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2006年7月

2006年7月18日 (火)

横浜調査

仕事で東京に行ったついでに、横浜へ。
神奈川県立文学館というところへ違星北斗の文献を漁りにいきました。
今回の目的は「にひはり」という大正終わりから昭和のはじめの俳句の雑誌。
まずまずの成果でした。

(1)「にひはり」大正13年11月 特集芭蕉号


「北海道から北越へ(上)」勝峰晋風

 にひはり主筆の勝峰晋風が北海道を訪ねています。
 その中に「林檎の名所余市」という記事があります。

 林檎の名所余市

 廿日正午、岩内を立つて国富駅に来ると、千葉羽卒子が本多楚童子と共に面会に出てゐた。羽卒子は小沢まで同車して、その指導する十文会の近況を話した。小沢から本線に乗換へて間もなく、仁木へ田中半夢子が出迎へに来たので汽車中話しながら午後余市に着いた。停車場から奈良如翁子の宅へ導かれて、枝も撓む林檎をもぎ取り大きな房のゆれる葡萄を蔓からつまんで野趣を掬し、夜に入って小保内桂泉子の経営する丸久旅館に投宿した。二十一日は如翁、半夢、桂泉の三子に案内され、モヨリの岸壁に沿ふて青い青い澄んだ海をながめつゝ、沢町へ散歩して本間三咲子の撞球場で少憩した。旧知の余市は僕を小樽の新聞記者時代に回想させて多少の感慨がないでもなかつた。小樽から長尾其仙子に代つて水声子が来られた。仁木から汀花、笑石、閑鴎の諸子、蘭島からも数名来会したので句会を開く以前既に盛んな句作気分をかもしたのであつた。丸久旅館の奥座敷をぶつ通して句会の席とし北海道に行はるゝ方言又は土語を作中に詠ずるやう希望したのと、出句を全部手刷版にすつて来会者に配布したのとで、時間はだんだんに遅れて行つた。僕は余市に就ての感想と東京に於ける俳壇の批評を述べたが、まだ詠草が刷上らないので画讃のこと及び写生句の遂に成立せざることなどを約一時間講話した。出席三十九名に達したので幹部は大汗になつて進行したが披講了つて散会したのは、翌日午前二時であつた。出席者に北斗子を見たのはうれしかつた。北斗子は旧土人であるが、アイヌ族の一人たるを恥るよりは寧ろ同族をして何人にもヒケを取らないまでに進歩させやうといふ気概家で、「にひはり」愛好者として如翁子から、詳しく人物性格を紹介されて異常な感慨うたれたのである。この句会にも
  落林檎石の音して転けり  北斗
の如き、既に月並を脱した句を出して人々を驚かせたが、時間がなくして、したしく談話し得なかつたのを遺憾とすする。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 11:35 [244]

