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2007年1月

2007年1月26日 (金)

北斗の家族

(1)余市の郷土史家・佐藤氏作成の系図(昭和58年作成)には、北斗は樺太白浜出身の良江という女性との間に女児があった。
 
(2)早川勝美による北斗をよく知るトキというおばあさんからの聞き書きによると、北斗はニシン漁の盛んな頃、鰊場に出稼ぎに来ていた樺太出身のスナコという女性と出会い、一緒に暮らしはじめ、やがてトモヨという名前の子を設けたが、子が生まれて20日ほどでその女性は、子どもを連れて出て行ってしまい、籍は入れていないという。

 この「トモヨ」が日記の「トモヨ」と同じ人物なら、日記のトモヨは娘ということになりますね。
 また、出会ったのがニシン漁が盛んなときということは、大正14,15は北斗が東京にいますし、昭和2、3年は不漁、昭和4年は死んでいますから、ですから、どうしても大正13年以前ということになりますね。

(3)違星北斗の会を主宰し、平取の歌碑建立に尽力した木呂子敏彦氏の資料の中に、以下のようなメモ書きあり。
「北斗の旧妻小笠原 シナ
     娘  ヨシエ」

 「小笠原シナ」が「旧妻」なのか、「小笠原シナの娘 ヨシエ」
が旧妻なのか、どちらとも取れるが、(1)のヨシエと関係あるのかもしれない。

(4)「にひはり」大正十四年一月号に

 いとし子の成長足袋に見ゆる哉   北斗

 との俳句(?)あり。
 
 以上の話をまとめると、
・北斗には妻というか、恋人がいた。(籍は入れてない)
・その女性は樺太の出身の人である。
・その女性との間に女の子がいた。

 この(1)の「良江」と(2)「スナコ」は同一人物かもしれないですし、別人なのかもしれない。
 
 また、北斗と親しくしていた古田謙二はこの「妻」や「子」の存在を知らないような感じですね。

管理人  ++.. 2007/01/26(金) 01:04 [302]

 もう一点、北斗に(内縁の)妻と子あったことを記す資料があることを以前にPさんから聞いていました。
 大阪府立図書館にありましたので、複写してもらいました。

(5)「平成10年度普及啓発セミナー報告集」(財団法人アイヌ文化振興研究推進機構)所収の講演録

 「アイヌの伝統」豊川重雄氏 (P193)
(前略)

質問:樺太のアイヌと北海道のアイヌが親戚関係になるということは、ありうることなんでしょうか?昔はどうでしたか?

豊川:聞いた話では、亡くなった余市の違星北斗というアイヌは、樺太アイヌの女性と結婚して、子どもが一人います。違星北斗はあまりハンサムではないけれど、樺太アイヌの奥さんはすごい美人だったと言う話も聞きました。

(後略)

 (1)~(3)は本になっているわけではないので、正式に活字になっているのは、この(5)の情報のみですね。この本は大都市の大きな図書館にはあるのではないかと思います。
 
 それにしても、私は違星北斗はハンサムだと思うんですが……トキさんも北斗は顔は「まずい」って言っています。そんなことないと思うんですが。

管理人  ++.. 2007/02/27(火) 22:40 [309] [引用]

2007年1月23日 (火)

金田一春彦と北斗

金田一春彦「日本語の生理と心理」より


私がまだ子供のころ、父のところへ出入りしていたアイヌ人にイボシという姓のものがあって、これが風体が薄ぎたない上に金を借りていっては酒を飲み、しかたがない。私の母などは大嫌いで、イボシという名を聞くたびに毛虫にさわるように眉をひそめていたが、いつかの父不在の時に二三回来て、そのたびに玄関払いを食ったあと、姿を見せなくなった。と思っていたら、北海道のどこかで窮死したそうで、その時
世の中は何が何やらわからねど死ぬことだけはたしかなりけり
という和歌がノートに書いてあったというのには、さすがに心を動かされた。思うに彼は、異民族出身の人間としてたえず世間から冷く扱われ爪はじきされ、自暴自棄の中に死ぬ、その心境を右の三十一文字の中にうったえたものであろう。
この歌は「念仏草子」に出ているものをもじったのにすぎないが、これが実感であったろうと思うと、やはり痛ましい。

