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2007年4月

2007年4月 1日 (日)

古田文書再読

古田謙二「アイヌの歌人について」に以下のような記述があります。

北斗は余市のアイヌの青年を集めて茶話笑楽会という会を作った。お茶を飲みながら、笑い楽しみ乍ら話をする会というので、その間にアイヌ青年の自覚をうながしてゆきたいというのが目的であった。そしてその会の顧問に私は推されたのである。
笑楽会は、中里篤太郎の家の二階で行なわれた。二階は四間位もあり、フスマを皆はずして広々とし、輪になって語り合った。真中にテーブルをおき、それで一人ずつ出てしゃべることもあった。
昭和二年であったか三年であったか忘れてしまったが杜会主義者の朝鮮人朴烈と日本人の文子とが獄中で恋愛し、裁判で朴烈文子事件として騒がれたあの事だと思う…ある秋の笑楽会の風景がハッキリと眼前に浮かんでくるのである。その時は、秋が深かつたか、すでに冬になっていたか、とにかく樺太出稼の運中が皆帰っていて、樺太で虐待された話を盛んにしていた。
次から次へとアイヌ青年がテーブルをたたいて論じた。その時北斗は、「我々アイヌの中には優れた者はいないかもしれない。しかし、一人の朴烈文子も出していないのである。」とて、国に忠誠なる旨を述べて満場の拍手をよんだ。
中里篤治は、その時は青い顔をしてすでに肺を病んでいるのか元気がなかった。


 この証言が正しいとすれば、北斗が茶話笑楽会で朴烈について語ったというのは、おそらく昭和二年の秋ですね。
 昭和2年に発行された同人誌「コタン」に「会員の殆ど全部がカラフトへ出稼ぎ中」という記述があります。
 大正13年だと、まだ朴烈は大逆罪に問われていませんし、大正14年は東京、大正15年は秋冬は日高にいます。昭和3年は病床にあります。
 昭和二年だと思います。

管理人  ++.. 2007/04/01(日) 23:37 [318]

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