようです。
ということは、これは、ホロベツのですね。

 北斗は、幌別にいたバチラー八重子に、いのいちばんに会いに行き、そこに身を寄せたんです。

 だからこそ、「ホロベツ」に「思想の腰をおろした」と西川への手紙に書いたんです。
 ホロベツの教会には、室蘭の学校に通っていた真志保もよく訪ねてきていたようです。
 だから、一緒に短歌も作った。

 いわゆる平取日記の冒頭、北斗がバチラー八重子のお祈りを見て感動したというのは、実際はホロベツ教会なのでしょう。
 そして、平取教会は、「普請中」だった。
 北斗の日記にも、壁を塗っただのなんだの出てきます。
 そういう状況だったのでしょう。

 ご親切にも「大正15年」の日記を「昭和2年」として編集した誰かが、ご親切にも日記の冒頭に「平取にて」と書き加えたのでしょう。

 ああ。ずさんな編集です。本当に。

管理人  ++.. 2006/06/30(金) 20:04 [219] 

(続き)
それはそうとしてもあのコタンの学生は七十人程も居ります、それで私しはこの学童の半数でなくとも二十冊ぐらいの子供童話をお送り下さいますことが出来たらどんなにか嬉しいのです、ナーニ、月おくれでもかまひません、古くてもどうでもよいからこの可愛アイヌの子供に寄贈して下さいますならば本当に有りがたい事です、どうぞお願ですお送本下さい白老土人学校は奈良先生と縁拠も深くそして二十三年も歴史を持つてゐます、こんどまた校舎を増築して開講記念会を催して奈良先生をご招待したいと山本儀三郎先生が申してゐます(日時は未だ未定)(中断)

管理人  ++.. 2006/07/03(月) 10:53 [220] 

(続き)

私しの今居るところヤヱ、バチラー様のお家は大日本聖公会教会です、本日日曜でしたので子供が少数参りました、何より驚いたのは婦人の数多が来たことです、不完全な日本語を使つてゐるメノコ(女)達が神の愛に救はれてゐるのです、文字もよめない人々はいつの間にかアイヌ語ヤクの讃美歌を覚えてそして今日お祈はアイヌ語でやるのです、シヤモ(和人)もまじつてゐますけれどもアイヌのメノコのこの健気な祈をきゝまた見て只私しは驚きの外ありませんでした。
今日はまあこれくらいにして筆ををきます。
 ホロベツのはまのはまなし咲き匂ひ
  イサンの山(向に突出してゐる岬の)の遠くかすめる
 アイヌ小屋あちこちに並びゐて
  屋根草青く海の風吹く
 白老の土人学校訪ぬれば
  かあい子供がニコ/\してる
 奈良先生が土人学校ひらきてより
  二十三年の今もなほある
 コタンに来てアイヌの事をきゝたれば
  はにかみながらメノコ答へり、

(第二信 了)
 

管理人  ++.. 2006/07/03(月) 11:01 [221] 

 この手紙の内容を見て、私は非常に驚きました。
 そして、長年の謎も解けた。

 北斗はやはり、東京から、幌別に直行したのです。
 目標は、「バチラー八重子様の家」、即ち大日本聖公会の幌別教会。

 ここを拠点に、同じく幌別の知里幸恵の家や、白老の「土人学校」などに行っている。
 ここで、山本儀三郎先生や、知里真志保に会っており、バチラー八重子も含めた三人で短歌を読んだりしたのも、このころ。
 「豊年健治」君たちと会って、寄せ書きをしたのもこのころ。
 (森竹竹市には未だ会っていないと思います)。

 第二信の内容は「平取にて」と書かれた7月11日の日記の内容そのままです。
 そうです。あの「平取にて」と書かれた日記の冒頭の7月11日は、実際には幌別教会のことだった。
(はからずも、この「子供の道話」大正15年9月号掲載の北斗の手紙の存在によって、日記が昭和2年ではなく大正15年であるということの、裏付けがとれたことになりますね)。
 バチラー八重子側の記録を見ると、八重子は大正15年には、まだ平取教会には行っておらず、昭和2年からになっている。
 幌別教会の記事だったのですね。