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:55 [298]

谷口正氏から、上の文章について問い合わせられた京助が、谷口氏に送った電報

 ゴアンジンアレイサイフミキンダイチ

 (ご安心あれ、委細文(ふみ) 金田一)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:58 [299]

 京助から谷口氏への手紙


 春彦に善処をせまって居りますからまず/\御安堵下さい。あれは辞世の歌の一例をあげるのに、つまらない愚言を前書き致したもので全然、春彦の想像で、ウソです。
 私は責めて叱って居ります。
 違星君は私へ金貸してくれなど一度も申したこともなく、酒もタバコも用いない純情そのものの模範青年でした。春彦へ直談判下さってあやまらせて下さってけっこうです。住所は
東京都西高井戸×-×-×
 金田一春彦
    電話(×××)の××××

同居していましたら、あんな文は書く前にさしとめ得た

(以下なし)

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:00 [300]

 これは昭和37年ごろだと思います。

 同じ一人の人間の印象が、こうも違うのかと思います。
 春彦先生の方の印象は、我々の抱く北斗のイメージとは違いますが、しかし子供の頃の印象としては、やはりそういうものがあったのかもしれませんね。
 誰かと間違えているのかもしれませんが、京助の奥さんの反応などは、そういうところがあったのかもしれません。
 春彦さんは知里真志保などと同じ世代で、いろいろと比較されたりしたところもあったでしょう。この文章でも、アイヌに関して、いい印象を持っていないような感じがします。

 今売っている版ではどうなっているんだろう?

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 19:07 [301]

 たしか、真志保が一高を受けるからといって、春彦にはその年には受けさせなかった、というような記述がどこかにあったと思います。探しておきます。

 しかし、実の息子より、知里幸恵の弟である真志保を優先するというのは、子供からすると嫌なものかもしれません。
 後年、真志保と春彦は二人とも高名な学者になるわけですが、二人の間には接点があったのでしょうか。

管理人  ++.. 2007/03/02(金) 18:15 [316]

金田一春彦氏の「父京助を語る」に、知里真志保についての思い出が書かれていました。
 それも、幼い頃の話。

 幼いころ、春彦は金田一家に寄宿していた知里幸恵に可愛がられていて、あるとき、いつも幸恵に読んでもらっていたお気に入りの本が、いつのまにか無くなっていた。それを幸恵に聞くと、北海道の弟に送ったという。それを聞いた春彦は大いにショックを受け、泣いた。後日、真志保から本を送ってくれてありがとうというハガキが届いたが、どうも心がこもってないようで、宛名に「春彦君」と書いてあったのも気に入らなかった。
 実はそれは春彦の本ではなく、幸恵が買った本だったのだが、春彦はそれを知らずに幸恵にあたった。幸恵は困惑して、真志保にお礼のハガキを書くように伝え、真志保は不本意ながらそのハガキをよこしたのではないか。

 と、後の春彦は述懐しています。大人になってからも、親しくしたことはないようです。
 こういった幼年期のいきさつもあって、春彦は、真志保のことを書くときは、非常に他人行儀です。 

管理人  ++.. 2007/11/24(土) 12:38 [344]

