北斗からの手紙(1) 大正14年3月12日ハガキ
北斗の手紙について、分析してみたいと思います。
まず、最初は大正14年3月12日の日付がある、金田一京助宛のハガキです。北斗が上京したのが2月中頃と思われますから、東京に来て一月経たない頃のハガキです。
宛先は「杉並町大字成宗332金田一京助」。当時の杉並は、東京市の「市外」でした。大正12年の震災で東京市内が壊滅的な被害を受けたため、人々は郊外へと流出し、東京が拡大しはじめた頃です。
成宗は現在の杉並区の成田あたりで、成田の地名は1963年につけられたもので、成田と田端の合成地名だということです。
金田一がこの当時、成宗に住んでいたというのは、「違星青年」にも出てきますね。
一方、発信者である北斗の住所は「淀橋町角筈316高見沢清」とあります。
その当時、すくなくともハガキを出した時点では、北斗は雇用者である、東京府市場協会の高見沢清のもとに寄宿していたということがわかりました。
淀橋町角筈は、現在の新宿区西新宿の一帯。
北斗が寄宿していたあたりは、当時の地図と現在の地図を比較して推測するに、このあたりだと思います。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.68378575&lon=139.69149754&sc=2&mode=map&pointer=on
現在の新宿公園や都庁のあたりは当時は淀橋浄水所でした。その浄水所の西に熊野神社があります。これは現在もあります。また当時の淀橋第六小学校がありましたが、それが現在の西新宿小学校ですから、それをもとに考えると、だいたい、このあたりになります。
まあ、一時的かもしれませんが、北斗が東京で住んだ場所がわかったのは嬉しいです。新発見です。
ここから北斗は、花園神社のそばの東京府市場協会に通い、大久保の希望社に顔を出し、成宗の金田一宅や、阿佐ヶ谷の西川光次郎のところに通ったのかもしれないと思うと、なんともいえない感慨があります。
いい地図がありました。
http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_shinjuku/shinjuku_3.htm
この地図の左下「玉川上水」と書いてある、その「玉」の字の上に小さく316と書いてあります。
そこが北斗が寄宿した高見沢邸があった場所であります。
ちなみに新宿も、この当時は東京市外、豊多摩郡淀橋町でした。こういった淀橋や角筈、あるいは成宗といった、伝統ある地名が行政の勝手で味気ない○○何丁目といった地名に変えられてしまったのは、本当に残念なことだと思います。
次は内容に入っていきます。
西川光次郎の手紙でもそうですが、北斗はまだ親しくなっていない頃には非常に慇懃で角張った候文を書くようです。
拝啓 先日は突前参上致し種々御厚情接し殊に有難く厚く御礼申し上げ候
戴きました「アイヌ研究」 は除に拝読致し居り候
といったぐあいです。
金田一の「違星青年」に描かれているように、北斗は、金田一の元に、本当に突然参上しました。
それも夜です。一日中、成宗の家を一軒一軒まわって、田んぼにはまって、泥だらけになって。北斗のいきあたりばったりの、愛すべき無鉄砲さがよく出ていると思います。
北斗は、最初の訪問の際、金田一の「アイヌ研究」という本を金田一から受け取ったようです。(このハガキの時点では、まだ北斗は知里幸恵の「アイヌ神謡集」を手に入れていないようです)。
そして、「アイヌ研究」を読み、感動します。
我等民族の為めに熱誠な同情なして下した先生を私しは 神様として感謝いたさねばなりません 私しはアイヌを斯くまで深遠な研究は誰れも為して ゐないものとのみ思い居り候
これはまた、「神様」とはオーバーなように見えますが、それほど感動したということなのでしょうか。
(中略)
来る十五日は(日曜日)また御伺い申したくと存じ居候*前以って御通知申し上げ候(午后からになるやも知れませんが)
今度は15日の日曜日に行きます、と言う予告ですね。この調子で金田一の元にまめに通い詰めたのでしょう。
堅苦しい挨拶で、このハガキは終わりです。
餘は御拝顔の上万々申し上げたく候 草々 不乙
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