 その次の日記の7月14日は、平取の短歌がありますので、平取でのことだと思います。15日にも、沙流川という記述があります。
 北斗は、11日に幌別にいて、14日には平取に行っているのでしょう。

つまりは、こういう動きです。

大正15年
7月5日(夕方) 上野駅出発。
7月7日 幌別着。
 幌別のバチラー八重子の家(教会)に腰を落ち着ける。
 この家には、知里真志保もよく立ち寄り、北斗と真志保、八重子が三人で短歌を作ったのもこのころだろう。
7月11日(日) バチラー八重子の講話や、ウタリのアイヌ語の賛美歌を聞き、感激する。
 (この日か、それ以前に)知里幸恵の生家を訪ねる。
(平取に移動)
7月14日(水)
 (平取)教会の壁を張替する。岡村神父と意見交換。図書館と浴場が欲しい。
7月15日(木)
 向井山雄氏当地(平取)に来る。バチラー博士も来られるとの事。
 「鐘はかん/\と鳴る。それが此の小さなコタンの澄み切った夜半の空に響く。沙流川の流を挿んだ沢の様な土地に教会の鐘の音の鳴り渡った時、西の山の端には月が浮んで蛙は声清らかに此の聖なる響きに和して歌ふ。
 お祈りの終った頃は月も落ちて、北斗星がギラギラと銀河を睥睨して居た。」

管理人  ++.. 2006/07/03(月) 11:26 [222] 


  第三信

謹啓
愈御清栄の段奉賀候
小生事御蔭様にて無事に而も労働いたし居候間乍他事御休心被下度候
陳者先般は早速子供の道話二十冊御送り被下れ誠に有りがたく感謝いたし居候
内訳十五冊は白老土人学校(校長山本儀三郎氏)に学生回覧いたさせる可く御送申上候処昨日山本先生より御礼状参り申候西川先生に何卒宜敷く御礼申上被下度と伝言有之候残高五冊は、(長知内学校に三冊荷負小学校一冊、当地平村秀雄氏一、同キノ子、一冊)配本仕候いずれも感謝いたし居候長知内も荷負も白老も皆土人の学校にしてこの有益なる雑誌をこんなに皆様にお分つすることを得たことは誠に嬉しき事に御座候八月号も二十冊御恵送被下度(月をくれにても可)只一ヶ月では本当の宣伝になりませずと存られ申候間右御願申上げ候例のアイヌの道話は目下多忙に附き原稿にするいとまとて無之候小生は最初の予定の如く参らず目下生活の為労働して居候次第にて朝早くより夜遅くまで働きその余暇は雨の日と雖も部落訪問をいたし多忙はとても東京に居たる時より以上にて御座候あまり多忙でとても原稿のまに合ないと考へて居候間
(中断)

管理人  ++.. 2006/07/03(月) 12:05 [223] 

(続き)

長知内の校長奈良農夫也先生は、有名な奇人か偉人か変人として知られ居候処この程御目にかゝり驚き申候長知内校は公立にて普通の学校にて御座候らへ共実質上和人三人以外は全部土人にて約六十人有之候この学校長はどうみても現代ばなれした奇人にてこの人なればこそ土人学校に十六年も勤続したものに候この先生にはアイヌ語は申すに及ばずアイヌの神詩(カムイユウカラ)などは金田一先生以上(以上は少し申し過ぎかも知れませんが、とにかく)アイヌ通として、アイヌよりも他からも敬せられて居候この先生はアイヌの道話は沢山持つてゐるが、奇人めいた先生は発表(殊に自分の名を書せず)などはめつたにせない人にて御座候先日むりにお願してお話しをきかして下さいと申したが話さなかった、から原稿をお願申候処ローマ字で書いてもよいか(アイヌ語を入れて書くにはローマ字が必要だから)とのことにて御座候。学会よりも注目を集めてゐるこの先生が書いて下さることなら更らに面白いと考へてそれでも結構と申候処まあそうでなくてもよいかしらなどゝ申居候間八月から九月頃には匿名にて先生の御手許に着くことゝ存ますから其の説宜敷く御願い申し上げ候少し変り方がひどい方なんで他から物をたゞもらふ事の大きらひな人にて御座候間若その原稿が御手許に着候ともその代りとして雑誌を送つたりしては奈良先生のお気に入りに不相成候間その点殊に御注意被下度子供の道話は毎月三部づゝ回覧文庫に寄付したく存居候アイヌの生徒、それは可愛ものにて御座候只々この上経済的に伸さねばならぬ事を痛感申候
アイヌの道話(半分白く半分黒いおばけさん)を書きます少し短かいからイヤ、かへつて短編の方が雑誌にはよいかも存ません、近日中記き可申候
こんどの雑誌の配本予定、白老土人学校五、長知内学枝三、荷負(土)小学校三、平取アイヌ幼チ院一、上貫別(土)小学校二、二風谷(土)小学校三、外小生三、(月をくれにても可)お願申し上げるも誠に恐入候らへ共右何卒御願上候 敬白

