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2008年4月

2008年4月29日 (火)

違星甚作

 違星北斗の父・甚作は1862(文久2)年12月15日余市郡川村(現大川町)生。アイヌ名はセネックル。中里徳太郎の父である徳三の弟で、男児のなかった違星万次郎の養子になる。養父万次郎とは年齢が10歳しか離れていない。

 妻ハルとの間に男6人、女2人の子供を得たが、その多くが成人せずに亡くなっている。北斗は甚作40歳の時の子である。

 甚作は漁業が生業だったが、若い頃は熊取りの名人だった、という。

 大正13年6月、北斗は句誌『にいはり』の句会で「熊の話」の講演をした。北斗は「私の父は鰊をとったり、熊をとったりして居ります」といい、「余市に於ける熊とりの名人」(同)でもあったとも言うとおり、生業は漁業であったが、熊猟も副業として行っていたようである。

 この時の講演で語られた「熊取り」が行われた時代は明治末期であった。この「熊取り」でさえ、「こんな時代になると、熊取りなんどといふ痛快なことも段々出来なくなる」(「熊の話」)という理由から、「若い人達に熊取りの実際を見せるために」(「同」)行ったものであった。

 甚作はこの熊取りで、熊と素手の取っ組み合いをして大怪我を負うのであるが、その後も懲りずに各地の熊狩りにも出かけているが、すでに普通のアイヌが日常的に熊取りが出来るような時代ではなかった。

 若い頃には甚作は「樺太に長く熊捕り生活をし」(「疑ふべきフゴッペの遺跡」)ていたという。明治の中頃までは、少なくとも樺太においては熊狩りで生活出来たということだろうが、北斗が物心ついた頃は甚作は熊の狩猟で生計を立てていたわけではなく、生業はあくまでも漁業であり、北斗も尋常小学校を出て父の漁業を手伝っている。

 北斗は「熊の話」で、アイヌの熊に対する考え方を語っている。

 アイヌの宗教は多神教であります。一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。そこには絶対平等―――無差別で、階級といったものがありません。(中略)熊をとるといふことは、アイヌ族に非常によろこばれます。熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。従って、熊をとるといふことが、大変功徳になるのであります。さういふわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。

 東京に学び、開拓使の役人になったという祖父万次郎と違い、父甚作は極めて「アイヌらしい」アイヌ、アイヌの伝統を大事にするアイヌであったのだろう。勇敢で、信仰に厚く、人情に厚い「古き良き」アイヌの面影を残していた。

 アイヌ文化の象徴とも言える熊取りの名人を父に持つ北斗が、父の語る勇壮な世界、おおらかなアイヌの世界観に影響を受けなかったはずがない。

 私の父は熊と闘った為めに、全身に傷跡が一ぱいある。熊とりが家業だったのだ。弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちてゐる。それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がゐなくなったから……。『人跡未踏の地なし』と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃」の地を名残に残したきり殆ど獲り尽くされたのである。(「熊と熊取の話」)

 しかし、アイヌらしいアイヌ、父甚作の活動する世界はすでにこのアイヌモシリ・北海道にはなく、ただ甚作の身体の傷と、熊取りの道具と、熊の頭骨を飾った幣場とが、ただ「昔しをかたる記念」としてのみ、朽ちるにまかされているのであった。
 北斗の家には、このような熊と闘った「記念」が残っており、北斗はそれを見ながら育ったのである。これらの記念は、北斗が大人になった大正末期にも残してあったようで、後に東京時代世話になる社会思想家の西川光二郎が余市を訪問した折り(大正13年8月19日)には、これらの宝物を見せている。(『自働道話』大正13年10月号)

北斗は父親から、アイヌであることの誇りを確かに受け取っているに違いない。

北斗の数少ない散文の原稿の中にあって、熊取りに関する作品が2編あり、そのうち「熊の話」は父親と熊とのとっくみあいの格闘の話、「熊と熊取りの話」は、余市の伝説の熊取り、鬼熊与兵衛の話である。また短歌(俳句)の中にも熊のことを詠ったものが十首(二句)ほどあるが、これも250首に満たない彼の句作からすれば、多いと云えるかも知れない。

