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2006年9月19日 (火)

「郷土誌 よいち」


 違星北斗を偲ぶ
鍛冶照三

北斗君は私と前後七ヶ年にわたつてお互いに理解し合つた間柄であつた。共に談じ共に食し、或る時は山野を跋踊し、アイヌ古蹟の調査に草を分け、歩み労れては共に寝ね、夕暮近くに帰つたことも幾度かあつた。ガツチヤキの薬を売りながら、コタン巡りをしていた頃の或る晩であつた。私の門に立つて暫くの別れにと「別れの曲」を吹奏され静かに立ち去られた。箕笠かぶりの清き尊きあの夜の姿こそは忘れようとして忘れることの出来ない思い出となつた。
(中略)
●北斗君の人柄
北斗君は稀にみる硬骨漢である。史実家であり、同時に血と涙とを多分に持つた詩人であり、歌人でもあつた。
君は常にアイヌからは大西郷も出なかつた。乃木将軍も出なかつた。ただ一人の偉人をも出さなかつたのが残念であるが、併し俺は失望しない。せめてもの誇りは不逞アイヌの一人も出なかつたことである。
朴烈や難波大助をアイヌから出さなかつたことがせぬ(ママ)てもの誇りであることをよろこびとしていた。
君の短かかつた生涯をばアイヌを覚醒さすべくコタンよりコタンへと、アウタリーの滅びゆく悲しい現実を更生さすべく同族の中より出て只一人の若き先立者として後半生を捧げ尽した功は偉大であつた。
●故人の霊への言葉
彗星の如く現われて彗星の如く消えて逝かれた君の短い一生は、不遇と病患と貧困との苦闘に生れてきたような感じがしてならない。
君逝いて早くも二十六年の星霜は流れ、世の情勢は幾変遷きわまりないものがあるが、君の思想と精神は永遠に不滅なものである。郷土誌“よいち”三周年記念号発刊されるに際し、在りし昔を偲びつつ仏前に手向け故人の霊を弔う。
(筆者は 史蹟研究家)

※「郷土誌 よいち」昭和29年8,8月号 


管理人  ++.. 2006/09/19(火) 19:38 [269]

「郷土誌 よいち」は、余市郷土史研究会の発行。

 上の文章のうち、「北斗君の人柄」の「北斗君は稀にみる硬骨漢である。史実家であり、同時に血と涙とを多分に持つた詩人であり、歌人でもあつた」については、希望社『コタン』に掲載された、岩崎吉勝の「跋」の引き写しです。
 「故人の霊への言葉」は、金田一の「違星青年」に似ているフレーズがあります。
 
 それはそれとして、この鍛冶さんは北斗とともにフィールドワークをしたとのことで、これは貴重な証言だと思います。
 この方には「明け行く後方羊蹄」という著作があり、それも見てきましたので、それについてはあとで書きます。

 


管理人  ++.. 2006/09/19(火) 19:47 [270] 


 さて、次に「よいち」の1953(昭和28)に掲載された「違星北斗のこと」(古田謙二)についてですが、

 ……これは残念ながら、「違星北斗遺稿集」(昭和29年)に掲載された「落葉」と同じものでした。
 古田謙二と山に散策に来た北斗が、突然自らの改悛を叫びながら、山の木々を両腕で揺さぶって、あたりいっぱい落葉を落とす話ですね。


 

管理人  ++.. 2006/09/19(火) 19:52 [271] 

「よいち」昭和27年

「余市アイヌの座談会」


「この町ではアイヌ人種と云う言葉は己に失われているものであろう。それ程余市町は蝦夷の地としては古くから拓け、和人とアイヌ人との間は融和し混血された。それだけに余市の現文化は、アイヌ文化の研究なくしては語ることは出来ないであろう。こゝで、古老二名と壮年者一名に依り過去のことやら将来いかになり行くべきかについて話してもらつた」

 ということです。以下、タイトルのみ。

・今では三十家族
・出稼ぎ漁夫が手をつけて
・酒を呑むに礼あり
・見せ物ではない
・珍らしい食べ物
・五回に一発出る銃 
・変つた狸獲り法

 けっこう、勉強になりました。

管理人  ++.. 2006/09/19(火) 20:11 [272]

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