管理人  ++.. 2006/07/03(月) 12:08 [224] 

第三信の意訳(かなり適当)

謹啓 いよいよご清栄の段、奉賀申し上げます。私はおかげさまで、無事にしかも労働をいたしております。他事ながらご休心いたされますよう。
 先日は子供の道話を20冊お送りくださり誠にありがたく、感謝いたしております。
 内訳は15冊は白老土人学校(校長山本儀三郎氏)に、児童に回覧させるべくお送りいたしました。昨日山本先生より御礼状が届き、西川先生に何卒よろしく御礼を申していただきたい旨、伝言がございました。残りの五冊は、長知内学校に三冊、荷負小学校に一冊、当地平村秀雄氏に一、同キノ子氏に一冊、配本いたしました。いずれも感謝いたしております。長知内も荷負も白老も皆土人の学校であり、この有益な雑誌をこんなに皆様にお分けすることができたことは誠に嬉しい事にございます。八月号も二十冊お恵み送りいただきたく(月をくれにても可)ただの一ヶ月では本当の宣伝にならないと思いますので、右のお願いを申し上げます。
 例のアイヌの道話は、目下多忙につき原稿にする暇がなく、私は最初の予定のようにはいかず、目下生活の為に労働しておる次第です。朝早くより夜遅くまで働き、その余暇は雨の日といえどもコタン訪問をいたしており、忙しさは東京にいた時以上で、とても原稿のまに合ないと考えております。長知内の校長奈良農夫也(のぶや)先生は、有名な奇人か偉人か変人として知られており、この程お目にかかって驚きました。長知内校は公立で、普通の学校でございますが、実質上和人三人以外は全部アイヌでして、約六十人ほどです。この学校長はどうみても現代ばなれした奇人であり、この人なればこそ土人学校に十六年も勤続できたのでしょう。この先生にはアイヌ語は申すに及ばず、アイヌの神詩(カムイユウカラ)などは金田一先生以上(以上は少し申し過ぎかも知れませんが、とにかく)アイヌ通として、アイヌよりも他からも尊敬されております。
 この先生はアイヌの道話は沢山持っておられますが、奇人めいた先生は発表(ことに自分の名を書かせない)などはめったにしない人でございます。先日むりにお願してお話しをきかして下さいと申しましたが、話していただけませんでしたので、原稿をお願いいたしましたところ、ローマ字で書いてもよいか(アイヌ語を入れて書くにはローマ字が必要だから)とのことでございました。学会からも注目を集めていらっしゃるこの先生が書いて下さるのであれば、さらに面白いとかと考え、それでも結構と申してありますが、まあそうでなくてもよいかしらなどと申されておられます。
 八月から九月頃には匿名にて(西川)先生のお手許に着くことと存じますので、その節はよろしくお願い申し上げます。少し変り方がひどい方で、他人から物をただもらう事の大嫌いな人でございますので、もしその原稿がお手許に届きましても、その代りとして雑誌を送ったりしては奈良先生のお気に召さないことですので、その点、殊にご注意いただきますよう。
 子供の道話は毎月三部ずつ回覧文庫に寄付したく思います。アイヌの生徒、それは可愛ものでございます。この上、(ウタリの生活を?)経済的に伸ばさねばならぬ事を痛感いたしております。
 アイヌの道話(半分白く半分黒いおばけさん)を書きます。少し短いのですが、イヤ、かえって短編の方が雑誌にはよいかもしれません、近日中に書きます。
 こんどの雑誌の配本予定、白老土人学校五、長知内学枝三、荷負(土)小学校三、平取アイヌ幼チ院一、上貫別(土)小学校二、二風谷(土)小学校三、外小生三、(月おくれでも可)お願い申し上げるも誠に恐れ入りますが、右の件、何卒お願いもうしあげます。 敬白
管理人  ++.. 2006/07/03(月) 23:44 [225] 