 北斗は昔のアイヌの勇敢さに憧れ、当時のアイヌの弱さを嘆いていた。その強さ、勇敢さを象徴するものこそが、「熊」であり、それと戦う古い時代のアイヌの姿であったのではないかと思う。後の「吾はただアイヌであると自覚して」という北斗の確固たるアイヌとしてのアイデンティティは、あるいは熊と素手で闘うほど勇敢な、アイヌらしいアイヌであった父甚作の影響が大きいのではないだろうか。

 そういえば、彼の号の「北斗」とは、北の大地、北海道で一人斗う、という意味にも取れるし、人々に進むべき方角を教える指標であるともとれる。「違星」という珍しい、象徴的で美しい名であると思うが、その由来となった北斗七星は、西洋では「大熊座」として認識されることも多い。そしてこの北斗七星は、西洋だけでなく、アイヌの伝説においても、熊と関係が深いのは注目してもよいかもしれない。

 ジョン・バチラーによると、「北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。」(『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』)という。

 北斗七星、大熊座、先覚者、保護者。おそらく、北斗はこのような符号をある程度知って、そして「北斗」という号を付けたのだろう。この名前が、熊をカムイとして敬い、またその熊と格闘するアイヌの考え方をも象徴していると考えるべきではないかとおもう。(北斗の号は奈良直弥がつけたとする文書もあるが、だとしても北斗はこの号に特別の愛着を持っていたことは明らかである)。

 昭和三年の一月に発表された「熊と熊取の話」の「私の父は熊と闘かった為めに、全身に傷跡が一ぱいある」という文章があるから、それが書かれた時点では甚作は生きていた。

 「自働道話」昭和二年八月号に掲載された、西川光二郎への手紙にも父親について書いてある。ここでは北斗の父に対する思いがわかる。

私が一番苦しめられたことは、親不孝だったことです。私を案じてゐる父の身を考えた時金にもならないことをしてゐる自分」と民族復興の使命に動かされながらも、その活動のために親孝行が出来なかったことを嘆いている。

 北斗は、父の生きた時代、アイヌがアイヌらしく生きられた最後の時代に憧憬を持っていた。そして同時に祖父が幼き日に学んだ「モシノシキ」和人の都・東京にも強いあこがれを抱いていた。アイヌと和人、その相対する二つの文化への憧れと尊敬がその後の違星北斗の生涯を決定づけたといってもそれほど間違いではないと思う。

 没年は、享年82歳というから、おそらく昭和18年頃であろうと思われる。

2008年4月21日 (月)

違星万次郎

違星万次郎(いぼし・まんじろう)

 嘉永5(1852)年、余市郡川村番外地に生まれる。アイヌ名(幼名?)ヤリヘ。

 伊古武礼喜(イコンリキ)の子として、後志国余市郡川村番外地(のちの大川町)に生まれる。イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの婿養子となる。

 明治6年、万次郎は「違星」の姓を名乗る。これはアイヌとしては最も早い方であった。

 その頃に至ってからシャモ(和人)並に名字も必要となって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外12名あった。(中略)万次郎はイソツクイカシへ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜の祖先伝来のエカシシロシがEkashishiroshia

であった。これにチガイに星、『違星』と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。(「我が家名」)

 エカシシロシ(エカシは翁、シロシは印)とは、和人における家紋のようなもので、代々男子に伝わってゆくものである。女子にはフチシロシ(フチは媼)があり、それらを辿ることにより男系だけでなく女系も辿ることが出来る。この文章によると「違星」はもともとは「チガイボシ」と読ませるつもりだったのだろうが、読みならされ「イボシ」と読まれるようになった。

 私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキといってゐた。(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生の18名の1人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。祖父は開拓使局の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。(「我が家名」)
 