 余市の歓迎句会   田中半夢

 晋風先生が来られた。ほんとうに来られた嬉しくてたまらない。二ヶ月前からの御約束であり待ちに待つた先生真実嬉しいに違い無い。が私が仁木の駅で初めて御目にかゝつた時までは実際内心は言ひ知れない不安に駆られてゐたのだ。夫れは此の片田舎の俳壇が如何に幼稚で如何に衰頽してゐるかを嗤はれると思つたからだ。処が一度御遇ひして見ると私の考が全然間違つてゐた事が発見されたと同時に非常な、親しみを感じさせられた。他に理由は無い「先生臭くない先生」「隔てのない先生」夫れだけだ。而して私の杞憂は居場所が無くなつて忽ち消え去つた。
 九月二十一日午後六時から支部員で旅館を経営し居られる小保内桂泉氏宅大広間で句会を催した。小樽、仁木、蘭島から猛者十数氏の来会あり地元俳人を加へて実に三十九名当地句会初めての盛会であつたことは、主催者として誠に喜ばしかつた。先生から眼白、稲妻、夜学、林檎の四題を戴たが内二句は特に「北海道に行はるゝ方言を用ひて」との御注文には一同聊か面喰つた。「句作と講評」と題する講演が終つて披講に入つたが、何様不馴れなのと特に紀念の為に三百二十句からのものを印刷して配布した為、全部終つたのは午前二時であつたことは忙がしい旅の先生ははじめ来会者諸君に申訳がなかつた。こゝで深く御詫をすると同時に「句の素質が良い一般から推して中の中どころだ」と云はれた先生の言葉を頼みに、之から奮発したいと思ふ。
  林檎売りの魚臭き刺子でありに鳧   水声
  森のオヤヂ(熊)の寝様稲妻折々す  汀花
  夜学終へて炉囲めばドンコロ燃え盛る 笑石
  ランプ煤けてあづましく無き夜学哉  水声
  夜嵐や袋のまゝの落ち林檎      三咲
  コクワ採るや眼白しば鳴く峡夕日   水声
  夜学子やランプのホヤの破れ貼り   暮笑
  凍林檎石の音してころげけり     北斗
  樹の林檎の粒々冷えて月夜なり    汀花
  一羽来て何時迄鳴かぬ眼白かな    一舟
  稲妻やより藻に光る蟹の泡      拙水
  月を背に負ふて夜学の路遠し     鹿の子
  稲妻やたれ穂の浪のつゞく里     芦汀
  林檎たわゝに揺れ居たり園の書静か  閑鴎
  稲妻や大樹を透し迫るまど      笠杖子
  眼白啼くや丘なだらかによく晴る   汀花
  眼白押し一樹につのるかはら風    拙水
  シガ(氷)五尺やがて夜学の門はしら 玉童
  稲妻や舟みな伏せて濱しづか     一舟
  眼白押す枝揺れ撓み落ち日寒む    半夢
  むきかぬる林檎の皮の赤さかな    鹿の子
  夕陽赫と林檎つぶらに済める背戸   空石
  稲妻やつゞいて光る河岸の舟     一洲
  晩学の灯しに妻は縫ひ添ひぬ     汀花
  壁に映る親しき影や夜学の灯     拙水
  草の実のこぼるゝ風や眼白押し    はじめ
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:13 [245]


これらの文章を読むと、以下のようなことが分かります。


1 北斗は、大正十三年頃、余市の句会というか、俳句グループに属していた。
 ここには、恩師の奈良直弥先生が属しており、また日記に出てくる小保内氏も属していた。
 
2 大正十三年九月二十一日に小保内氏の旅館で句会が開かれ、北斗も出席。「落林檎」(後の文章では「凍林檎」)の句を詠んでいる。

3 この「落林檎」は、「北海道樺太新季題句集」に掲載され、「コタン」にも載っていましたが、長らく北斗のものかどうかが不詳とされていました。それが、北斗の作だと証明されたことになります。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:21 [246]

「にひはり」大正十四年一月号

 余市にひはり句会(田中半夢報)

  いとし子の成長足袋に見ゆる哉   北斗


  ぬかる道足袋うらめしう見て過ぎぬ 北斗



 =======================

 新発見の二句。

 上の「いとし子の」は、北斗の子のことでしょうか。
 どうでしょうか。

 もしこれが、北斗の愛児のことだとすれば……。

 北斗に子供がいた(トモヨ)というのは、すでにわかっていることですが、それがいつごろなのかが、わからなかったんです。
 この句が、北斗の子の成長を詠んだものなら、やはり大正十三年ごろに生まれたということにならないでしょうか。
 日記昭和三年の記述「今日はトモヨの一七日だ」を信じるとすれば、トモヨは昭和三年に死んでいます。大正十三年ごろ生まれたのだとすれば、満3~4歳ということになります。

 しかし、この「足袋」というテーマは句会の御題のようで、他の人も「足袋」で詠んでいます。すので、まったくのフィクションということもありうるかもしれません。
 
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 12:32 [247]

別の北斗

 「にひはり」を見ていると、違星北斗と同じく「北斗」の号を使っているのですが、おそらく違星北斗ではないだろうと思われる「北斗」さんを発見しました。
 念のために挙げておきます。

