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2008年9月

2008年9月20日 (土)

北斗からの手紙(1) 大正14年3月12日ハガキ

 北斗の手紙について、分析してみたいと思います。

 
 まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。

 宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
 成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
 金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。

 一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
 その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
 淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
 北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。

 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on

 現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
 
 まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
 ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。

 いい地図がありました。
 http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm

 この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
 そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。

 ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。

 次は内容に入っていきます。

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2008年9月13日 (土)

その時歴史が動いた「知里幸恵」

 

 10月15日、NHK総合の「その時、歴史が動いた」で、「知里幸恵」が取り上げられ、その中で、少しだけだと思いますが、違星北斗が紹介されます。(たぶん)

  だいぶ前に、NHKの方から問い合わせがあり、すこし協力しました。

 北斗が、どういう紹介のされ方をするのかはわかりませんが、NHKのこういう番組で、全国に違星北斗のことが知られることになるのはうれしいことです。

 みなさんも、ぜひご覧ください。

第340回
神々のうた 大地にふたたび
〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜
平成20年10月15日 (水) 22:00〜22:43 総合

<再放送>
本放送の翌週(月) 午後5:15~ BS-2 全国
本放送の翌週(火) 午前3:30~ 総合 全国 (近畿のぞく)
本放送の翌週(火) 午後4:05~ 総合 全国
本放送の翌週(土) 午前10:05~ 総合(近畿ブロック)

 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html

2008年9月 8日 (月)

ある疑念

今、年譜をバージョンアップしているところなのですが、その作業中に、ある疑念が。

年譜に「曜日」の記載をしていて思い出したというか、気づいた点があるのですが……。

北斗の日記の「昭和3年4月25日」を引いてみます。

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 四月廿五日 月曜日

 何だか咳が出る。鼻汁も出る。夜の事で解らなかったが、明るみへ出て見ると血だ。咯血だ。あわててはいけないとは思ったが、大暴風雨で休むところもない。ゆっくり歩いて山岸病院に行く。先生が右の方が少し悪いなと云ったきり奥へ入られた。静に歩いて帰る。

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 この、昭和3年4月25日は、昭和3年の日記の中で、唯一、実際の曜日が一致しません。実際は月曜ではなく、水曜日なんです。
 これは前から気づいていたのですが、そのままにしていました。

 で、4月25日が月曜なのは、昭和2年なんです。
 じゃあ、これももしかして、と思ったんですね。
 前に、昭和2年の日記がほとんど大正15年の曜日と一致していて、昭和2年として書かれているのが、実は大正15年だったということがありましたので。

 北斗は昭和2年の4月にもニシン漁のために、余市におり、そして昭和三年と同様、昭和二年も4月下旬に倒れています。(昭和二年は夏までに回復する)。

 では……昭和3年4月25日の日記も、じつは昭和2年の4月25日なのではないか、と思ったんです。

 まあ、証拠が揃っていないので、なんともいえませんが。

 この謎を解くキーワードは、やはり「大暴風雨」でしょうね。
 昭和2年と3年の4月25日の後志地方の天気を調べれば、どちらが正しいかがわかるはずです。

 ネット上では、ちょっと難しいので、これも現地でしらべなければなりませんね。
 

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2008年9月 6日 (土)

北斗からの手紙

 T様より、北斗が書いた手紙の写しを頂きました。

 以下の4通です。

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2008年9月 1日 (月)

北斗と平取

 北斗が平取に居たのは、大正14年の7月14日ごろから。
 平取教会の近くのバチラー八重子が管理する家に寄宿。(某忠郎氏のところに寄宿という記述もあり)。二風谷、長知内、荷負、上貫別などにかよっている。
 8月末には札幌バチラー宅へ、その足で余市に帰郷し、9月中頃までに再び平取に戻っている。その後、日高のコタンを旅している。
 
 翌昭和2年の2月に、兄の子が死んだため、余市へ戻っている。
 この後、2月に余市に戻り、鰊漁を終えて、5月中頃に戻る予定が、病気になり、余市に留まります。
 病気は7月には完治したようですが、この期間、北斗は余市の遺跡を巡って郷土研究を行い、また中里篤治と同人誌「コタン」をつくります。 
 この後、記録がないので、北斗は二風谷に戻っていないのではないかと思っていました。

 しかし、このコタンが出た8月から、9月10月にかけて、すっぽりと空白の期間があります。
 

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