「違星北斗の会」主宰の木呂子敏彦氏のご遺族の方からコピーをいただいた資料の中の、「北斗への手紙」です。
●昭和2年3月23日 金田一京助→違星北斗 葉書 「いろいろなことを体験された出せう。過日北海タイムスの一文は私も向井山雄君から送られて一読しました。札幌郡広島村字中ノ沢今野正治といふ青年です。どういづ人かよく分からないが、アイヌ問題が太平洋学術会議などできまってしまひでもするかのやうに期待して聞いてよこしますから、百年千年の懸案で、さう/\会議などできまってしまふやうな簡単な事では無いのみ成らず、よそから来た人々は、オーストラリヤ人へ関係つけて考へてゐるやうですから、あんな激烈な返事を出したのでした。何かアイヌの歴史をしらべてゐるそうです。それはこれから調べるべきだと云ってやったら、それでは自分も村へはいって、そのしらべにかからうかと云ってるのです。」
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 01:56 [278] |
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●昭和2年4月26日 金田一京助→違星北斗 葉書 「いつもお元気で結構、鰊があまりよくない由心配して居ります。体の無理をなさらぬやう祈ります。こちらはやっとよい時候になりました。あの後一度アイヌ学界を開きました。向井山雄君の上京を期として、ウメ子さんも同伴して大いにこんどは知識階級の人を東京人に紹介したわけです。一同の人々が驚異したのも愉快でした。但し向井君があのとほりのものだから、それに当夜のお客さんの中には、知らぬお客さんもよんだものだから、その人との間に向井君が激論をやり出し、会が白けて残念な幕をとぢました。議論半ばに時間が切れ、それに大雨に祟られて帰ったものでさんざんに皆が濡れとほって。 本年一月号(十二月の内に出版)の新青年に「太古の国の遍路から」を書きました。民族の五月号には知里真志保さんの研究があらはれます。」 宛名 北海道余市町沖村 ウタグス 違星漁場 違星瀧次郎様
ここで貴重なのは、やはり「違星漁場」の存在が記されていることですね。シリパの岬の裏にあるウタグスに、違星家は漁場を持っていたのです。 といっても、地元の方に聞くと、非常に辺鄙な、漁場としては良くないところらしいですが。
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 01:59 [279] |
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●昭和3年1月? バチラー八重子→違星北斗 封書 「新年お目出度御座います。 つひ分御無沙汰いたして居ました。 御変もありませんか。私はお正月休に参って居ます。札幌の養家に一度上がり度ような気持で居ますが上がってもしご迷惑をおかけ申ますようなればいけませんと存じて居ます それに御伺申*ことも御座いますの 中里様では何の変ったこともありませんでしたでしょうか 御息子様の御病気は其後如何でございましたでそう御伺ひ申つもりで居ました 今まで思つゝも何ふしていいのかわからず つひこんなにのびて終ひましたのです おそれ入りますがくはしく一寸御知らせをお願ひ申上げます 年は新っても私独りは少しも新しくなりません だん/\古びてゆくことを感じます では御便りをたのしみ待って居ます どうぞごめいわくでもよろしく御願ひ申ます 一月四日 バチラー 八重 違星様」
八重子はこれを札幌から出しているはずなのですが、札幌の養家に一度上がりたいというのはどういうことなんでしょうね。 養家とは養父ジョン・バチラーのいる札幌聖公会でしょうが……よくわかりませんね。 八重子は中里篤治の容態を、北斗に聞いているのですが……どう答えたのでしょうね。 篤治は昭和4年6月9日に亡くなっています。結局、北斗の方が早く(昭和4年1月26日)に死んでしまいました。
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 02:07 [280] |
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<●昭和3年7月17日 金田一京助→違星北斗 封書(要抄) 「君のやうに正直な真面目な人をかうして若い身そらを空しく故山に病ましむるいふことは神の摂理のあまりに無情なことを嘆かずに居れない。 君静平な心持ちを持して寸分ゆるみなく、余計な感傷にひたることをよして、けんめいに病と戦ひたまへ。 多感な情熱家の君は、ひょっとしたらあまり感傷にひたって、病気を亢進させるやうなことがありはしないかと心配です。 中里のお父さんの死は大きな打撃でせう。この人の生涯をあくまで劇的主人公たらしめて終わりましたことをいたましくも又美しくも讃歎致します。誰かぜひともこの偉人の片影でも後世に残すやうにはたらく人がないものですか。君といひ徳治君といひ、その天職のためだけでも、まだ/\健康でゐてくれなくてはならない人だちです。君たち二人が直らなくてどうするものですか。それには悠々閑日月の心境を養ふことです。どうかどうかたのみます。
篤治の父、徳太郎が亡くなったのが昭和3年6月5日。剛毅な人だったようで、金田一も「アイヌの話」という文章の中で徳太郎の生涯を書いています。 徳太郎・北斗・篤治と立て続けに余市の同胞を失った八重子は、彼らの墓前で一首ずつ短歌を詠んでいます。
端然と ちからづよくぞ 語られし 君今はゐず ゐろり空しも
逝きし中里徳太郎氏
墓に来て 友になにをか 語りなむ 言の葉もなき 秋の夕暮れ
逝きし違星北斗氏
ただ一人 父のかたみと 残されし 君また逝きぬ うら若くして
逝きし中里篤治氏
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 02:23 [281] |
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ここからは、死が間際に迫った北斗への手紙です。
●昭和3年12月19日付 後藤静香→違星北斗 ローマ字綴り葉書
「違星様、あなたのこと、そしてあなたがたアイヌ民族のことを思いますたびに、私のこころをいためます。どうぞこのうへとも健康に気をつけ、大きい使命を果たしてください。あとから日記などをさしあげます。あなたの歌いつも涙で拝見致します。ここに十円お歳暮として入れます。 十二月十九日 静香」
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 02:31 [282] |
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次からは、古田謙二宛になります。 古田が北斗の病状を伝える手紙を関係者に送ったのだと思います。
●昭和3年12月25日付 松宮春一郎→古田謙二宛 封書 「違星君の病状お知らせ下されくりかへし拝見いたしました。何とも申様もないこと涙の袖をしぼります。近いところならばと残念に存じます。昨日見舞のしるし迄に為替いたしました。只今違星君の知友中の有力者三四の方に見舞金を直様に送ってくれと手紙を出して置きました。甚だ申兼ますが見舞ってやって下さい。慰めてやって下さい。 小生の**雑誌を今後拝呈いたします近著一冊拝呈いたします。 十二月廿五日 松宮拝」 東京市小石川区茗荷谷町五二番地 松宮春一郎
●昭和3年12月28日付 後藤静香→古田謙二宛 封書 「違星兄の為に御心尽くし感謝に堪へません少しばかりのお見舞を送って置きました。同君をよく慰めて下さい」
12月10日の日記で、北斗は古田に代筆を頼んでいます。手紙などの処理は、古田に頼んでいたのでしょう。
次の一通は日付が不明ですが、古田宛になっているので、同じ頃のものかと思います。
●昭和3年(?) 後藤静香→古田謙二宛 絵葉書 「毎日違星兄の為に祈って居ります。電報為替で少しばかり送りました。同氏の事頼みます。
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管理人 ++.. 2006/12/01(金) 02:39 [283] |
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