(1)滋賀の北斗さん
にひはり大正12年8月号

「若草会 滋賀支部 仲邑翠濤報 松宇先生撰

   寺の蚊の弥陀の御肌 憩ひ鳧  北斗 」

(2)会寧(朝鮮半島)の北斗さん

にひはり昭和3年3月号

「豚の背に鵲とまる冬の朝   会寧  北斗
 口髭に氷柱三寸下りけり       同
 虎吠る白頭山や冬の月        同」

昭和3年4月号

「銃声も余所に揚がれる雲雀かな  会寧  北斗」

昭和3年6月号

「菊の苗秘蔵の土に移しけり  会寧  北斗
 羊飼ひの羊と寝たる日永かな 
    朝鮮風俗
 ふらこゝに鮮女集まる端午かな」

昭和3年7月号

「春雷に声なく飛べり時鳥   北斗」

※これは、「時事吟 坪谷水哉選」の中の一句。時事ネタに関連づけた句を紹介しており、この句には「第三師団動員の応召勇士」とある。詳細は不明。

同号
「斧鉞見ぬ大森林や閑古鳥  会寧  北斗
 蒜の香に席替へぬ汽車の旅        」

八月号
「麻雀に耽て短夜明にけり  会寧  北斗
 褌のあとのみ白き裸かな
 新茶煮て新茶を題や俳諧師        」

=======================
※会寧はフェリョン、現在の北朝鮮北東部の都市。
 当然のことながら、昭和三年は違星北斗は闘病中であり、まったくの別人だと考えられる。
管理人  ++.. 2006/07/18(火) 13:10 [248]

草風館版コタンの誤り?をいくつか発見しました。

①『にひはり』(大正15年4月号) 
 「畑打やキャベツの根から出し若葉」

 は、「大正14年4月号」の掲載。

②『にひはり』(大正13年11月号)に掲載されているという
「かさこそと落葉淋しく吹かれ鳧(けり)」
「乾鮭や残留の漁夫の思はれつ」
 
 二つの短歌は確認できなかった。
管理人  ++.. 2006/07/21(金) 17:13 [249]

2006年7月16日 (日)

似てるなあ

2006年07月24日10:48
 22日土曜日、夜10時からNHK教育でやってた、ETV特集「あるアイヌからの問いかけ~萱野茂のメッセージ~」を見ました。

 大正15年生まれの萱野茂という一人のアイヌの生涯を通じて、アイヌ民族の歴史を知ることができる、「入り口」として、非常によくできた番組だと思いました。多くの人が、この番組によって、アイヌ民族の歴史や文化に興味を持ってくれたらいいな、と思いました。
 いろんな方が書いてらっしゃいますが、よくまとまっていて、学校などで見せるといいのではないか、と思った番組でした。

 で、驚いたのが、若い頃(30代)の萱野先生の顔が、けっこう違星北斗に似ているなあ、ということです。
  
 番組の内容とは別に、個人的に感激したのが、昭和の初めの頃の二風谷のフィルム。そう、違星北斗がうろうろしていたころの風景です。
 マンロー医師がフィルムにおさめたものということなので、実際は北斗が平取を去ったあとだとは思うのですが、それでも北斗がこんな風景の中を歩いていたんだなあ、と感激しました。
 萱野茂先生は、大正15年の6月15日の生まれで、違星北斗が7月以降に二風谷に訪れた時には、まだ生まれたばかりの赤ちゃんだったわけですが、もしかしたら、25歳の北斗と0歳の萱野茂るが、80年前の二風谷で出会っていたとしたら、これはドラマチックなことだと思います。

2006年7月14日 (金)

奈良農夫也

『初期社会主義研究11号』(初期社会主義研究会)に掲載の「詩人大塚甲山研究(1)―『鴎外日記』に現れた奈良農夫也の生涯 甲山と児玉花外との接点を探る』(きしだみつお)に、奈良農夫也のことが書かれていました。

 森鴎外の「明治四十三年日記」四月十日に出てくるそうです。

「秋田県角鹿郡花輪町袋丁の人獣医奈良農夫也といふもの大塚寿助の紹介書を持ちて来訪す」

 とあるそうです。
 その時の風貌は髪の毛が肩を越えて長く、大塚甲山の紹介状を手に鴎外を訪れ、いきなり自分の日記を保管してくれと言ったそうです。

管理人  ++.. 2006/07/14(金) 19:31 [240]