 これは1872(明治5)年、北海道開拓使の黒田清隆が東京の芝・増上寺境内に開拓使仮学校(北海道大学の前身)ととともに開設された土人教育所に、アイヌが留学させられたことをさす。その後もアイヌが連れてこられ、最終的には100人を超えたという。選抜されたのは比較的「日本化」されていた石狩、札幌、小樽、余市など日本語の話せるアイヌであった。しかし、一年足らずの間に行方不明、病気、帰郷などで残ったのはわずか5名となり、計画は失敗に終わった。

 その実態や評価がどうあれ、実際に留学をした若き日の万次郎は、その東京の思い出を自慢にしていたようだ。そのまま開拓使の雇員になった万次郎は他の同族より一足先に苗字を名乗ることを許された。

 だが、その後の万次郎の生涯は順風満帆なものであったかどうかはわからない。教育によってアイヌからエリートを輩出し、和人と同化させて皇国の臣民とする明治新政府の計画は頓挫した。

 結局、どの違星万次郎は普通のアイヌとして貧困と差別の中に生きた。それでも若い頃に学んだ文明開化の帝都の思い出話と、開拓使の役人であったということを誇りとして。

 万次郎の没年は、先の「私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行った」という昭和2年の記述から逆算すると、大正12年~13年ごろのことと考えられる。72~3歳ぐらいだろう

 北斗はおそらくおじいちゃん子であったのだと思う。北斗の小学校時代の通知表が残っているが、そこには保護者として、父甚作ではなく、なぜか祖父万次郎の名前がある。

 ほろ酔いの祖父の語るモシノシキ/東京の思い出が、幼い北斗の心に響かなかったわけはないだろう。帝都・東京は北斗にとっても憧れの場所となっていたのではないかと思う。大正12年、北斗は、上京の計画を立てるが、関東大震災によって断念している。
 違星北斗が実際に上京を果たすのは祖父万次郎の「留学」より約50年後の、大正14年のことである。

2008年4月12日 (土)

平村幸雄氏とは

 北斗が大正15年、平取時代に「子供の道話」を配っていた中に、唯一実名で登場するのが平村秀雄氏と同キノ子氏。

 この平村秀雄氏は、昭和5年に「蝦夷の光」に記事を書いた「平村幸雄」氏と関係があるのでしょうか。

 民族学博物館研究報告29に掲載されている関口由彦氏の論文『「滅び行く人種」言説に抗する「同化」』を読んでいて、このいずれかの平村幸雄氏が、もしかしたら作者不詳の「違星君入村当時の思い出」の作者なのかもしれないという気がしてきました。

 証拠はないですが。

 平村幸雄氏は『蝦夷の光』に「アイヌとして生きるか?将たシャモに同化するか?――岐路に立ちて同族に告ぐ」という文を書いています。

 これは今後も調べていきます。

 

2008年4月11日 (金)

「アイヌの星―評伝 違星北斗―

「アイヌの星―評伝 違星北斗―」(福永法弘、天為2008年3月号、4月号)読了。

参考文献として「違星北斗.com コタン」が入っているので全く問題はないんですが……。

個人的にはやられましたね。先に。

まだ活字になっていない、当ホームページにおける発見の数々を活字にしていただきました。ありがとうございます。

でも。間違いもたくさんあります。教えませんけど。

とりあえず、ありがとうございます。

発奮しました。本当に。

そろそろやらなきゃね。

違星北斗詳伝「北斗.」、本格スタートです。

2008年4月 9日 (水)

『コタン』に泣く(後藤静香)

 後藤静香の希望社の雑誌のうち、北斗関係の記事が載っていそうなものを調べていたら、希望社の雑誌「大道」昭和5年8月号に後藤静香による、北斗追悼の記事を見つけました。

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  『コタン』に泣く

 悦ぶと云う字は活字の無くなるほど使つても、泣くと云う字はめつたに使わない私が、こゝにこんな見出しを書いた。

 実際のところ、余りに大きい問題を背負つて居るので、大抵なことでは泣けない私であり、又久しい間の鍛練で、冷たくなつて、熱い涙など殆ど出さなくなった私ではあるが、『コタン』ではとう/\泣いた。人間の至情に負かされた。

