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2008年8月12日 (火)

資料再読

北斗の全資料を再読しています。
その中で、いくつか発見がありましたので、書き込んでおきます。

(1)「子供の道話」昭和2年1月号に掲載された北斗の手になる童話「世界の創造とねづみ」について。

このお噺は、「清川猪七翁」からの聞き取ったものですが、この清川猪七翁という名前、どこかで見たことがあると思っていたのですが、この方はジョン・バチラーの助手であった「清川戌七」ではないかと思います。

 清川戌七といえば、「『アイヌの父』ジョン・バチラー翁とその助手としてのアィヌ、私」の中で、ジョン・バチラーや八重子、吉田花子のことを語っている方です。
http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_ab90.html

この方は、1874(明治7)年生まれですから、この童話が書かれた大正15年には52歳、北斗から見れば「翁」といっても差し支えない年齢だと思います。

 「文献上のエカシとフチ」(札幌テレビ放送)によると、この方は新冠出身、明治22年新冠でジョン・バチラーと出会い、以後その布教を助けたそうです。
 生活地は平取町荷菜ということなので、北斗が平取教会にいたときに出会ったのでしょう。

『子供の道話』掲載の北斗から西川光次郎への手紙3通について。

 http://www.geocities.jp/bzy14554/kodomonodouwa.html

「第一信」に「昨日バチラー八重子様の家に着きました」とあることから、北斗が大正15年7月5日に東京を出て、北海道の幌別(現在の登別)に着いたのが7月7日ですから、「第一信」が書かれたのはその翌日である7月8日でしょう。

「第二信」が書かれたのは、文中に

「本日日曜でしたので子供が少数参りました、何より驚いたのは婦人の数多が来たことです、不完全な日本語を使つてゐるメノコ(女)達が神の愛に救はれてゐるのです、文字もよめない人々はいつの間にかアイヌ語ヤクの讃美歌を覚えてそして今日お祈はアイヌ語でやるのです、シヤモ(和人)もまじつてゐますけれどもアイヌのメノコのこの健気な祈をきゝまた見て只私しは驚きの外ありませんでした」

とあり、これが「日記」の7/11の記述と一致しますので、この「第二信」は同じ7/11に書かれたものでしょう。

「第二信」が7/11のことだとすると、文中に「昨日白老に参りました」とありますから、北斗が白老入りしたのは、7/10のことになります。

 整理してみると、

 7/7(水) 幌別入り。
    バチラー八重子の聖公会教会に身を寄せる。 
 7/8(木) 幌別で西川光次郎へ手紙「第一信」を書く。
 7/9(金)記述なし。
 7/10(土) 白老入り。白老土人学校の山本儀三郎先生と会う。
 7/11(日) バチラー八重子の礼拝に出て感動し、
    日記と「第二信」を書く。
 7/12(月) 記述なし
 7/13(火) 記述なし
 7/14(水) (日記)平取教会の壁の塗り替え
           岡村神父と話す。
 7/15(木) (日記)平取に向井山雄来る
 
 という動きになります。

「第三信」については、書かれた日を特定できませんが、時期的には7月下旬から8月上旬ぐらいだと思います。

 西川光次郎から「子供の道話」を20冊送ってもらい、そのうち15冊を白老土人学校の山本儀三郎に送り(礼状が届いたとのことですから、北斗自身白老に行き、山本先生に手渡ししたわけではないと思います)、あとの5冊を長知内学校に三冊、荷負小学校に一冊、当地(平取)の平村秀雄氏、同キノ子に一冊渡しています。

 この頃の北斗は多忙を極めたようです。昔話の原稿が書けない理由として、

「小生は最初の予定の如く参らず、目下生活の為労働して」「朝早くより夜遅くまで働きその余暇は雨の日と雖(いえど)も部落訪問をいたし、多忙はとても東京に居たる時より以上」「あまり多忙でとても原稿のまに合ない」

 と書いています。
 この頃の北斗がやった仕事としては、教会の補修、岡村神父の家の補修、土方の出面などが確認できます。
 

『医文学』に掲載された「アイヌの一青年より」について。
 これは北斗が東京を去る直前のT15/6/30に書かれたもので、医文学編集部への手紙でした。
 
http://www.geocities.jp/bzy14554/ainunoichiseinen.html

 草風館版コタンでは削除されているのですが、『医文学』掲載時には、冒頭に編者の長尾折三による文章がありました。

《アイヌに有為の一青年があり、違星滝次郎と呼び北斗と号する。私は松宮春一郎君を介して之を知り、曾て医文学社の小会にも招いたことがある。一昨年来東京に住してゐたが事に感じて帰国することゝなつた。この帰国には大なる意味があつて、喜ばしくもあるが、亦た悲しくもある。アイヌ学会の人士や其他の人々と共に心ばかりの祖道の宴を開いて帰道を送つた。此会には琉球の某文学士抔も参加されてゐた。其後左の如き手紙が届いたのでこゝに掲載する。その心事一斑を知ることが出来るであらう。》

 医文学では、この文章のあとに、北斗の文章が小さな字で(!)続くのですが、通して読むと、この「アイヌの一青年」という言葉が、長尾の文の中にしか登場しないということに気づきました。
 つまり、この「アイヌの一青年から」というタイトルは長尾が自分の文章(大文字)+北斗の文章(小文字)という記事全体に対して付けたものだとわかります。

 草風館版では、その一方の長尾の文章が削除されているので、あたかも北斗が自分の文章に「アイヌの一青年から」と自分でつけたようにも思えるようなことになってしまっています。 

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