また、奈良農夫也は明治四十一年三月、三本木の青森県立畜産学校畜産科を卒業し、獣医師免許を取得したそうです。二十四、五歳の頃、上京して千住の木賃宿に一年ほど暮らし、労働して生活していましたが、そのころ徳冨蘆花と知り合ったようです。
管理人  ++.. 2006/07/14(金) 19:32 [241] 

 
 その後、北海道に渡り、日高国沙流郡長知内教習所でアイヌ教育に従事していましたが、岩波書店の創始者、岩波茂雄の書いた開業の挨拶状に感動し、岩波書店の地方販売に協力し、「蘆花全集」を出す時には上京して編纂に協力したようです。
 蘆花が昭和二年九月、「蘆花全集」が出たのが昭和三年頃です。奈良農夫也は昭和二年の四月に北斗に、西川光次郎からのお土産(海苔)を渡していますが、これは東京で受けとったものかもしれませんね。
 この時点では蘆花がまだ生きていますが、生前に全集を出すというのはよくあることだと思います。
(ちなみに奈良農夫也の文章が「子供の道話」に掲載されたのが昭和二年二月号。すでに西川とは縁があるわけですね)。

 浅草の木賃宿にいる時には子供に英語を教えたりもしていたみたいですね。
 関東大震災の時にも岩波書店に援助をしています。

 これらは「岩波茂雄伝」に載っているエピソードだそうです。

管理人  ++.. 2006/07/14(金) 19:51 [242] 

 奈良農夫也は明治20年頃の生まれだそうで、北斗より十四歳ぐらい年上です。
 そう考えると、思ったより年齢に差がありませんね。

 奈良直弥は明治十六年に「北海道に移住」した人ですから、奈良農夫也とは、親子ほど年齢がちがいますね。やっぱり無関係なのでしょう。

管理人  ++.. 2006/07/14(金) 20:00 [243]

2006年7月10日 (月)

アイヌのお噺 世界の創造とねづみ

アイヌのお噺(ウエベケレ) 第二信

世界の創造とねづみ (清川猪七翁談 文責 北斗)

 世界(モシリ)は元と海もなく岡もなく雲の様な泥の様なものでありました。
 天上大神(カントコロカムイ)が黄金のよし(コンカネシュック)で突つきました。すると水が一つところに集つまり土が土で又固りました。そして干きあがりまして、水の洋々としてゐる処は海(アト゜イ)となり、岡は陸(ヤウンモシリ)となりました。万物判然と現れ、そして世界の創造が全部出来あがりました。
この世界を支配する神様が天上からお降りになることになりました。
 ところが悪神(ウエンカムイ)がありました……(この神様(カムイさま)は何んでも反対するし亦外(ほか)の神様(カムイさま)をねたんだり羨んだりする悪い神威(カムイ))……心ろ密かにこの世界を自分のものにしやうと、悪計をしました。そして
「私がモシリを治めませう」
と言ひ出しました。
「イヤ私は天上大神(カントコロカムイ)の命で支配するのです」
と申しましても悪神(ウエンカムイ)はなか/\剛情で聞き入れません。よい神様もほと/\困つてしまひました。どちらも、ゆずり合ないので果しがつきません。かういう時ウヌプルパップペと云ふて術くらべ、或は智慧くらべ、をやつてあらそひの勝負を決定することになります。
そこで、よい神様と悪い神様と、ウヌプルパップペを、やることになりました。
「デハ私は先づ初めませう。いり豆を畑に蒔(まき)ます。この豆に花が咲き実が結ばなかつたら私は負けますけれど若し成功したら貴公は私に服従しなければなりません。」
と、悪神(ウエンカムイ)は問題を出しました。
正しい神様は今はいやとも言(いわ)れず、それに賛成することになりました。いつた豆だからよもや生へやうとは思ませんでいた。
悪神(ウェンカムイ)は、豆をいりました。そして畑にまきました。すると驚くではありませんか、件のいり豆がぽつ/\芽を出し初めました。
よい神様(カムイさま)は、サァ大変だ。これではならぬと、大そうご心配になりました。このまゝに捨て置いてはあの豆がやがて成るであらう。今負けては悪神(ウエンカムイ)にこの世界が自由勝手にもてあそばれてしまふ、はてどうしやうと。腕をくんで思案してゐました。折柄一匹のねづみがちよろ/\と出て来て、
「ご心配には及びません。私がこれからあの豆を皆根を食ひ切つて参ります」
 と云ひ去りました。ねづみは遠くよりトンネルを掘つて行きました。そして悪神(ウエンカムイ)のまいた豆を一つ残らず根を食ひ切つてしまひましたので流石(さすが)の豆も全部枯れてしまいました。
悪神(ウェンカムイ)は遂ひに負ました。よい神様(カムイさま)は大そうお喜びなさいまして、彼(か)のねづみを大そうおほめになりまして、ごほうびとして言渡しました。
「ねづみよ、お前はよく働らいてくれた。今度のほうびとしてお前達はこれから人間の物を喰ふ事を許可する故に。人間のこしらへたものなら何んでも遠慮なしに食ひなさい」
 よい神様(カムイさま)のお為めになつたねづみは神(カムイ)に許され今に尚(な)ほ人間の物を喰ふて生きてゐます。
 ……(ですからねづみをむごたらしいいぢめ方或は殺しかたをするものではないそうです)……
  ………………………
 世界(モシリ)は善い神様(カムイさま)をいたゞいてゐます。(完)