さて。

北斗は平取の長知内の学校で、「奈良農夫也」先生と会い、驚きますが、これ、北斗が余市大川小学校で教わっていたという、奈良直弥(のぶや)先生ですよね。
あれ? って感じです。

違うのかな。いや、やはり、この「奈良農夫也」先生、これは奈良直弥先生ですよねえ? 別人かなあ?

奈良先生は東京にいく前には余市にあり、「茶話笑楽会」の顧問をしていたはず。この奈良先生と西川光次郎が北斗の東京行きの話をまとめています。

そして、昭和2年の3月に北斗が余市に戻ったときには、奈良ノブヤ先生はまた余市にいる。

うーん。なんだか、北斗と行動をともにしているわけじゃないんだろうけど、北斗が平取を訪ねたときに、ちょうど長知内にいて、余市に戻ると余市にいるとは……できすぎのような気もするなあ。

奈良先生の異動に、北斗があわせたのかもしれませんが……よくわかりません。

それから、奈良先生のユーカラの知識が金田一先生に匹敵するというのは初めて知りましたね。アイヌ語も喋れたようです。
北斗の過大評価なのかもしれませんが。

それにしても、奈良先生、「現代ばなれした奇人」「奇人か偉人か変人」って、よっぽど変わり者だったんでしょうね。

管理人  ++.. 2006/07/04(火) 00:06 [226] 


もしかして……。

 長年勘違いしてきたのですが、「奈良直弥」先生は、「なら・のぶや」と読ませるのではない?

 『自働道話』昭和2年6月号掲載の西川光次郎宛の手紙に、

お手紙ありがとう存ます目下ウタグスと云ふ断崖の下の磯に漁舎を□(欠)てそこに起居してニシンの漁にいそしんでゐます。今年は例年にない不漁です。
 先日奈良ノブヤ先生がいらしてこのウタグスのバラックで一夜を明しました。先生からお土産をいたゞきました。それは曽て東京で西川先生からいたゞいた焼のりをわざ/\ノブヤ先生が私に持って来て下さいました。ナンダカ堅苦しい様な気分の中でもとに角く西川先生からのと思ふたとき何ともたとへかたなき嬉しさが湧きました。厚く/\く感謝いたします。

 というのがあり、これを根拠に「奈良直弥」は「ノブヤ」と読ませるのだと思いこんでいました。
 これ、別人なんですね。

 あ~、そうか。そうだったのか。
 海苔を持ってきてくれたのは、「沙流山人」こと「奈良農夫也」先生だったのか。

 すごい偶然ですね。何十年もアイヌ教育に携わっておられる先生が、二人とも「奈良」先生だなんて。
 関係あるんでしょうかね。

(奈良直弥先生は、古田先生によると、
 この先生は、ちょっと普通の先生の型にはまらぬところが、町民からまで「奈良先生、奈良先生」と愛されていた。
 北海道がまだ、北海遺庁のおかれていない以前、即ち、三県時代といって、函館県、札幌県、根室県とに分かれていたころの、函館県の師範学校(たしか簡易科)の卒業生である。
 氏の子息では、帯広市在住の能勢眞美氏(洋画家として北海道では有名)など知られている。
 昔、松竹の映画俳優として知られた奈良眞養(マサヨ、シンヨウ)という人は、奈良先生の甥にあたる。

 といった先生ですね。直弥先生は白老の「土人学校」の初代校長を勤めたあと、余市で北斗を担任(?)し、最終的には余市で亡くなったとお聞きしました。

管理人  ++.. 2006/07/04(火) 21:04 [227] 