『コタン』はアイヌを以て自ら満足し、之を誇りとし、アイヌを救わんが為の大使命に生きた一青年、違星北斗兄(けい)の遺著である。小冊子であるが、此の中には生きた説教が沢山ある。

 泣かされる、考えさせられる。

 違星兄が一民族を背負っての苦しみは、吾々の現状に較べて余りに大きい違いがある。私は兄(けい)に励まされ教えられた。兄ほどの覚悟と努力でやればもつと仕事が出来る。

 違星兄は、アイヌの将来に対し、私の頼りに頼つて居る友であつた。実に惜しい。兄の遺著から、歌を幾つか拾つて見る。

           ○

      はしたないアイヌだけれど日の本に

      生れ合せた幸福を知る

 幸福と言われて苦しい。相済まぬ。兄よ許せ。

           ○

      滅びゆくアイヌの為めに起つアイヌ

      違星北斗の瞳輝く

 この雄々しい態度を見よ。

 之を思うとき、一郷一郡を背負う日本人が、もつと有りたい。

           ○

      天地に伸びよ 栄えよ 誠もて

      アイヌの為めに気を挙げんかな

           ○

      昼飯も食はずに夜も尚歩く

      売れない薬で旅する辛さ

 薬を売つて生活の資を得ながら、アイヌ部落を次から次と廻り、同志の友を見出して、アイヌ救済の計画を進めて居た。

           ○

      売薬の行商人に化けている

      俺の人相つく/゛\と見る

           ○

      空腹を抱へて雪の峠越す 

      違星北斗を哀れと思ふ

           ○

      「今頃は北斗は何処に居るだらう」

      噂して居る人もあらうに

 実際此の通りであつた。東京に於ける兄の知己は、いつも兄の消息を待ち、兄の身の上を案じた。此の気持をよく知りながら、我が幸福―東京の生活―を棄て、大念願の為めに此の苦痛をなめた。

                            ○

      めつきりと寒くなつてもシャツはない

      薄着の俺は又も風邪ひく

             ○

      俺でなけや金にもならず名誉にも

      ならぬ仕事を誰がやらうか

 此の自覚の貴とさ。こんな男が日本に、もつとあつたら。

      「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に

      「金になるよ」とよく云つてやつた

 社友を一人紹介したら、幾ら貰えるかと聞く人間ある由、其の時は「うんともらえる」と答えたがいゝかも知れぬ。

             ○

      金儲けでなくては何もしないものと

      きめてる人は俺を咎める

             ○

      金ためた ただ それだけの人間を

      感心してるコタンの人々       (コタン=アイヌ部落の意)

 コタンならずとも、同じ様な感心をする人たち沢山にあり。

             ○

      葉書さへ買ふ金なくて本意ならず

      御無沙汰をする俺の貧しさ

             ○

      無くなつたインクの瓶に水入れて

      使つて居るよ少し淡いが

 之ほどと知れば、もつと助ける道もあつたのに。

 私には只一回だつて、こんな様子も見せなかつた。

 兄にはどんな時にも、武士の態度があつた。

 併し、余りに律儀すぎた。

 兄を怨みたくなる。

              ○

      見せ物に出る様なアイヌ彼らこそ

      亡びるものの名によりて死ね

              ○

      子供等にからかはれては泣いて居る

      アイヌ乞食に顔をそむける

              ○

      アイヌから偉人の出ない事よりも

      一人の乞食出したが恥だ

              ○

      アイヌには乞食ないのが特徴だ

      それを出す様な世にはなつたか

 違星兄、君が今頃東京などに来て、洋服を着た乞食、時には自動車に乗る乞食を見たら何と言うだろう。アイヌ以上の恥かしさを感じながら之を書く。

              ○

      滅亡に瀕するアイヌ民族に

      せめては生きよ俺の此の歌

              ○

      「強いもの!」それはアイヌの名であつた

      昔に恥ぢよ 覚めよ ウタリー       (ウタリー=同胞)