2006年7月 5日 (水)

アイヌのお噺 半分白く半分黒いおばけ

アイヌのお噺(ウエベケレ)(第一信)

半分白く半分黒いおばけ

(バチラー八重子伝承)文責 北斗


 二人の兄弟がありました、兄(あに)さんは強くて大きくて元気のよい方(かた)でした、弟は生れつき体が弱くて兄様ほどの元気はなかつたですけれども正直で親切な弟は村(コタン)では評判者でした。お母さんの言附けもきかない兄は遊んでばかりゐまして、水をくむのも、お使に行くのも皆弟がさせられました、こうして生長するにつれて兄はだん/\悪くなりまして、毎日毎日お酒を呑んで遊んでゐました。もう村では
「アヽあれかあれはもうどうにもこうにも手の附けやうのない男だ、酒を呑んでけんかばかりする、あんな者はとても相手にされたものではない」。と爪はぢきしました。
 可愛そうに弟は弱いからだをいとはずに、或時は熊とも闘はねばなりませんでした。又或時は巨濤を乗切つてシリカツプの漁に出る、マレツプ(ホコ)をひつさげてチイップ(鮭)をとりに川にゆくのです。兄の姿は見えません、丈夫でない弟にこんなに骨折らしてゐる兄にはこの村(コタン)ではお友達一人もなくなつたのです。それでもちつとも憎めなかつた兄思ひの弟は、一番仲のよいお友達でしたのです。しかし兄にはこれをそうとは思ひませんでした、こんな弟がゐるから世間では俺を相手にしないのだ、いまいましい弟だと、自分のいけないのを考へないでひそかに恨んでゐました。

