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2008年4月21日 (月)

違星万次郎

違星万次郎(いぼし・まんじろう)

 嘉永5(1852)年、余市郡川村番外地に生まれる。アイヌ名(幼名?)ヤリヘ。

 伊古武礼喜(イコンリキ)の子として、後志国余市郡川村番外地(のちの大川町)に生まれる。イソヲクの娘ていと結婚、イソヲクの婿養子となる。

 明治6年、万次郎は「違星」の姓を名乗る。これはアイヌとしては最も早い方であった。

 その頃に至ってからシャモ(和人)並に名字も必要となって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外12名あった。(中略)万次郎はイソツクイカシへ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜の祖先伝来のエカシシロシがEkashishiroshia

であった。これにチガイに星、『違星』と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。(「我が家名」)

 エカシシロシ(エカシは翁、シロシは印)とは、和人における家紋のようなもので、代々男子に伝わってゆくものである。女子にはフチシロシ(フチは媼)があり、それらを辿ることにより男系だけでなく女系も辿ることが出来る。この文章によると「違星」はもともとは「チガイボシ」と読ませるつもりだったのだろうが、読みならされ「イボシ」と読まれるようになった。

 私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキといってゐた。(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生の18名の1人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。祖父は開拓使局の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。(「我が家名」)
 

 これは1872(明治5)年、北海道開拓使の黒田清隆が東京の芝・増上寺境内に開拓使仮学校(北海道大学の前身)ととともに開設された土人教育所に、アイヌが留学させられたことをさす。その後もアイヌが連れてこられ、最終的には100人を超えたという。選抜されたのは比較的「日本化」されていた石狩、札幌、小樽、余市など日本語の話せるアイヌであった。しかし、一年足らずの間に行方不明、病気、帰郷などで残ったのはわずか5名となり、計画は失敗に終わった。

 その実態や評価がどうあれ、実際に留学をした若き日の万次郎は、その東京の思い出を自慢にしていたようだ。そのまま開拓使の雇員になった万次郎は他の同族より一足先に苗字を名乗ることを許された。

 だが、その後の万次郎の生涯は順風満帆なものであったかどうかはわからない。教育によってアイヌからエリートを輩出し、和人と同化させて皇国の臣民とする明治新政府の計画は頓挫した。

 結局、どの違星万次郎は普通のアイヌとして貧困と差別の中に生きた。それでも若い頃に学んだ文明開化の帝都の思い出話と、開拓使の役人であったということを誇りとして。

 万次郎の没年は、先の「私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より55年前にモシノシキへ行った」という昭和2年の記述から逆算すると、大正12年~13年ごろのことと考えられる。72~3歳ぐらいだろう

 北斗はおそらくおじいちゃん子であったのだと思う。北斗の小学校時代の通知表が残っているが、そこには保護者として、父甚作ではなく、なぜか祖父万次郎の名前がある。

 ほろ酔いの祖父の語るモシノシキ/東京の思い出が、幼い北斗の心に響かなかったわけはないだろう。帝都・東京は北斗にとっても憧れの場所となっていたのではないかと思う。大正12年、北斗は、上京の計画を立てるが、関東大震災によって断念している。
 違星北斗が実際に上京を果たすのは祖父万次郎の「留学」より約50年後の、大正14年のことである。

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