 やはり、奈良直弥先生と農夫也先生は全くの別人でした。 

 農夫也のほうも調べてみます。


管理人  ++.. 2006/07/05(水) 08:59 [230]

2006年6月 6日 (火)

調査要件

夏に向けての調査要件のです。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:32 [197]

「北海タイムス」大正7年頃(北斗が見て憎悪の炎を燃やした記事)。

→一応、大正7年の「北海タイムス」をだいたい見てきましたが……まだみつかっていません。
 あとまわしにします。(2006/8/23追記)


管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:34 [198] 

「よいち」という郷土誌(S28.3)に古田謙二の「違星北斗について」という文章があるらしい。

→道立図書館にはありませんでした。余市図書館をさがしてみます。(2006/8/22追記)

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:35 [199]

「泣血」の作者、阿部忍について。
 駒大に関係あるか。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:37 [200] 

「放浪の歌人・違星北斗」とその作者、武井静夫について。
 掲載誌が不明なのと、続きがあるのかどうか。
 武井の「後志歌人伝」(1975)という本には北斗のことが書かれてあるが、特筆すべきことは書かれていない。
 しかし、「放浪の歌人」では、かなり精密に調査されてある。75年以降の、広告からすると、北海道の雑誌であると思われる。

→掲載誌は「北方ジャーナル」だそうです。掲載号数は不明ですので調査します。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:45 [201]

「コタンの夜話」(谷口正)について。

 平取時代、北斗が二谷国松を訪ねたことについて記載があるという、 湯本喜作の「アイヌの歌人」に出てくる書名・作品名だが、わからない。
 
 古田謙二が、同様の記述を北海道の雑誌で読んだと書いてあり、それも同じものかもしれない。いずれにせよ、『アイヌの歌人』が出た昭和29年より前だろう。
 

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:49 [202]

「早川通信」の早川勝美について。

 北斗について、精細な調査を行っていたようだが、どのような人物であったのか。北斗に関する著作はないのか。

 道立図書館に
「アイヌ文学文献考 文学に描かれたアイヌ民族」というものがあるが、そこに北斗の記述はないか。


→北斗の記述はありませんでした。(2006/8/22追記)


管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:54 [203]

釧路新聞 対象5年3月5日に北斗の記事ありとの情報。確認。
管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:55 [204]

「子供の道話」をチェック。(岡山金光図書館にあり)

 北斗が感銘を受けた大正15年8月の「道話」に掲載されたという「師表に立つバ博士」について。
(自働道話にはなかった)。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:58 [205]

後藤静香記念館を訪ね、希望社周辺のことについて調査。
管理人  ++.. 2006/06/06(火) 20:59 [206]

国柱会周辺の調査。北斗が参加したという大正14年の講習会の記録はないか。
管理人  ++.. 2006/06/06(火) 21:00 [207]

東京府市場協会について。

 「泣血」では、北斗の東京での住まいが、市場協会の事務所の二階になっており、「燃料部」という記述もあるが、本当はどうなのか。
 北斗が勤めたのは新宿で正しいのか。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 21:02 [208] [引用]

未見の「句誌 にひはり」を確認すること。
東京・三康図書館にあります。

管理人  ++.. 2006/06/06(火) 21:13 [209] [引用]

北海道立図書館

「北荒の黒百合 コタンの教員・奈良農夫也の生き方」
 著者 渡辺惇 出版者 渡辺惇


→北斗のことはほとんど載っていませんでした。
 数行だけ載っていましたが、著者は北斗と奈良農夫也に接点があったということを、ご存知ないのだと思います。
(2006/8/22追記>

管理人  ++.. 2006/07/04(火) 21:08 [228] [引用]

余市文教発達史より

『明けゆく後方羊蹄』に北斗の記事

『追想される人々』田坂要人

『余市町郷土史』

管理人   ++.. 2006/07/22(土) 14:43 [251] [引用]

> 「放浪の歌人・違星北斗」とその作者、武井静夫について。
>  掲載誌が不明なのと、続きがあるのかどうか。

 これは「北方ジャーナル」らしい。しかし、何号かはわからない。

管理人  ++.. 2006/08/21(月) 23:44 [260]

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