ある日のことです、いままでにない程親切に「弟よ今日は釣りに行かうではないか」と申ました。海も静だ天気もよいし、いつになく起源のよい兄の顔をみて弟は悦で賛成しました。
 それから川を下つて海に出ました、例によつて弟は一生けんめい車がいを漕ぎます、
 アシタポで梶をとつてゐる兄はまるでお客様のやうにかまへてゐて「まだ行かう、もう少し行かう」と弟にばかり漕がしてゐます。沖へ沖へと半日たゞ進ませてゐました、もう自分達のコタンがみえなくなつて高い山だけが遠く小く水平線にみへるだけでした。こんなに沖に来て一体なにするだらうと弟はそろ/\心配になつた、けれども一向平気で兄は尚も先へ行かうとします、其の日の夕方にやつと一つの島に着きました。
 兄「お前は一寸の間こゝに待つてゐてくれすぐ迎へに来るから」弟を上陸さして兄はどつかへ行つてしまいました。何程待つてゐても更らに迎へに来ないのです、すつかりくたびれた、お腹もすいた、日も暮れかゝつたのです。それでも、今にきつと迎へに来るだらう、と信じてゐました。そして腰からタバコ入れを取出して煙管(きせる)をくわへパクリ/\と喫てゐました。その時一陣の風と共に岩かげより大きな人間が現れました、と見ればこれはまた不思議なことにはその巨人は半分は真白く半分は真黒い顔をして半分白く半分黒い着物を着て弟の傍にづか/\とやつて来ました。やさしい弟はこの怪物をみて怖れるよりも不思議で耐(たま)りませんでした。自分が今まで喫(の)んでいた煙管を一寸(ちょっ)と袖でふいてそのおばけに「お喫(のみ)なさい」と差出しました。そのおばけはだまつてその煙管を受取るておもむろに一ぷく喫(すっ)て、怖い相貌をくずしてニツコリ笑ひました。そして
「俺は元より怪物である、お前を喰ひに来たのである、お前の兄に頼まれたから喜んでお前を喰殺すつもりで来たのであるけれども、お前は実にやさしい人間だ、罪もないお前を殺すのは可愛相である、俺は半分は白く半分は黒いがこれは半分は良心半分は悪心の魔であつて半年は悪魔の尤も猛烈な時であり半年は幾分良心に引かされて魔性のゆるやかな時である。お前ももう四五日も遅れて来たならとても助けられもせないのであるけれども、丁度良い時に来たものである、親切で正直なお前の心に免じて助けてあげませう。サア俺の帯をつかんで歩いて来なさい」
と、申しました、仕方なしに云れるまゝ怪物の後について行きました、とても歩くのが早くて早くてまるで飛んでゐる様です、こんな断崖はどうして昇れやうと思ふ様な処でも何の苦なしに上がられます、そして大きな岩屋に着ました、件のおばけは声をひそめて
「今暫らくこゝにかくれてゐなさい」
と、うす暗い物かげに隠してくれました、どうなることかと心配しながらぢつとしてゐましたら怖ろしい風音してどつからともなく悪魔が集つて来ました
「アア良い匂がするネ」
「人間臭い、良い匂だ」
怖くて恐ろしくて耐まらないのですけれどそつとすき見しますと、これは/\半分白く半分黒いおばけの群れです。するとさい前(ぜん)のおばけは
「ウン人間臭いのも道理ださつき人間の村(コタン)から飛んで来た烏(パシクル)が屋根の上でないてゐたつたそれだから人間臭いのだ」
「そうかいナァーンダ」
「がつかりするネ」
またも大きな風音と共に帰った様子です、

「サアもう大丈夫だ出てゐらつしやい、そうだそうだ、お腹がすいてゐるだらう。よし/\待つてゐなさい。今まごはんを進(し)んぜやう」と、半分白く半分黒い大きなお鍋に半分白く半分黒いお米(アマム)を煮ましたそしてお膳もお椀もおはしもことごとく半分白く半分黒いものづくしです。沢山ご馳走になりその夜は安心して一泊しました。あくる日でした、
「お前の兄は大そう悪い者であるが、それに引替へ弟はなか/\感心であるから良い宝物を授けてあげるにより大切に保存せよ、村に帰つてもそのやさしき心をなくせない様にしてゐなさい。此の寶さへあれば一生幸福に暮せるであらう。」(宝物は何であるか不明)
「誠に有難う存じます」
と、おし戴きました。その日のうちに送られて帰りました、驚いたのは兄です、村(コタン)の同族(ウタリー)に「弟は舟から落て行先不明になつた」と、よい加減な事を云ふてゐたのがふいに帰つて来たのです、村の人は大そう悦んで迎へました、それからと云ふものは弟は益々評判がよく幸運が続くのみでした。
つく/゛\と考へた兄は羨やましくてなりませんでした、其の後ひそかに彼(か)のおばけの島にと舟出しました、けれどもそれつきり兄の消息を知る人はありません、二度と村に帰つて来ない兄はどこでどうなつたでせう?
  ………………………
 正直で親切な弟はそれからと云ふものは本当に目出度(めでた)く栄へました。(ヲワリ)
(ウイベケレには兄弟の名が現はれてゐませんでした)

(『子供の道話』大正十五年十月号)

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