違星君の平取入村当時の思い出

※著者不明ですが、文中に平取の人で「忠郎」氏の甥にあたるとあります。ローマ字が書け、キリスト教の知識もある一方、伝統文化にも詳しい教養ある人物だと思います。

バチラー氏と希望社の後藤氏と平取幼稚園開設の予定されていた当時で、違星君は平取聖公会の牧師岡村国夫氏と夫人、千代子さんを訪れ、夫妻のお世話で、故人になられた忠郎氏宅に寄宿される様夫妻が尽力された。 牧師はバチラー博士のキリスト教によるアイヌ伝道教化の先鋭として伝道され、違星君にも、アイヌ教化について随分論議されたと聞いている。
違星君が、和人からの圧迫を随分うけた様にかゝれてあるが、事実少し彼は激情的にアイヌの純血をよくといて議論していた。然し彼等の余市人の純血さを問われ尚、民族の純血の意義より重大なこと、民族としての誇りの問題について話題を提供していた。私が軍隊から除隊した昭和三年十二月から翌春まで牧師宅でよく逢い、伯父忠郎宅で又よく会ふことが多かった。彼が意気込んで、アイヌのメッカ平取に来た時、既に平取では、彼の悩みと同じ悩みを三十年位前から青年達が悩み、明治四十年に青年図書館が出来、各種の修養会が発足し、病院も大正八年六千円で地元のアイヌと道の補助で土人病院が建ち、活発な青年の動き、又、女子教育には豪州婦人ミス・ブライアンドが私塾を開いて伝道と手芸の教育、意気地、衛生などの事業に献身していた時代でむしろ教えられることが多かったと述懐して平取を去った。沙流アイヌと、余市では二十年余市が遅れていたと彼は***を苦悩***た。この苦悩の叫びにいろ/\よい歌も作った。
この当時の牧師に、実は違星が訪れて*て牧師の紹介で故忠郎氏の宅に泊る様になった。
牧師の奥さんが、希望社の経営(バチラー**団)する幼稚園の教師となることに決っていた。後藤氏の話からよくこのことを承知の上岡村牧師夫妻を訪れてこられたのが真相です。


管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:07 [293]

同じ方の字で、小説「泣血」に対する間違いの指摘です。



「泣血」に対する指摘

●「アイノのくせにアイヌ語が判らねえらしい」
……アイノとは古くにアイヌのことをそう呼んでいたらいいが、昨今では「アイヌ」と云はれている。

●茅葺の家
建坪三十坪前後の屋根は茅の本葺が*葺の純東北風の家、明治三十年~三十九年来までに建てられたもので現在もこれは住んでいるが、この家の一軒にも小松宮がお泊りになった家もある。昔風の…チセ…はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、その偉容を見ることが出来る。内地のコビキ(木引き)が手引きした板材を全部使用していた。現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。当時か冬はストーブを使用していた。
文中一升壜の場合は酒、焼酎の場合は四合壜に決まっている。

●鰊に醤油をかけて……
とあるが、塩ふりかけて焼き、食べるのが案外美味であるが、醤油をつけて食べるなら箸をつかふのが普通ですから、この描写は塩ふり焼の方がよいではないでせうか

●焼酎はその当時全部四合壜詰、ビール瓶と同じ大きさの壜で焼酎はすこしシャレてコタン・ビールと誰れ言となく云われた位 四合壜が全部でした
一升瓶は清酒に決まっていました。

●太陽神に対する祈
太陽神に対する祈りはアイヌの間に存在したが、余市で普通に和人が祈る様な、手を合わせての祈り、特に落陽に対して祈ったことは、アイヌの祈り風景とは全く別な感じを受ける。特に「彼等の風俗の一つである」と言のは重大な誤りである。
が、もし小説的に尽くせると、朝の陽に祈る情景にすべきである。

●違星君の尺八
彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意としていた。六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があるが余りそれは上手でなかった。
彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っている。

●額の傷……云々
このような場面に逢ったアイヌの女子なら必ず傷の手当をする筈で、傷が大きいと言うていながら作者は女子の心理の動きに無関心であるのは解せない。
若し男に対して特に冷淡さを示さなければならないとき女も傷について何も****きがある***い。

●オキクルミ像は昭和八年林舜佯の建立で違星の生前にはないものである。が、小説と実話とは少し****致し方ないことでせう。

●文中 太吉の唇の周りに半月形に彫られた青黒い入墨……は太吉は名から見ると男らしいが、情景は女で描写されている。
筆者が若し、太吉が男として老人で書いておられるなら、今一度アイヌ研究の初歩を学ばれたい。
男は稀れに入墨するが、手の甲の部分で**しらべられたもの、只一例あるのみだ。