              ○

      勇敢を好み悲哀を愛してた

      アイヌよアイヌ今何処に居る

              ○

      悪辣で栄えるよりは正直で

      亡びるアイヌ勝利者なるか

              ○

      久々に荒い仕事をする俺の

      てのひら一ぱい痛いまめ出た

              ○

      仕事から仕事追ひ行く北海の

      荒くれ男俺もその一人

              ○

      雪よ飛べ風よ刺せ何北海の

      男児の胆を錬るは此の時

              ○

      平取はアイヌの旧都懐しみ

      義経神社で尺八を吹く

              ○

      尺八で追分節を吹き流し

      平取橋の長きを渡る

              ○

      病よし悲しみ苦しみそれもよし

      いつそ死んだがよしとも思ふ

              ○

      若しも今病気で死んで了つたら

      私はいゝが父に気の毒

              ○

      恩師から慰められて涙ぐみ

      そのまゝ拝む今日のお便り

              ○

      熟々(つらつら)と自己の弱さに泣かされて

      又読んで見る「力の泉」

              ○

      先生の深きお情身にしみて

      疲れも癒えぬ今日のお手紙

              ○

      頑健な身体でなくば願望も

      只水泡だ病床に泣く

              ○

      青春の希望に燃ゆる此の我に

      あゝ誰か此の悩みを与へし

              ○

 身を以て示した大教訓。兄去つて此の民族生きるか。

 君を犬死させては相済まぬ。         ―「コタン」一部五十銭送料四銭―

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      北斗農園の設立

 違星北斗、アイヌ民族を背負つて起った義人は斃れた。吾等はこの死を無意味にしたくない。此の理由から新計画を発表する。

 一、本社は、違星氏の遺著『コタン』の出版全部を無償にて為し、本書の売上金全部を提供す。

 二、此の資金により同氏の郷里北海道余市に農園を経営す。余市林檎は名産なるにより之を主とす。

 三、農園はアイヌの有望なる青年の教育を主眼とし、人物養成の手段とす。

 四、資金の一部を違星氏遺族の慰問費にあつ。

 五、同書十部以上の引受者を以て北斗農園の賛助会員とし、永久に敬意を表す。

          コタンに輝く武士道

 「コタン」を読めば真のアイヌの気質が分る。それは、実に我が古武士の気質そつくりである。私は敢て言う。今の日本に、古武士のおもかげを其のまゝ見せる如何なる書物ありやと。本書によりて、も一度自分たちの生活を見直したい。

 同書は、私が近来読んだ書物の中で最も強い感動を受けたものゝ一つである。血を以て書かれた得がたい書物である。

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編輯余録

(略)

▼アイヌの熱血児違星北斗氏の遺著「コタン」が出ました。之をお読みになる事が直にアイヌ民族保護救済事業の援助になるのです

(後略)

2008年4月 4日 (金)

イソヲク(イソツクイカシ)

イソヲク/イソオク(伊曾於久)、イソツクイカシ

 文化7(1810)年生まれ。北斗の祖父・万次郎の養父にあたる。万次郎はイコンリキの実子であったが、イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの家に入る。これがのちの違星家である。

 イソツクイカシは、北斗の「我が家名」における表記だが、他の文書では「イソヲク」もしくは「イソオク」となっており、おそらくこちらが正しい。(イカシ=エカシ、翁の意)

 察するに「小樽新聞」に初出の際、「ヲ」を「ツ」と読み違えた誤植を、希望社版『コタン』が受け継いだものだろう。

 イソヲクの名は「林家文書」の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」に見え、役職は「土産取」、年齢49歳、妻「かん」と、娘「てい」(万次郎の母、北斗の祖母)の名も見える。

イコンリキ

イコンリキ(伊古武礼喜)

 文化11(1814)年生。北斗の祖父・万次郎の実父。イコンリキのエカシ・シロシ(下図)が違星家の苗字の由来となった。(「我が家名」

 イコンリキの実子、万次郎はイソヲクの娘ていと結婚(婿養子)になり、イソヲクの家が違星家となった。 

Ekashishiroshia

 