●「オキクルミ トレシマ(妹)悲し、沙流(しりむか)川の昔を語れクンネチップ(月)よ」

トレシマ…Turesh(ツ゜レシ)
沙流川(シシリムカ)…沙流川の神名或は古い名をシシリムカ

●ローチャーチの教会では十字は切らない。
●「メノコ特有の濃い唇が…」
濃い唇とは理解出来ない。
唇、口の周囲に入墨して濃くしていた様にうけとれるが、でもこの青黒い入墨に、み力を感ずる作者感覚は面白い。

●林檎
平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入、(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、*綿*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余りよく行かなかった。
林ごの樹の植樹もしないでこの計画も終った。
平取の林檎は明治四〇年から専門になされた方が、最初に植えられたのは明治十八年ごろ

●メノコ……(娘)
メノコを娘とは適当な表現ではなく、普通の観念では人妻になった位の年齢の女子の呼びかたで娘はマチカチと呼ぶ。

●教会堂の中の描写……当所はバチラーの肖像もなく、又祭壇の中央のキリスト像……云々は、バチラー氏
はローチャーチの出であるので、十字架やローソクなども聖卓には飾られなかった。ハイチャーチの方もだけが、聖公会では小説の描写に近い方法をとる。

●チヤシ(砦) チャシ chash

●オトナ(酋長) オッテナと云いならわせている ottena

●ウタリ  ウタリー …utariyの発音が正しいようです。



管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:10 [294]


当時のコタンで、一応肺患者は死に絶えたときで、統計学的にはアイヌの数もこの地方で少い時で肺患も一番少いときでもあった。明治四十~大正八、九年を峠として、弱い**は全滅し淘汰された時期で、アイヌの肺患は和人のそれのように慢性病でなく、罹患すれば三ヶ月~一カ年位で病死するのが普通であった。又、家の改造の件などはかえって問題でなく
融隔島のことが大事なことで、地元のアイヌの寄附と道の援助で平取村土人病院の出来たのは大正八年で全道で一番最初に出来た土人病院で、豚の臓物や熊の血肉で病気が癒されたり、日の神の信仰で病にかつ様な思想は沙流川筋のアイヌには余り考えられないことで、*は日の神が祈る風習は沙流アイヌは絶無である。



管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:14 [295]

これは、病院・病気に対する解説の断片で、どの文脈につながるかわからないものです。

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:16 [296]

1)北斗の平取での寄宿先は「忠郎」氏宅

>昔風の…チセ…はその当時でも珍しく相当奥地でなければ見あたらなかった。
>違星が二年ばかり宿泊させた、故忠郎氏の家は現在でもしっかりした建物で、
>その偉容を見ることが出来る。内地のコビキ(木引き)が手引きした板材を全部使用していた。
>現存するのは、十余棟、むしろ、余市の大川町の和人の家より外観も屋内も立派に出来ている。
>当時か冬はストーブを使用していた。

2)尺八について

>違星君の尺八
>彼は琴だか都山か知らないが、江差追分を得意として
>いた。六段、千鳥の曲なども吹奏したような記憶があ
>るが余りそれは上手でなかった。
>彼の吹奏の情景は江差追分が柄に合っている。

3)林檎栽培について

>平取で林檎園をと云ふことで、バチラー八重子氏が土地を購入、
>(五町余)して、甥の武夫と違星君に経営させることゝし、
>*綿*機も購入して貸与したが、発動機の故障などで余り
>よく行かなかった。
>林ごの樹の植樹もしないでこの計画も終った。
>平取の林檎は明治四〇年から専門になされた方が、最初に
>植えられたのは明治十八年ごろ

管理人  ++.. 2007/01/23(火) 18:50 [297

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