 

 日本の家紋では、「×」は「直違」(すじかい、すじちがい)と呼ばれ(戦国武将の丹羽長秀の家紋がこれにあたる)、また家紋において交差することを「違い」という。同様に「●」は「星」と呼ばれる。この「チガイ」と「ホシ」から違星(チガイボシ)という家名を創り出し、それがイボシと呼び慣らされるようになった。

 イコンリキの名前は『林家文書』の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名前書 控」(1859年)に見え、「脇乙名」という役職(副首長、副指導者といった立場)、45歳という年齢、家族構成(三男として北斗の祖父・万次郎の幼名「ヤリヘ」の記述あり)が書かれている。 

2008年4月 2日 (水)

違星北斗大事典 事物編目次

雑誌

 にひはり/自働道話/子供の道話/医文学/新短歌時代/北海道人/志づく

新聞

 小樽新聞/北海タイムズ

同人誌

 茶話笑楽会誌/コタン/ウタリグス

書物

 アイヌ神謡集/権威/力の泉/善の研究/

 林家文書/

団体

 東京アイヌ学会/東京府市場協会/

 自働道話社/希望社/青年団/国柱会

 茶話笑楽会/アイヌ一貫同志会

 北海道アイヌ協会

遺稿集

 「違星北斗遺稿 コタン」(1930、希望社版)/

 「違星北斗遺稿 コタン」(1984、草風館)/

 「違星北斗遺稿 コタン」(1995、草風館)/

 「違星北斗遺稿集」(1954、違星北斗の会)

違星北斗大辞典 人物編目次

家族

 イコンリキイソヲク(イソツクイカシ)

 違星万次郎違星甚作違星ハル/違星梅太郎/トモヨ

余市コタン

 中里徳太郎/中里篤治/

 奈良直弥/山岸礼三/小保内桂泉/島田先生/古田謙二

東京時代

 高見沢 清/西川光次郎/西川文子/額田真一

 金田一京助/伊波普猷/山中峯太郎/松宮春一郎/永井叔

 後藤静香/岩崎吉勝/宗近真澄

 田中智学

幌別・平取時代 

 バチラー八重子/岡村国夫/ジョン・バチラー/向井山雄

 知里幸恵/知里真志保/吉田ハナ/豊年健治

 二谷国松/橋本医師/奈良農夫也

余市時代(短歌)

 並木凡平/稲畑笑治/福田義正

余市時代(研究)

 西田彰三/鍛冶昭三

 ヌサマカ(マサマカ)翁/ヌプルランイカシ

行商時代  

 岩倉友八/高橋房治/山本儀三郎

 辺泥和郎/吉田菊太郎/森竹竹市

 浦川太郎吉/能登酉雄

闘病時代

 桜井勇太郎/山野鴉八(鴉人)

北斗死後

 木呂子敏彦/田上義也/萱野茂

 湯本喜作/早川勝美/森本儀一郎/阿部忍/武井静夫

 郡司正勝/松木純

2008年4月 1日 (火)

過去ログ移行完了

初代コタンBBSの過去ログと、2代目コタンBBSの過去ログをこのブログに移行しました。

ただ、BBSの中で、「研究」に関係の薄いと判断したもの(挨拶的なもの、近況報告的なもの、更新記録、雑談的なもの)などはこちらには移行していません。

BBSに書き込んで下さった方はもうしわけありません。

いつも重要なご指摘やご教示をいただている、あらや様、poronup様の書き込みはほとんどそのまま残してありますが、同様に挨拶的なものは省かせていただきました。御了承ください。

今後は、ハードディスクの底に沈んだコンテンツのサルベージ作業を行い、記事として書き込んで行きたいと思います。

また、違星北斗小伝「北斗.」を掲載していくつもりです。何度も何度も挫折していますが、今度こそ、と力こぶをつくっておりますのでよろしくおねがいします。

コタン管理人 山本

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